第36話 日常の崩落
夏の茹だるような暑さは落ち着きを見せ始め、新学期の始まりを俺に伝えた。
……あれから澪からは音沙汰ないわけだが、警戒を解いたわけじゃない。
必ず"なにか"仕掛けてくるはずだ。
あの時の澪は、"俺"の逃げ道を潰していた――。
今思い返しただけでも身震いが止まらない……。
「おっす琥太郎。元気してたか?」
すぐ背後で、住宅街に似つかわしくない元気な声が響く。
俺がパッと背後を確認すると、身体がこんがりと焼けた感じのいい男が――。
慶賀か……焼けすぎて一瞬誰かわからなかった。
額に冷たいものが伝う。反射的に手で拭った。
きっと、残暑のせいだ――そう思い込まなければ……。
俺は慶賀からの問いにすうっと息を吸う。
「……あぁ、元気だよ。お前の方は元気だったのか?」
「ま、まぁな、……てかよお前、本当に元気か?」
心配そうな顔でこちらを覗いてくる。
「ん、どうしてそう思うんだ?」
「いやぁ、だってよ。うーん、気のせいかな……」
慶賀は俺の顔を凝視して、真剣な眼差しで考え込んでいるが、五秒足らずで飽きたのかヒューヒュー口笛を吹いている。
……飽きるのが早い!
いいけど、別にいいけど!
「まぁ、お前が大丈夫だってんなら深くは聞かないけどさぁ、あんまり溜め込んでもいいことないぜ?」
いつものような熱い"漢"みたいな感じではなく、本当に心配するように気遣う優しい声にほんの少しだけ溜飲が下がった。
「うん、わかってる……」
俺がそういうと、ニコッといつも通りの慶賀になる。
「……ところでよ」
なんか凄い嫌な予感がする!
「ところでよ」で始まるとか、どうせ厄介ごとに決まってるもん――。
が、慶賀は言おうか言うまいか、どうしようかという様子で口をパクパクしていた。
もしかして、本当になにか悩みが――。
「……慶賀、困ってるならなんか言ってよな。友達だろ」
俺がそう言うや否や、慶賀の瞳に一粒の涙が落ちる。
そして体全体をわなわなと震わせて「そうか」と小さく囁く。
お前が俺に心配をしてくれたように、俺だって――。
「……琥太郎、結構言いづらいことなんだけどよ」
「なんだ、言ってみろ。俺が出来る限りサポートする」
「夏休みの宿題、全部見せてくれねーか?」
「お断りします」
***
学校に着いた俺は普段より喧騒としていた教室の目の前で立ち尽くし、入るのを躊躇していた。
夏休みという話のネタが尽きない話題に教室では「夏休み何してたー」「宿題終わってねぇ」みたいな絶対聞かれるであろう質問を友達同士で聞き合っている。
……俺は友達が少ないから、そんな話はしないけど。
決心して進もうとした時――。
「ねぇ……」
聞き覚えのある"超負けず嫌い"そうな声が背後から聞こえた気がする――。
……うん、気のせいだ。
再びドアを開こうとした時。
綺麗で柔らかな手がスッと伸びてくる。
だが、それとは裏腹にぐにゃりと俺の手を押し潰し始める。
「痛い!……俺の手を破壊しようとするのやめてよ藍川さん」
「あれ、思ったより元気?――よかった、よかった」
振り返ると、藍川さんはニヤニヤしながら、こちらを見つめている。
「よかったじゃないって、本当に痛いから、これ」
……藍川さんは相変わらず藍川さんだった。
なにも変わっていなくて逆に安心する。
俺は潰されかけた手をぶらぶらとさせていると、いつになく真顔で息をふぅっと吐く。
「……琥太郎くん。結局、大丈夫だったの?」
「え?あ、あぁ、そうだね……ぜ、全然大丈夫だから藍川さんは何も心配しなくていいからね」
「そう……」
力なく答えた藍川さんは最後に俺に微笑んで教室の中に入っていく。
この感じ、やっぱみんなに心配させちゃってるよな。
今日は泰葉と帰る約束だったが――。
このまま帰っても後味が悪いだけ、有栖先輩や他のメンバーたちに予めメールで伝えてこおこう。
俺は頬杖をつきながら、慶賀の必死に俺の解答を写している姿を眺める。
"こんな毎日がずっと続いたらいいのに"。
俺の届かぬ心の思いをグッと胸のうちに抑えこんだ。
***
ようやく最後の時間も耐え抜き……やっと解放されると思った刹那――。
「……琥太郎」
俺の耳元で囁かれる天使の声。
唐突すぎて、俺の体がビクッと大きく反応してしまう。
……恥ずかしい。
例えると授業中に寝ている時にビクッとなってみんなにクスクスと笑われる時と同じくらい。
恐る恐る確認すると――。
「ま、真白さん……」
「なぁに?」
「……合宿の時はその、ごめんなさい。急にあんなことになっちゃって……」
俺はバツが悪そうに答えると、真白さんは切実な面持ちで顔を覗かせてくる。
「あの子、本当に知り合いなの?一体何者なの――」
「……わからない。少なくとも"今"は検討もつかない。わかってるのは幼少期に俺に出会っていた友達以上の関係の人物ってだけかな」
真白さんは虚な目で俯きながら肩を竦めている。
暫くの沈黙後――。
俺が場の気まずさから口を開こうとした時、不意に手形の影が俺の視界を覆い尽くす。
「え?……な、なんだ?」
「だ〜れだ」
この手の柔らかさ、そしてこの声にはとても聞き覚えがあった。
でも、なんでここに――。
隠された視界の中で必死に考える。
……わかんない!
どうして我が妹が学校内に普通に侵入してきてるの?
もしかして不法侵入とかじゃないよね……。
「も、望月先輩かな〜?」
まんま泰葉の声だったけど……。
望月先輩が蝶ネクタイ型変声機で泰葉の声を演じていると信じたい!
望月先輩(仮)は目から手を離すや否や俺に体を預け始めた。
え?……も、望月先輩(仮)はなんで有栖先輩という人がいながら、なんで――。
「ブッブゥ〜〜、大不正解。正解はお兄ちゃんの妹の泰葉なのでした、なのでした〜」
「あ、泰葉か……よかった――いやよくないって、なんで泰葉がここにいるんだよ!」
泰葉と真白さんは可愛く小首を傾げている。
え?……なにこの空気。
剣呑な雰囲気になりつつあったが、真白さんがポンっと閃いたように手を叩く。
「そういえば、琥太郎に言ってなかったね。泰葉ちゃんは正式に学校から認められた。ボドゲ部の新メンバーなのです!」
「なのだ!」
泰葉は意気揚々と鼻を高くする。
学校から正式に……。
てことは、これからボドゲ部には泰葉が――。
嬉し!けど、これから騒がしくなるんだろうな〜!
俺の読書時間が多分ガッツリ奪われる。
「そろそろ帰ろ。真白姉、また明日!」
泰葉が言い終わると、俺の手を強引に掴んで教室を足早に歩いていく。
"まるで誰かに逃げているように"その歩くスピードは上がっていった。
***
「泰葉はさ……受験大丈夫なの?」
「おへ?」
いきなり喋りかけたからか、泰葉が大きく反応する。
「だから受験だって、ここに受験するんだろ?」
「う、うん。当たり前じゃん。私お兄ちゃんと一緒の高校に行きたいし、私が勉強頑張ってること、お兄ちゃんが一番知ってるでしょ?」
「……確かにそうだな。頑張ってるもんな」
俺は前にいる泰葉の頭を優しく撫でる。
泰葉は嬉しそうに振り返りながら、ニコッと俺に微笑み、上機嫌でフンフン鼻歌を歌う。
「あの……」
若い女の子の乾いた声が風騒音と共に通り抜ける。
心臓が一度、強く跳ねた。
泰葉と視線を交わすと、戦々恐々ゆっくり視線を背後に移していく。
……落ち着け、澪の声じゃない。
「あの!……ボール取ってくれませんか?」
今度は男の声がハッキリと耳に届いた。
……ボール?
俺は床を見ると、すぐ足元にサッカーボールが風に吹かれてコロコロと転がっていた。
泰葉が呆然と拾い上げると声のする方を見やると、サッカーで遊んでいるのか、男の子と女の子が申し訳なさそうにしている。
……なんだ心配して損したな。
俺は泰葉からボールを受け取ると、子供達に向かって勢いよく蹴り出す。
――が、ボールは変な方向に行って草むらに飛び込む。
「お兄ちゃんの下手くそ!」
「ご、ごめんなさい!」
自分が極度の運動音痴なことすっかり忘れてた。
俺は急いで茂みからボールを取りに走る――。
「はい、どうぞ……」
「わぁ、お姉ちゃんありがとう!」
子供は嬉しそうに走り去っていった。
……んん?誰かとってくれたのか。
お礼を言うため、走るスピードを速めるが――。
不意に指先がひんやりと冷える。
足が前に出ない。
一歩踏み出そうとして、止まる。
――影だけが一拍早く揺れた。
体が動かない。
ガタガタと震える俺を尻目にニヤニヤと不気味な笑みを浮かべながら――。
黒く染まった髪が風と逆方向に靡いている。
……逃げろ。
俺は一歩、一歩と後ろに下がるが――。
ドンっと音を立てて体が壁に当たる。
……もう逃げ道はない。




