第31話 決戦
西條泰葉
「お兄ちゃんがいない!?」
昨日の夜離さないように抱き枕がわりにしてたのに。
いつの間にかにいなくなってるし、私の寝てる位置も反対になってるしめちゃくちゃ。
しかも今日お兄ちゃんのボドゲ部として最後になるかもしれないのに……。
とりあえずみんなの所に行こうかな。
欠伸をしながら部屋から出ると妙に蝉の鳴き声がうるさい。
まだ朝だっていうのにうるさいなぁ。
するとちょうど部屋から陽葵さんがなにかモグモグしながら出てくる。
「泰葉ちゃん!?随分と起きるのが遅いね。昨日夜遅くまで起きてたの……は!まさか琥太郎くんと――」
「ちょ、ちょっと待ってください。なんの話ですか、起きるのが遅いとか――」
陽葵さんの言ってることが理解できない。
すると携帯をドンっと突き出してくる。
見るとただの可愛くデフォルメされたホーム画面だ、それが一体……。
「今十時。え、うん?なんで」
戸惑いが隠せずに冷や汗が滲み出てくる。
「あれ、泰葉。今起きたのか?」
背後から馴染みのある声が聞こえてくる。
……お兄ちゃんだ。
「なんで起こさなかったの……」
「いやー、泰葉が随分と気持ちよさそうに寝てたから、起こすのが気が引けちゃってさ、藍川さん達にも説明して起こさないでおこうって俺が……は!」
何かに気づいたように顔を曇らせる。
許さん!
「バカーーー!」
お兄ちゃんに向かって飛び膝蹴りを喰らわす。
「そ、そういえば毎日欠かさずやってるストレッチ体操の時間だったな……は!これを天城さんに勧めれば」
「問答無用!」
再びお兄ちゃんをひたすらに踏み続ける。
***
「約束の時間まであと少しだな……」
お兄ちゃんが時計を見ながらぼんやりと呟いた。
あと少しで生徒会長との勝負……。
その事を考えると自然に胸の鼓動が早まる。
「本当に泰葉もいくのか?そんな無理して行かなくてもいいんだぞ」
私に向かって心配そうに言ってくる。
なんで余裕そうなのよ!
お兄ちゃんは以前欠伸をしながら天井を見上げていた。
……私の方が心配してどうするのよ。
いっつもそう自分のことは二の次で私とのことを心配してくれてる。
「うん……大丈夫。お兄ちゃんはこんな状況なのにどうして私の心配してくれるの?」
お兄ちゃんは「ん?」と小首を傾げてる。
「泰葉を愛してるからに決まってるじゃないか……俺がお兄ちゃんなんだから当たり前だろ?妹を守るのがお兄ちゃんの仕事だ。だから今日は安心して見てろよ」
陽葵さんや真白ねぇには見せない本当に柔らかな微笑みを私にかける。
そんなの……。
「……私も愛してるよ。お兄ちゃん」
"愛してる"この言葉を口にする度何か胸がズキズキとして痛い。
勿論、私もお兄ちゃんのことを愛しているしこれからもずっと一緒にいたいと思っているけど。
……もしお兄ちゃんが"すべて"思い出した時にその現実を受け止められるのか、私をそれでも愛してくれるのか。
私はそれだけが不安だ。
いずれお兄ちゃんが私を避ける日が来るんじゃないか。
思い出させちゃ駄目なんだ。
私は今のお兄ちゃんが好きなんだ。
だから……ずっと"このまま"でいて。
「泰葉、そろそろいくぞ……」
「へ?」
お兄ちゃんは時計を指差しながら頭を掻いている。
「ほら、もう時間だし、有栖先輩達は先に言ってもらって諸々の準備をしてもらってるし、俺たちもそろそろ行かなきゃ」
「そう、だね」
そう返事をすると私たちは"決戦"の場へと向かう。
***
「うん?やあやあ、琥太郎くん、待っていたよ。なにせ楽しみすぎて一時間前くらいには到着してしまっていたんだ」
不快な声で馴染みのある生徒会長が遠くからニタニタ笑顔で手を振っている。
お兄ちゃんの背後に潜んでいた私はチラッと千宮を一瞥する。
ギロッ。……目が合ってしまった怖い。
千宮の怖さにふるふると体を震わせていると。
「大丈夫だよ……」
お兄ちゃんは笑顔で微笑みながらギュッと優しく手を握りしめてくれる。
「さっさと始めようか。待たせるのは趣味じゃない」
千宮は大きく手を広げながら生徒会が勢揃いしている背後に振り向く。
「本当に大丈夫なの西條くん……」
近くにいた望月先輩が心配そうに顔を覗かせていた。
「大丈夫ですって任せてください」
「琥太郎くん。……絶対勝ってくれ」
「ええ」
お兄ちゃんは有栖先輩の手堅い握手を交わす。
「琥太郎。絶対に勝って……応援してるから」
真白さんが距離感ゼロで手を握る。
いいよ、真白ねぇ、その調子だっ。
「ちょ、ちょ、琥太郎ってどうゆう……」
陽葵さんが真白ねぇの琥太郎呼びに戸惑いを隠せていない。
お兄ちゃんは笑顔で微笑むと。
パンっと手を叩く。
「みなさん本当にありがとうございます。俺、数ヶ月間でしたけどこの部活……本当に大好きです。だから必ず勝って残りの合宿期間思いっきり楽しみましょう!」
嘘偽りのない笑顔で深くお辞儀をして決戦の場所へと足を運んでいく。
「来たね、琥太郎くん。君はチェスで勝負するんだね。いいだろう、私も昔からチェスが大得意でね。大会にも出場したくらいだ。残念だがこの勝負私が負けるはずがないだろう……」
ニヤニヤと口角を上げて不快な笑みを浮かべる千宮。
だが、お兄ちゃんは動揺の一つも見せず睨みをつける。
「やってみろよ。お前のその頑固なプライドをぐちゃぐちゃに引き裂いてやる……」
二人の視線が交差する。
一人はニヤニヤとした自分が負けるはずないという余裕の目。
もう一人は鋭い眼光で今にも襲い掛かろうとしている。
遂に始まる……。
盤に駒が並んだ瞬間、空気が変わった。
さっきまでのざわつきが嘘みたいに消えて、みんなの視線が一点に集まる。
お兄ちゃんと千宮。二人だけの世界みたいに見えた。
「では、始めようか」
軽い音と一緒に駒が動く。
その一手だけで、胸がぎゅっと締め付けられた。
……速い。
何が起きてるのか、正直よく分からない。
ただ、これはただの遊びじゃない。
お兄ちゃんはいつも通りの顔で、淡々と駒を動かしていく。
対して千宮は、どこか楽しそうに口元を歪めていた。
カチ、カチ、と音が続く。
静かなのに、やけにうるさい。
「……あ」
誰かが小さく声を漏らした。
次の瞬間だった。
盤を見て、思わず息が止まる。
お兄ちゃんの駒が、一つ、大きく消えていた。
逃げ道を塞ぐために、わざと捨てたみたいに。
それがどれだけ大事なものかは分からない。
でも、空気が変わったのは分かる。
「おい、あれ……やばくないか……?」
後ろから不安そうな声が聞こえる。
胸の奥が、じわじわと冷えていく。
「チェックだ」
千宮の声。
その一言だけで、心臓が跳ねた。
お兄ちゃんの手が止まる。
……ほんの一瞬だけ。
その隙を逃さないみたいに、千宮はすぐに次の手を打つ。
追い詰められてる。
理由なんて分からないのに、そう思った。
お兄ちゃんの周りの空気が、どんどん重くなる。
逃げ場がなくなっていくみたいに見える。
「どうした? さっきまでの威勢は覚えてるよね。もし勝ったら琥太郎くんは生徒会。あと……妹も貰う」
お兄ちゃんはギロっと千宮を一瞥するがすぐに盤面に目を落とす。
……それだけ余裕がないのか。
千宮の声が、やけに遠く感じた。
……やだ。
やだやだやだ、こんなの、見たくない。
せっかくここまで来たのに。
「え……」
……今の、取らせた?
そんなはずない。
でもお兄ちゃんは、一度も慌てていない。
最初から、全部見えているみたいに。
ほんの一瞬だけ、そんな“ありえない考え”が頭をよぎるが、すぐにかき消される。
そんな余裕、あるはずないのに。
お兄ちゃんが、負ける……?
ぎゅっと手を握る。
震えが止まらない。
お願い、やめて。
これ以上――
「……大丈夫だよ」
不意に、声が聞こえた。
顔を上げるとお兄ちゃんが、笑っていた。
いつもみたいに、優しく。
なんで……?
どうしてそんな顔できるの?
こんなに追い詰められてるのに。
カチ。
お兄ちゃんが、駒を動かす。
たったそれだけなのに。
「……なんだと?」
千宮の表情が、止まった。
さっきまでの余裕が、ほんの少しだけ崩れる。
ざわ、と周りが揺れる。
何が起きたのか分からない。
でも、何かが変わった。
カチ、カチ。
今度はお兄ちゃんの手が速い。
さっきまでとは逆。
迷いがない。
「チェック」
その一言で、空気がひっくり返った。
「なっ……!?」
「ここまで追い詰められたのは初めてだろ?」
千宮の声が、初めて乱れる。
そして千宮が冷や汗をかいていることに気づく。
だが私はただ、盤を見ることしかできない。
さっきまでとは違う。
追い詰められてるのは――
「うそ……」
誰かが呟く。
それに加勢するように陽葵さんや真白さん、先輩方が必死に応援している。
千宮の手が止まる。
さっきまであんなに余裕だったのにも関わらず。
今は、何かを探してるみたいに視線が泳いでる。
お兄ちゃんは、静かだった。
ただ、次の一手を待っている。
カチ。
千宮が駒を動かす。
――その瞬間、盤面の逃げ道が、すべて消えた。
さっきまで繋がっていたはずの安全な場所が、
気づけば全部、塞がれている。
遅かったんだ。
その一手を打った時点で、
もう――詰みは確定していた。
「終わりだ」
カチ。
千宮の手が、止まる。
震えているのが、遠くからでも分かった。
何も見えていないみたいだった。
誰も、息をしていない。
「チェックメイト」
一瞬、音が消えた。
何も聞こえない。
「ありえない。これは夢だ。負けるはずがないのに……」
見ると千宮は膝から崩れ落ちていた。
私は、その場から動けなかった。
「お前のプライドをぐちゃぐちゃにするって言っただろう。初めてだろ、負けるの」
「そんなはずがない…!」
何度も盤を見直すが、手が震えて駒を掴めない。
ポロッ、ポロッと涙がこぼれ落ちる。
ただ、盤を見つめる。
さっきまで負けてたはずなのに。
あんなに追い詰められてたのに。
どうして――
「……すごい」
気づけば、そう呟いていた。
お兄ちゃんは、こっちを見て笑う。
余裕そうに見えるけど……。
私には分かる。
背中のシャツが、汗で張り付いているのが見えた。
お兄ちゃんはギリギリの瀬戸際の戦いだったんだ。
弛緩した空気が一気に緩む。
……よかった。
本当によかった。
ぎゅっと胸を押さえる。
さっきまで痛かったのに、今は少しだけ温かい。
でも。
あの時の笑顔が、頭から離れなかった。
――最初から、分かってたみたいな顔。
この勝負、最初から終わってたんだ……。




