21話 キミ は 誰?
あっという間に雨は本降りになった。
荷物を抱えて走っただけで、簡単に体力が尽きた。
高架下に逃げ込むのが精一杯だった。見えていない場所には近づくのも危険だし、見えている場所でも許可なく入りづらい。
誰ともすれ違わなかった。まるで人が居なくなった世界に自分一人置き去りにされた気分だ。
寒くなってきた。少し雨に濡れて冷えたらしい。
柱にもたれかかり雨が過ぎるのを待っているが、一向に雨音が止む気配はない。
「ケホ…」
咳が出てきた。腹も空いた。帰りたいという気持ちが強くなる。けれど、どこに帰ればいいのかが分からない。
仕方なく雨雲を見つめ続けるしかない。
キラキラと何かが光って見えた。
ぼんやりと霞んでいく視界の中で見えたもの。
それは意識が途切れるまでチカチカと揺らめいていた。
冷たい…いや、ほんのり温かい。微睡の中を揺蕩っている様な心地で、より深い方へ沈んでいった。
ー
少し、日記を書くのをサボってしまった。
嫌なこと続きでそれを書き記すのが耐えられなかった、なんて言い訳してもな。
書かなくても分かるだろ。どうせ俺しか読まないんだから。読み返すかも怪しいけどな。
叔父さんの体調、早く良くなってほしい。店長の時のことを思い出して、すごく怖い。
突然いなくなるとか、あり得ないだろ?もうやめてくれ。
*
「おはよう」という声で目が冴えてきた。見れば無駄に整った顔の野郎がコチラを笑顔で見つめていやがる。
「ああ」とそっけなく返してやると、「なんだよ、寝起き悪いなぁ」とさらに笑った。
エビに「うるさい」と言い返そうと思ったが、代わりに大きな欠伸が出てしまう。大きく伸びをするまでがワンセットだ。
なんだか最近疲れが溜まっている気がする。
変な夢まで見て、少し寝不足気味だし。
「夢?どんな」
エビが俺の独り言に興味を示した。どんな、と問われてしまうと眉間に皺が寄ってしまう。変だったことは間違いないのだが、その変さをどう表現すれば良いものか。一つずつ要素を上げていくか。
「犬が出てきた」
「変なのか、それ」
「あとお前も出てきた」
「おいこら。それも変に含んでるんじゃないだろうな」
「あとは…」
コンコンと扉を叩く音がしてそこで会話は途切れた。数秒後にガチャリと音を立てて扉が開く。
現れたのは花星さんだった。昨夜借りていた美穂さんの寝巻きではなく、彼女の私服に着替え終えている。たった今、返してきたところらしい。
今更気づいたが、エビも着替えを済ませていた。 俺だけが秀人さんの寝巻き(昨日借りた)状態だ。何それ恥ずくない?
寝癖だらけの俺を、花星さんは一瞥して「おはよう」とそっけなく挨拶した。
俺も挨拶を返そうとしたのだが、花星さんがベッドに腰掛けてエビと談笑し始めた所で断念した。
黙って布団を片付けて着替えてこよう、そう思いました。
ふと開けられたままの扉の方に目を向けると、犬が静かに座っていた。
犬は感情の読めない瞳で真っ直ぐにこちらを見ている。部屋に入ってくる気がないのか、その場から動かない。
「何だよ」
俺が声をかけると、しばらくして犬は動き出し廊下の方を向いた。犬が立ち上がって歩き出そうとする時、一度こちらを向いた。その目は何かを訴えているように見えて、嫌だった。
頭をガシガシと掻きむしり、不快感を痛みでかき消そうと試みる。より悪化しそうになり、エビに心配されたのでやめた。
脱衣所で服を着替えようと廊下に出ると、犬が隣の部屋の前で、扉を見つめて座っていた。
「その部屋」
物置部屋と聞かされている部屋。中に入ったことはなく、何が仕舞われているのかも知らない謎の部屋。
「気になるのか?」
俺がそう声をかけても犬はこちらに視線を向けることはなかった。尻尾だけがユラユラと振られている。
それにどういった感情が込められているのか俺には分からない。この家の一員と説明を受けても全く馴染みが無いのだ。いつから一緒にいたのか、全くもって思い出せない。
犬がいつからか扉に前足をついていた。入りたいのだろうか。それとも中に欲しいものでもあるのか。
俺はいつのまにかドアノブに手をかけていた。
「巴くん」
呼び声のした方を見ると、花星さんが怖い顔で俺を睨んでいるのに気づいた。その背後にはエビが困ったような表情をしてこちらを見ている。
「何を、しているの?」
「何って…」
花星さんの問いに対する答えがスッと出てこなかった。
俺はそもそも何をするつもりだったのか。着替えだ。一階に降りて、脱衣所に向かって…それなのに俺はまだ2階にいて、隣の部屋の前にいた犬を気にして、扉を開けようとしている。
「どうして?」
花星さんが質問を変えた。どうしてか…犬が入りたそうにしていたから…いや、違う。
俺がこの家の秘密に迫ろうとしているんだ。
俺は自身がこの家の中で浮いている自覚がある。
食器も服も自室にですらどこにも俺という存在は感じられない。
代わりに感じてしまうとある違和感。その答えに近付くヒントがあるかもしれない。
「昨日、夢を見たんだ。2階から降りてくる美女のさ。ひょっとしたら隠れていたりしないかなって。そんなとこ」
俺の返答は花星さんの意に沿わないものだったようで呆れたような顔をさせてしまった。エビも苦笑いだ。
自分でも意味不明なのはわかっている。
名前も知らないし、見間違いかもしれないし、そもそも夢だと言われたらそれまでだ。
それでも良い。
ただ会ってみたいな、会えたらいいなと。
そんな気持ちでドアノブを捻った。
思ったよりも軽く、扉は簡単に開いた。
*ー*
当然と言えばそうだが、扉を開けた先にあるのは部屋だった。
ただ俺の部屋とは作りが違い、広さは半分ほどで雑多なものが散らばっている。物置部屋というよりもこれは…。
「お兄ちゃん?」
部屋の奥の方に置かれた勉強机で何か作業をしていた女の子が、俺の侵入に気づいてそう呼んだ。
椅子を引いて立ち上がった少女が、人が居たことに驚き固まったまま動かない俺の元に駆け寄った。
「会いにきてくれたんだね、うれしい!」
「…君は」
抱きつかれた時にふわりと花の香りが辺りに舞ったような気がした。嗅いだことのある匂いだ。
懐かしさすら感じるその香りで一つの名前を思い出した。
「めいちゃん?」
「久しぶり。お兄ちゃん」
どうしてだろう。思い出せた名前の少女は、確か5歳くらいの背丈だったはずなのだが、随分と身長が伸びている。目の前にいる女の子は、俺の胸あたりに頭頂部がきている。
室内には他にも目に入ってくる情報がある。
部屋の片隅に転がっているランドセルは長いこと使われたあとのようで、縁が少しハゲかかっている。クローゼットに掛けられている学生服も視界の端に映っている。
彼女はもう小学校の高学年なのだろう。随分と時が経つのが早いと思えた。
「大きくなったね」
「そうかな。六年生になったからかも」
あれ。俺は何をしにきたんだったか、めいちゃんに会いに?いやいや…。
取り敢えず、抱き付いたままのめいちゃんを優しく剥がして距離を取っておく。いや、こういう時どうしたら良いのかよく分かんないし…。
距離を取ったのもあってか、俺の背後から近づいてくる影にめいちゃんが気づいて嬉しそうな声を出した。
「シロちゃん!まだ元気なのね」
「わん!」
めいちゃんに呼ばれた犬が駆け寄った。めいちゃんに抱擁されると、遠慮のない顔舐めをめいちゃんに迫っている。涎まみれのめいちゃんはなんでか嬉しそうに笑っていた。
その異様な光景は、不思議と安心を感じさせた。それよりも。
「シロ…って?」
「わん」「どうしたのお兄ちゃん」
それは犬の名前なのだろう。
偉くしっくりとくる呼び名をめいちゃんが知っていた。それに感化されたように呼んでしまったのだが、犬は返事でもするように鳴いた。
めいちゃんが、おかしなものを見るような目で俺を見つめている。
その名におかしな点はない。あるとすれば聞き返した俺の方だ。と幻聴が聞こえ始めた。
何でか熱いものが込み上げてきて、めいちゃんの前で変な顔をしてしまう。待ってくれ、理解が追いつかないんだ。
「巴」
エビが部屋の外から俺たちを見ていた。
そうだった、俺はあの家に居たはずで、ただ物置部屋に入ろうとしたはずだったのだ。
何かを求めて。誰かを探して…だったか。
一旦、整理をしようとめいちゃんに持ちかけようとして振り返ると、彼女がまた目の前に立っていて俺の服を指差して首を傾げた。
「これってパジャマ?なんで?」
「あ」
パジャマのままだったことを思い出したと、同時に「あははは」と、めいちゃんに笑われてしまった。気恥ずかしさが込み上げてしまって、廊下に逃げてしまいたくなるのだが、それは踏みとどまることになる。
「うげっ!」
エビの背後に隠れていた花星さんが、堪えられなくなったかのようにエビを突き飛ばして部屋に入ってきたのだ。先のはエビの鳴き声である。
「わわ!!」
めいちゃんと向き直った花星さんはガバッと抱きしめた。突然の抱擁に、めいちゃんが「え?え?」と驚いている。
「お兄ちゃん、このお姉さんとお兄さんはだあれ?」
説明を受けたいのは俺の方だが、ひとまず俺は、めいちゃんに抱きついて離れない花星さんと突き飛ばされて壁に体当たりしていたエビの紹介を済ませた。
「そっかぁ。お兄ちゃんのお友達なんだね。面白い人たちだね」
花星さんに抱きつかれたままの状況をめいちゃんは、すんなりと受け入れていた。撫でられているのか、揉みくちゃにされているのか、客観的に見ても分からない。
エビに剥がすよう頼んだが、「嫌!!」という花星さんの本気の拒絶を受けエビは意気消沈して動かなくなった。
取り敢えずコイツらは放っておくことにして、俺は一番の疑問をめいちゃんに尋ねることにした。
「ここって、めいちゃん家の部屋なんだよね?」
「うん。わたしの部屋って…キャー!!片付けるの忘れてた!!」
床に山積された漫画本やら、大量のスケッチブック、お菓子の空ゴミ、数本のペットボトル、くしゃくしゃにされた紙ごみ….ゴミが多いな。
めいちゃんは慌ただしく物を寄せ集めたり、動かそうとして何かに足をぶつけている。
俺も片付けを手伝おうかと紙ゴミに手を伸ばそうとしたところで、めいちゃんが叫んだ。
「触らないで!!お兄ちゃんたち、ちょっと出て待っててもらっても良いかな?ごめんね!」
どうして?と聞き返す前に花星さんが無言で扉まで押し出してきた。俺が廊下に出たあと、エビを拾った花星さんが出てきて、扉を閉めた。
「え?閉めて良いの?理屈は分かんないけど、どこでもド…」
「女の子の用意を邪魔する気かな、巴くん」
「いえ、滅相もございません」
どもることなく鬼気迫る花星さんに俺は従うしかできなかった。エビは…首締まってませんか、それ。
待つこと数分。着替えを済ませられるほどの時間が経ってから、扉が自ら開いた。隙間から顔を覗かせるのは勿論、めいちゃんだ。「入って良いよ」と笑顔を見せている。
室内を覗いてみると先ほどと広さはそんなに変わっていないが、見違えるほどに整頓されていた。
それでも大量のゴミが消えても雑多な部屋に感じられたのは言うまでもない。
漫画は棚に仕舞われたようだが、巻の並びがめちゃくちゃ…いや、元々全巻を揃えていないのかもしれない。子どもの小遣いで揃えるのって難しかったもんなぁと懐かしい気持ちが芽生える。
机の方に目をやると、先ほどまであった資料やらが整頓されていた。棚に戻すのは諦めたのか、作業を一時中断していたから戻す必要がないのか分からないが、その隣のやたら多いペンの量が気になって机を凝視してしまった。
「ところでお兄ちゃん、どうして突然会いにきてくれたの?」
「それは」
話を振られてめいちゃんの方に視線を向けると、左に花星さん、右に犬を抱いた状態で彼女はこちらを見ていた。三者共にその状況に慣れきったかのような落ち着き様だ。もういっそ、俺も受け入れてしまおう。
「偶然というか、不思議な事態が起こっているからとしか言えないんだ。今、あの扉は俺が住む家の扉と繋がっている」
俺は背後の扉を示しながら、説明…分かっていることを伝えた。
部屋を出た方が分かりやすいかとも思ったが、最後まで静かに聞いてくれためいちゃんは、俺の拙い説明である物を思い出したらしい。
「懐かしいね。昔、皆んなで不思議なトンネルを通ったことがあったよね。似たような現象なのかな」
「昔…そうかもね」
めいちゃんの言う現象とは、俺にしてみれば数日前の出来事なのだが、今のめいちゃんからしたら相当前の出来事になるのだろう。
頭が混乱しそうだ。
「なあ巴」
「ん?」
エビが不思議なトンネルについて小声で聞いてきた。
エビも一緒に通ったことがある『霧の道』のことだと教えると納得していた。
三人で通ったことがある道。あれ、もっと居たかな。
花星さんは話を聞いていないのか無反応だ。
「ねえお兄ちゃん」と、めいちゃんが少し不安そうな顔で尋ねてきた。
「わたしがあげたアレってまだ持っててくれているのかな」
「え」
アレってなんだ?何を貰ったんだったか。記憶を巡らせても、全く思い出せない。
俺の反応から察したのか、めいちゃんが表情を曇らせている。
「もしかして、捨てちゃったかな」
めいちゃんがぎこちない笑顔を作り、そう言い換えた。
俺はすぐさま「いやいや!」と必死に手を振って否定する。めいちゃんの隣にいる花星さんが射殺すような視線で俺を捉えていたからだ。
話聞いていないんじゃないのかよ、あの人。
「勿論、捨ててなんかないよ。今もまだ持ってて、大事にしまって…」
「巴くん、嘘はダメ、だよ」
「は?」
嘘と言ったのは花星さんだった。なんなのだこの人は。俺を嫌っているのか知らないが、余計なことは言わないでほしい。
何の話をしているのかも分かっていないだろう奴が口を挟まないでほしい。
「わたし、知ってるよ。その為に、ここにいるんだから」
「何のことを言ってるんだよ」
「これに、見覚えは、ある?」
花星さんはいつから握っていたのか、一枚の栞を見せびらかした。押し花だろうか、赤…ぽい色の絵が見える。
「何だよそれ」
「巴くんの、ズボンの、ポケットに、入っていたものだよ。美穂さんが、洗濯する前に、気づいて、取り出してくれたの。今朝、代わりに、預かっておいてと、渡されたの」
覚えがない。無意識にポケットの中に手を入れてみたが、特に入っているものはない。思い出すこともない。
花星さんが、めいちゃんの手に優しく握らせるように栞を手渡した。
「これの、ことじゃないかな?」
「うん」
めいちゃんが小さく頷いた。目尻に涙を堪えて、栞を見つめている。
その表情に誰かの面影が重なった。動悸が乱れて、息苦しくなってくる。目の内側が痛んでくる。
俺が頭を抱えて苦しみ悶えていると、エビが駆け寄ってきた。
「大丈夫か、巴」
「お兄ちゃん」
突然、痛みが引いた。めいちゃんの心配する顔を見た直後だった。無性に誤魔化さなければいけない気がしてきて、「何でもない」と冗談を装った。
途端に、ぎこちない空気が漂い始めた。
最初に口火を切ったのは花星さんだった。
「巴くん、ローズマリーの花言葉って知ってる?」
「ローズマリー?」
「この花だよ」
栞を示す花星さんに、俺は「いや」と答えた。花言葉なんて久しぶりに聞くが、覚えている訳がない。前に教わった気がする…誰にだっけ。
「『追憶』、『思い出』、『変わらぬ愛』、他にもあるけど、この意味分かるかな」
「どういう事?」
「巴……」
エビが呆れたような表情で俺を見ている。何だ、こいつらだけ通じ合って俺を小馬鹿にしているというのか?
ため息混じりに花星さんが答えを発した。
「つまり、これはめいちゃんからの、愛の告白で間違いないのよ。ね、めいちゃん」
「だよな」
ナニヲイッテイルノカワカラナイ。
エビが隣でうんうんと首を縦に振っている姿が段々と赤べこに見えてきた。
余計な思考にハッとして花星さんの方に視線を向けたつもりが、めいちゃんとばっちり目があってしまった。少しだけ頬を赤らめた顔を逸らされた。
「お姉さんお花に詳しいのね。でも昔の事よ。今はもう吹っ切れたんだから」
めいさん!?あどけない少女が、甘さも苦さも経験した大人の女性の雰囲気を纏っている。俺の知らない間にどんな経験をしたっていうんだよ。
「待ってても振り向かない男に、時間を費やすなんて無駄だって悟ったのよ」
もはや誰だよ!俺の知り合いにもこんなこと言える女性いないよ。花星さんが、めいさんを抱きしめて俺を睨んでいる。いつのまにかエビも花星さん達の後ろに立ち、俺に険しい顔を向けていた。
何だこの空気。圧倒的アウェー感。覚えがあるぞ…これは。
「ぷふ、あははは。お兄ちゃん、困りすぎだよ。そんなに私の芝居が上手かったってことかな」
「し、芝居?」
「そ、私の好きな漫画にね。こんな女性が出てくるの。とってもかっこいい女性なんだよ。セリフ真似てみたかったんだ」
どんな漫画読んでるんだ、女子小学生!!
そういやこんな子だったよ。うまく立ち回って、その場を掌握してくるマセガキだった。
「巴くん。期待しすぎ」
「だな」
「話を変な方向に持っていったの、お前らだよなぁ」
とりあえず、エビの脇腹を一発殴っておく。
花星さんの分も殴っておくか。一、ニと。
俺たちのやり取りを見て笑っていためいちゃんが、栞に再び視線を向けてポツリとこぼすように語り出した。
「不安で泣いていた私をお兄ちゃん達が助けてくれた。その優しさを私が覚えていたくて、私のことを忘れないでいて欲しくて、預けたの」
まただ。めいちゃんの言葉の何かが引っ掛かっているみたいで、こめかみの奥に痛みが走る。
「やっぱりちょっと忘れていたみたいだけど、お兄ちゃんは持っててくれた」
犬…シロを撫でるめいちゃんの姿、誰かと重なる。息が苦しくなってきた。
ジクジクとした痛みが激しさを増し、めいちゃんの声が頭の中を反響するように渦巻いて聞こえる。
「お姉ちゃんにはビー玉を預けたんだけど、今日は居ないみたいだね。また会いたいな」
ガツンと殴られたような衝撃が全身に駆け巡った。誰のことを言っているのか理解をする前に、めいちゃんの声がそれを遮る。
「明お姉ちゃん。元気かなぁ」
「あき、ら…ちゃん。…あ」
その名前は知らないはずの名前で、忘れさせられたはずの名前で、思い出してはいけないはずの名前で…あの家に住んでいた女の子の名前だった。
「…巴くん」「巴!」
花星さんとエビが深刻な顔をして俺を見ている。多分、彼女らも俺と似たような脳内状況ではなかろうか。整理が追いつかないが、突如として明という女の子の人物像に色がついた感覚だ。
いつのまにか隣に座っていたシロに頬を舐められた。突然の行動に驚いたが、シロの顔を見ると俺は抱きしめずにはいられなかった。
「ご、ごめんな!シロ!お、俺、忘れて…ぐぅ、ごめ」
「ワン!」
力が入っていて苦しいかもしれないのに、シロは嫌がりもせず俺の耳を舐めた。その刺激に思わず離してしまうが、同時に俺の涙は引っ込んだ。
シロの頭を今度は優しく撫でてやる。気に入ったのか、シロはその場に伏せた。
「ありがとう、シロ」
「私たちも、忘れてたってことだよね」
「ああ」
花星さんとエビも、いつの間にかシロの白毛に手を伸ばし撫でたり弄っている。
シロの毛は癒し効果でもあるのだろう、段々と心が落ち着いてくる。
変な大人三人の行動を見ていためいちゃんは静かに笑った。
「ふふ、シロちゃんは人気者ね。少しだけ羨ましいな」
一人だけ俺たちの状況とは違う雰囲気で、めいちゃんは目の前の光景を異様とは感じないみたいだった。まさか、俺を泣き虫だと思っているわけではあるまい。
「めいちゃん、俺達はきっと君に会うために、シロに導かれたんだと思う。こいつ、相当君のことが好きみたいだし」
「本当?」
「ワン!」
「私も、シロちゃんが大好きだよー!」
客観的にそう思っただけだ。だけどシロの特別な引き寄せる力と、めいちゃんがトリガーになったのは事実だ。
めいちゃんもシロを撫でるのに加わった。今の俺たちを客観的に見たら、変な集団の儀式かもしれない。中央に腹ばいになった犬を囲んで撫でまくっているのだ。良くて動物ふれあいコーナーか?
めいちゃんがシロの首周りの毛を撫でようとして、顔を舐められている。なんだか、ほっこりする光景である。
しかし、足りない。愛犬に顔を舐められ、笑っていた少女がここに居ない。
彼女の存在だけが希薄で、この世界から隠れてしまったみたいである。そこに居たことだけがうっすらと見えている、そんな感覚だ。
ダメだろう、そんなの。
ハッキリと思い出して、伝えなきゃいけないことがあるだろう。
「めいちゃん、一緒に…」
突然、キィィィと背後の扉が一人でに動き出した。バタンと閉まる音で、全員の視線がそちらに向いた。
「勝手に閉まった?」と誰が言ったか分からないが、皆が同様の光景を見たからだろう、それに異論を発するものはいなかった。
一同が静寂する中で、ノック音が3回響き渡る。
「めいちゃーん。入ってもいいかい?」
「…かいとくんだ」
その名前をうっすらと覚えている。迷子のめいちゃんを送り届けた時に出会った男の子の名前だ。
ここがめいちゃんの部屋だと知っていて、あの扉の先に立っている。
ということは、今あの扉の先はめいちゃんの家に通じてしまっているということだ。
着替えてきて良かった、などと考えている場合ではない。どう説明すればいいのか考えようとしたところで、めいちゃんに呼び止められる。
「お兄ちゃん、これを持って窓の外へ隠れて」
「え?」
めいちゃんから栞を強引に渡され、締め切られたままのカーテンの方に誘導された。
めいちゃんがカーテンを開くと、掃き出し窓が現れ、そこから続くベランダと異様な景色が見えた。
「めいちゃーん?」
「着替え中ー!ちょっと待ってー!(早く!)」
「(どうして!?)」
「(お姉さんたちも!)」
掃き出し窓をガラガラと開け放ち、ベランダに押される様に飛び出た。花星さんにエビも続けて出てくる。大人三人が並ぶと少し手狭いその場所に、シロも押し込まれる。
窓は閉められ、カーテンも閉じられた。中の様子はほとんど見えない。わずかな隙間があるだけだ。
中の様子も気になるが、それよりも。
「霧なのか、これ」
「はは、天変地異だな」
エビもこの景色の異様さに釘付けみたいだ。上下左右、ベランダから見渡す限りの範囲で濃霧が発生している。もはや一メートル先も見えていない。
「なあ、これって俺たち逃げ場なくないか?」
「どうするべ」
エビと二人途方に暮れていると、シロと花星さんの様子がおかしいことに気づいた。
「ど、どうしたシロ?」
「おい、藍!しっかりしろ」
シロの身体に浮かぶ斑模様が淡く明滅した。
同時に花星さんの喉元のチョーカーも異様に光り出した。二人とも苦しそうに息が乱れていたり、寝そべったり壁にもたれ掛かっている。
光が明滅を繰り返すごとに、彼女らの苦しそうな表情が濃くなっていく。
ドクンッ。激しい動悸のような音が聞こえた瞬間、光の明滅は突然止んだ。
知らない花の香りがした。
手すりの上に、天使みたいな格好の女性が立っていた。香りはこの人から漂っている。
「ここが分水嶺ということね、エリィ」
懐かしさと違和感を覚える凛とした声だった。
まるで重力を感じさせない足取りで手すりの上を歩く女性。
すらりとした足には踵の高いヒールを履いているはずなのに、靴音は聞こえない。
童顔に似合わない厚化粧。
髪を左右で白黒に染めている奇抜なセンス。
天使と見間違うフリフリのワンピースには灰色のピアノ線と雲がデザインされており、そこだけ子供っぽい。なんだろう、この未知なる女性は。
「…日音?」
「は?」
エビがなぜ今、その名を口にしたのか意味が分からない。どこをどう見ても俺が想像している日音像には結びつかないのだが?
女性がため息混じりの声で、答えた。
「残念だけど、人違いよフラワーズ」
ふ、フラワーズ?俺たちのことか?どこが!?
腕を組み、手すりの上に仁王立ち状態の天女が、俺たちを見下ろしている。
「ワタシはアン。透明の対を成す者よ」
キメ顔で彼女はそう名乗った。
読んでくださりありがとうございます。




