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Colourless  作者: 白い人
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20話 いつか は おわる

 また公園(ここ)に来てしまった。俺は帰ろうとしたのに。

 先ほどから何となくの違和感が拭えない。

 俺が前まで居た場所が思い出せないのだ。つまりは戻る道が思い出せない。

 雨風を凌げるものも見当たらないこんな場所に居続けるのは物凄く不安だと言うのに、公園を出てすぐの角を曲がろうとしたらすぐに引き返してしまう。

 どうすれば良いと言うのだ。この公園から出たくないのか?いいや出たい。今すぐに出たい…のは山々なのだが、よくよく見れば周りに危険が潜んでいることに気付いた。

 透明があちこちにあるではないか。避けて通るのが難しくなってきている。いつの間にここまで染め広がっていたのか、平坦なこの場所では見分けづらい。もっと高い場所に行けば、町の全体像が見渡せるだろうか。

 ここから見える高い建物は…距離感が分かりづらい。見慣れていた町の土地勘も今では役に立ちそうにない。頭の中で朧げな地図をイメージしたが近場に何があったかすら、うまく思い出せない。

 ため息混じりの長い息を吐きつつ、空を仰いだ。


「雨、降りそうじゃん」


 灰色の雲が空を染め尽くしていた。


 ー


 今日は店長の顔を見に行った。倒れた時と比べてだいぶ元気が出てきたらしい。

 「心配するな」とか言って頭を叩かれた。

 …でもベッドから離れられるほどに回復している訳ではないみたいだった。腕が少し細く見えた。撫でられた時、少し泣きそうに(その後はかき消したようで読めない)


 初めて、店長たちのお孫さんに会って、少しだけ紹介された。関係ないし見た目は全然違うけど、少しだけ  と雰囲気が似ている女の子だった。

   ちゃんと同い年だった。そういえば最近会えてないな。姉ともども元気にしてるのかな。あんたなら連絡が取れているのか?


 *


 加賀美(かがみ)日音(ひのと)

 幼馴染だったらしい彼女のことを俺は殆ど覚えていないのだが、牡丹(赤髪)も知人だと言い始めた。エビが口にしなかった日音の苗字を彼女は言い当てたのだ。


「……かがみ」


 ボソッと(あきら)ちゃんが呟いた。何か引っ掛かるものでもあるのか難しい顔をしている。


「凄い…偶然だなぁ。日音(ひのと)の知人だったなんて…なぁ?」

「…うん。そうだね」


 エビと花星(はなほし)さんがお互いを伺うように見つめ合った。二人は明らかに戸惑っている様子だ。

 エビ達にも日音(ひのと)の知らない一面や、交友関係があったという事だ。


日音(ひのと)とは、あたしが小学生の頃からの付き合いよ。姉妹揃って転校してきたのがきっかけよ」


 さらっと牡丹(赤髪)が口にした「姉妹」が引っかかった。そんな情報は初耳だ。エビを見ると、何故か首を捻って花星(はなほし)さんに確認していた。


「妹…?俺知らないんだけど」

「……忘れている、のかも。どうかな?(あきら)ちゃん」


 花星(はなほし)さんは俺が予想だにしない可能性を提示した。皆の視線が(あきら)ちゃんへと向けられる。

 彼女は飲み干したカップの底をじっと見つめていた。


日音(ひのと)さんは、今どうされているのでしょうか…。この町の何処かで迷子になっていたりしないですかね。…日月(ひづき)さんも」


 加賀美(かがみ)日月(ひづき)。忘れられたのかもしれない女の子。俺は会ったこともないその子の状況を他人事と思えなかった。紅陽(こうよう)さん、それにひょっとしたら店長に俺は覚えられていないのだ。一方的に覚えている状況はひどく不快で、寂しい。

 何故こんな事になっているのか、その原因に心当たりがなく、自分を含めて思い出させる方法が分からない。面と向かって話しても、物理的に触れてみても、まるで思い出せない。記憶が抜けて、どこにもないみたいな感覚だ。…迷子みたいな。

 今更めいちゃんの怯えるような顔を思い出した。あの子もどちらかの立場、あるいは両方の状況にあったのかもしれないと思い立った。

 家族から忘れられている、家族を思い出せない、そんな状況はとても残酷に心を苦しめる。

 (あきら)ちゃんはその可能性にいち早く気づいていたのかも知れない。

 そして、出会ったこともない日音(ひのと)や、その妹にまで気にかけようとしている。…優しいな。


(あきら)ちゃ」

「ワン!」


 俯いたままの彼女を俺は呼ぼうとした。それは斑犬の吠え声によって遮られた。

 シロは入口の方を睨んで唸り声をあげている。まるで何かがそこにいて、敵視しているみたいだった。突然の豹変ぶりに一同が驚きと動揺を隠せないでいた。


「どうしたんだ?」「……」

「驚かせちゃったのかな」「…ワンワン?」

「シロ?」


 (あきら)ちゃんが飼い犬を宥めようと近づこうとした。ゆっくりとシロの首筋に撫でるように手を沿わせ、落ち着かせる。吠えるのは止めたシロだが、入り口を睨み続けている。そこに何があるのだろうか。俺は気になって立ち上がる。


(ともえ)?お前までどうした」

「何かが見えてるんだ。あいつには」

「はあ?」


 確証はない。だけど、いつもシロは誰よりも早く何かを見つけている。特に()()()()()()なら。

 入り口の扉がゆっくりと開いた。瞬間、摩訶不思議な現象が起こる。

 人の形をした何かが足元から浮かび上がったのだ。まるで空の容器に色水が注がれていくように、透明な膜の中で波打ったり、色が飛び跳ねるように広がって10代くらいの女の子の姿を形成した。


「キャハ☆お仲間がイッパイいますぅ☆」


 女の子?は甲高い声でそう言った。理解が追いつかず呆然としている俺達を順繰りに流し見て笑っている。


「ありゃ☆()()っぽい子が結構、残ってますねぇ☆」


 ポケットから棒付きキャンディを取り出して包装を取り除く女の子。気のせいだろうか、今千切った包装袋が霧のようにかき消えたように見えた。咥えこむまでに見えたキャンディの色も変で、球体の透明だった。何なのだこれは。


「かくれんぼは終わりです☆お家に帰りましょうね☆」


 パンッと手を叩く音が響いた、気がする。

 あれ?誰が叩いたんだ?ん?何かを言っていた…のは誰だ?俺か?何の話を…していた?というか……どこだ?ん………?………痛………い


 *


 時間が止まったかのように静寂だった。その場にいるもの達は皆、呼吸を忘れてしまったかのように眠りこけてしまっている。

 (ともえ)と呼ばれている青年は勢いよく机にでもぶつけてしまったのか、宙に浮いた顎が赤くなっている。しかしスヤスヤと心地よさそうに眠っているので平気なのかもしれない。

 同い年くらいの青年カップルはお互い凭れ合って眠っている。メイドの少女と向かいに座る少女は椅子の背もたれや背後の壁に凭れて眠っている。

 そして白い毛並みだった犬は飼い主に抱かれ大人しそうに目を閉じている。


「さ☆帰りましょうか☆日月(あきら)さん☆」


 派手な色の服を着た少女?は、この場で意識を保ったままでいる彼女へと声をかけた。

 愛犬を優しく撫で付ける彼女の表情には、この場に対する驚きはなかった。何かを諦めているような顔。促されて、彼女はようやく愛犬の側を離れる。

 立ち上がる寸前まで彼女は愛犬に触れていた。


「そんな顔しなくてもまたすぐに会えますよ☆いつまでも元気なワンちゃんに☆あ☆禁句でしたね☆今の無し☆無し☆」


 作り笑いで戯言を宣う女を無視して、彼女は出口の方へと向かう。

 途中、彼女の視界に意識を失っている1人の男が映る。

 彼は透明缶に顎を乗せてうつ伏せたまま気を失っていた。偶然なのに何処か彼らしい間抜けな姿だ。

 彼女は彼の頬に触れようとした手を止めた。伸ばした手を引っ込めると、胸の前で封じるように手を組んだ。


「その人形は…忘れておきますか☆思い出が碌にありませんし☆」


 声を無視して歩き出した彼女は、レジカウンターを経由してお店の扉を開け放ち出て行った。

 謎の少女も少し遅れて店を出て行った。楽しそうに全ての痕跡を消していた瞬間を見たものはいない。

 

 1人分のコーヒーカップもレジ台に置かれたお金も、少女の愛犬の首輪さえも透明になってしまった。


 *


 俺はいつの間にか客席で居眠りをしていたらしい。お客さんが来ないからと油断しすぎた。気づいたら閉店時間ギリギリだった。片付け、何もしていない。


 急いで洗い物やら掃除をしようと動くと、その場にいるみんなの困惑している表情が見えた。

 え?寝ていたの俺だけじゃないだって?集団睡眠?怖っ。ガスでも出てたんじゃないの?

 苦しさはあまり感じられなかったと思うが、念のためその場にいた全員の体調確認も済ませた。

 皆、気分などに異常はないようだ。

 裏にいた紅陽さんもボーッとしていたようで気付かぬうちに時間が経ってしまったと笑っていた。変なこともあるものだ。


 変と言えば他にもいくつかある。店の中に野良犬が寝そべっていた。なかなか起きないし重いので放置しているが、衛生上良くないよなぁ。でも毛並みとか艶があって、飼い犬みたいなんだがなぁ。…撫でたくなる。

 ダメだろ!って邪念を払おうと横を向くと牡丹がじっと犬を見つめていた。

 なんだか目が怖かった。

 俺は気持ち、逃げるように洗い場へと向かった。


 洗い物は多く残っていなかった。けれど、汚れが残らないようにしっかりと洗浄しておく。水気もしっかりと拭き取ると自分の顔がうっすら反射するくらいにピカピカになった。


 次は店内掃除。テーブルや椅子の拭き掃除をしているとカレンダーが置きっぱなしになっていた。

 替える時に戻し忘れたやつだろう。あるべき場所に戻すと、今月の写真が目に届きやすい高さになる。

 写真も芸術だなと見ていて感心してくる。俺が撮っても、こうは映らないだろう。

 構図は読めても、技術がない。

 顔も知らないプロの腕を羨ましがる自分が少しだけ恥ずかしい。

 …何か忘れてないか?あ、紅陽さん。

 倉庫整理をしている彼の元へと急いで向かった。


「ありがとう、もう上りでいいからね。助かったよ」

「いえ、まだ出来ますよ」

「大丈夫。あとは動かすものもないし、お友達も待たせてるでしょう?」


 荷造りのような倉庫整理が落ち着いたら、紅陽さんは帰宅を勧めてきた。俺が延長を希望しても、優しく断られた。居ても邪魔だと言う牡丹の声が怒りを誘ったが、事実でもあった。

 借りたエプロンを畳んでロッカーに戻す。荷物もさほどない為に、帰り支度が一瞬で済んでしまった。

 いつもなら裏から出ていたのだが、待たせているエビ達がいる表の方へと顔を出す。


 犬が目を覚ましていた。古草さんとエビが興味津々に見つめているのが見える。2人とも撫でたいからか中空に手を彷徨わせている。

 野良犬の起き上がった姿を見ると、やはり毛艶のいい黒毛がフワフワと全身を包んでおり、撫でたいを通り越して、いっそのこと抱きしめたくなるような魅惑さを秘めていた。


「誰だよ。この犬連れ込んだの」

「知らないわよ。いつの間にか行儀良く寝てるこの子が居るんだもの」

「みんな一緒にお夕寝してたんだから笑っちゃうよね」

「それほど、この店の居心地がいいと言うことだろう?」

「フフ、褒めてもコーヒーのおかわりしか出ないわよ」


 いつの間にかエビと牡丹が談笑し合う中に発展していた。洗い物をせっかく終えたと言うのに追加を出そうとしてんじゃねぇよ、まったく。

 牡丹も古草さんも仕事モードは終えており、友達と話すようにエビと接している。あれ、2人が接客モードの時なんてあったか?…まあいいや。

 知らない人間達に囲まれたからだろうが、黒犬は何かを探すようにキョロキョロとその場を回り始めた。一人一人の匂いを確かめるように嗅いだ後、店内を練り歩き始める。…掃除したんだがなぁ。

 あるテーブル席に差し掛かると顔を上げた犬はソファに昇り、あるものを咥えて俺の元へと持ってきた。

 アルミ缶だ。コーヒーの銘柄がプリントされたメジャーなやつ。俺もたまに飲むことはあるやつだが、喫茶店の中に落ちていたのは中々に侮辱的だ。

 多少の怒りは湧いたが、同時に俺の掃除の甘さが露呈したと言う事実に思考を切り替える。落ち着いた俺は犬が咥える空き缶を貰い受けた。


「よく見つけてくれたな。ありがとう」

「ワン」


 カランと音が鳴った。空き缶の中に何かが入っている。ゴミでも入れてあるのかと嫌な顔をしてしまうが、空き缶を傾けて出てきたのは透明なビー玉だった。何で?


「それ誰かの忘れ物なんじゃね?」


 エビが可笑しなことを言い始めた。ただの空き缶とビー玉を?


「わざわざ洗ってあるし、蓋っぽいのも付いてるぜそれ」

「本当だ」

「手作り?」


 プラ板みたいなのがセロハンテープで空き缶の飲み口に接着されたのが、プラプラと揺れている。

 手作りのおもちゃ?お守り?意味がわからない。


「預かっといてあげれば?取りに来るかもだし」

「なら、一度洗ってあげてよね。咥えちゃってたし」


 エビと牡丹がそれぞれ無責任なことを押し付けてくる。…何で俺が?


「渡されたのアンタじゃないの。拾った者が最後まで責任を持つのよ」


 牡丹が偉そうなことを言ってきやがる。年下だよな、この娘。


「年上マウントするなら、それらしい人間を見せなさいな。お・に・い・さ・ん」

「おーメイドさん言うねー。そうだぞーいいとこ見せろよー」


 可愛くねぇ女だわ、こいつ。エビはうるせ。


 洗い場から戻ると、野良犬が撫でまくられていた。…牡丹に。


「モフモフ」

「…何やってんだお前」

「見てわからないの?撫でてるのよ」

「何で撫でてるのかがわからないから聞いてんだよ」

「意味が必要?あっても答える義理はないわ」

「け、可愛くねー」

「モフモフだからよ」

「答えてんじゃねぇか!」


 終始適当な牡丹に呆れていると、トイレから戻ってきたらしい花星さんと目が合った。エビとは真反対に口数が少ない彼女とは、いまだ距離感が掴めずにいる。視線を逸らした彼女は、今度は野良犬をじっと見つめだした。


「触りたいの?」

「……」

「……」


 今睨まれた?分かんない。とりあえず道を避けてあげて、俺はレジの方に向かった。


「エビ、精算したらそろそろ帰るぞ」

「お?…おう、そうだな」


 エビが財布を持って歩いてくる。

 レジは牡丹が何も言わずに打ってくれた。

 少し割引された金額が表示されて、俺とエビは半分ずつ出し合った。コーヒーのおかわりは本当におまけしてくれたようで、俺はどう言った顔が正解なのか分からずじまいだったのだが、エビは爽やかに「美味かった、ありがとね」などと笑顔を向けている。対する牡丹は様になった笑顔で「また来てくださいね」と返していた。…俺には笑顔が向けられなかった。


「あ、そうそう。もしまた来るんだったら、最終日にしなさい。お婆ちゃんが来てくれるから」


 牡丹は俺の方を見ずにそんなことを言った。俺は探すようにカレンダーに視線を向ける。

 日付のところに赤い丸を付け、強調するように【最終日!!】と書かれた部分に目が止まる。

 31日。大晦日。年越し。何だっけ?

 

「分かった。…それじゃ」


 何か引っ掛かるものがあったが、俺は出口の方へ向かう。扉を開けるとカランカランとドアベルが騒ぎ出す。上に注意がいって、俺と扉の隙間をすり抜ける影に気づかなかった。

 野良犬が尻尾を振りながらこちらを見ている。

 

「なんだ、お前も帰るのか?」

「ワン」


 背後で牡丹の寂しそうな声が聞こえるが無視して野良犬に手を振ってやる。


「行け行け」


 黒犬は一度吠えたかと思うと、振り返って走り出した。俺はその背中に手を振ってやるつもりだった。グンッと何か紐状のものに引っ張られるような感覚がしたと思ったら、体が前のめりになり転びそうになる。慌てて駆け出すと、さらに引っ張られる感覚が強まり、止まることができなかった。


「何だこれっ!!?」

「巴!?」

「……」


 背後の二人が遅れて、走り出す音が聞こえたがすぐに遠くなっていく。何故か黒犬が止まるまで、引っ張られる感覚が止むことはなかった。


 いつの間にか知らない道に入っていたみたいで、息が整ってからようやく周りの景色に意識が向いた。

 エビと花星さんも追いついた。二人はそんなに息を切らしていなかった。


「何で突然走り出したんだ?」

「俺にも分からん。…また!?」


 突然背後の方へ引っ張られる感覚がしたと思ったら、また犬が駆け出しているのが見えた。原理は分からないが、犬に絡まった細い糸みたいなものが俺の右腕を引っ張っているのだと思う。

 見えず、掴めもしないが、右腕の袖あたりが一番強く引かれている。


「と、止まっ、れ……」


 俺の息切れた命令は、すぐには受理されなかった。数十分ほど走らされて、ようやく見慣れた大通りに突き出たところで犬がようやく止まったので、俺は膝に手をついて息を吐いた。し、死ぬ……。

 数分で追いついたエビと花星さんは涼しい顔をしていた。…な、なんでなん?

 犬のくせに横断歩道は律儀に赤信号で止まりやがった。いや良いんだけども、変な奴だな。


「ワン」


 信号待ちをしていて異変に気づいた。

 信号が青に切り替わった瞬間、俺と犬は駆け出した。人を避けて、避けて、避け続けて、知っている道を突き進んだ。

 息が切れそうになっても、構わず走った。あまりにも不気味だったから。無我夢中に走ったのはいつぶりだろうか。


 すれ違う人の全てが蝋人形のように動いていなかった。

 思い返せば、喫茶店を出てからすれ違う人全員が停止していた。()ですら例外ではない。

 音のしない街がこんなにも悍ましいだなんて、知りたくもなかった。


 家に帰りたい。これは夢だ。布団に入って眼を瞑れば、現実の俺が眼を覚まして夢が終わる。

 もう少しだ。

 家が見えてきた。

 何故か犬の方が先に扉の前に辿り着いていた。こいつもここが目的地だと言わんばかりにこちらを見てくる。


「はぁ、はぁ、ただいま!!…父さん?母さん!」


 中から声は返ってこない。まさか誰もいないのだろうか。ふと、先ほどの人々の姿が脳裏をよぎり、背筋を震わした。

 犬が我が物顔で入っていく。足跡が奴の行き先を物語っている。台所か?

 声がした。聞き覚えのある女性の声。母さんだ。


「もう、どうして床が汚れているの?ちょっと、この子お風呂場に連れて行ってあげてー」

「何だーこの足跡?おーい、雑巾どこだっけかー」


 廊下の先の部屋から男性が顔を出した。父さんだ。二人に異変はなかった。


「た、ただいま。帰りました」


 台所から廊下に顔を出して、犬を抱き上げて連れてくる女性。廊下に出揃った面々は俺を見つめ、揃って不思議そうな顔をした後、「おかえりなさい」といった。


 俺はそれがなんでか嬉しくって、少し涙が出た。父さんに頭を撫でられたので、それをやんわりと断って黒犬を風呂場に連れて行った。クロを洗い終わった頃に、エビ達が家にやってきた。

 困惑した表情の二人に置いて行ったことを謝罪してから、家の中に招き入れた。


 *


 賑やかな客と一部同業者?が帰った後の喫茶店内は怖いくらいに静かだった。


「ちょっと、私まだいるよ」

「…あなた。お手伝いするんじゃなかったの?」

「してたじゃん。しっかりと接・客」


 殆ど客同然だった気がしてならない。常連顔で絡んでくる迷惑な方の。

 苦情が無かったのは、彼女の技量?なのかもしれ……ない?


「牡丹ちゃんより、上手いと思うけどなぁ」

「言うじゃない。今から接客してあげましょうか?」

「ほら、すぐ感情に左右されちゃうんだから。そう言うところも可愛いと思うけど」


 彼女の指摘は尤もだった。特に今日は感情の浮き沈みが激しかったように思える。

 人前で泣いたのなんて…汚点すぎる。


「ん?あたし、誰と喧嘩したんだったかしら」

「そりゃあ……あの……ん?」


 二人して思い出せなかった。記憶違いのようにも思えてきた。


「牡丹!来てくれないかー?」

「はい!」


 おじいちゃんに呼ばれたので、急いで声の方へ向かおうとした時、背後から鈴が呼び止めた。


「牡丹ちゃーん。約束ってなんだっけー?」


 何も答えられなかった。

 無視するのは嫌だったので「ごめん」と謝ってその場から逃げるように立ち去る。

 「あれー?」という鈴の声が聞こえなくなった時に、あたしは喪失感に包まれた。

読んでいただきありがとうございます

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