38 伯爵令嬢の告白事情
にぎやかな人気の名店に行くのは、楽しかった。でも、静かに公園を散策するほうが好きみたいだ。
劇場や音楽会に行くのは、楽しかった。でも一人ででも行きたいというほどではない。誰かとそこに行って、同じものを見聞きして、それについて話をする。その時間のほうが大切みたいだ。
多くの人と会えるのは、楽しかった。でも、ゆっくり話ができる時間がないとつまらない。多くの人と知り合うことより、その人の一端に触れられるかどうかが、重要みたいだ。
どこにいるかより、何をするかより、誰といるかが大事。自分はそういう人間のようだ。
ひと月の間、様々な場に出かけて知った、アイリーンの自己認識である。
これらは確かに、経験してみないとわからなかったことだった。
やってみた結果、「これは別にそんなに好きじゃないな」と分かって選ばなくなるのはいい。
でも、今までのアイリーンには、「やってみる」ことそのものが難しかった。
自分で好きか嫌いかを判断する前に、選択肢がなかった。
今の自分にもできること、目の前にあること、それを大切にして生きることはできる。それも十分幸せだ。
けれどアイリーンは、この数か月で、たくさんの選択肢を与えられて、すっかり贅沢になってしまった。
色んなものへの可能性に、手を伸ばす喜びを得た。強欲になった。
なのに、その選択肢を降らすように与えた張本人が、よりによって一番欲しい選択肢を取り上げようとする。
ひどいわ、と思ったし、どうして、と混乱した。
あの日泣いたのは、たぶんそんな身勝手な思いからだった。
「あの日、殿下は、例えばの話をされましたね」
読み終わったのだろう、アイリーンの手紙をたたんで、うつむいたカルヴァンに、しばらく待ってから声をかける。
布一枚の天幕の中だ。周囲の騒がしさに紛れるとはいえ、具体的な話はしない方がいいだろう。
「蓋然性がそれなりに高いとおっしゃった、あの話です」
カルヴァンは、顔を伏せたまま小さく頷く。
真っ先にされた懸念の例だったから、彼の中で子の話は重要だろう。王家の血を繋ぐ者として当然だ。だからアイリーンも、この件は繰り返し考えた。
「あのとき、私、不思議だったんです。すぐにこの話をすると、もっとちゃんと考えろと言われる気がして、手紙にも書けませんでしたが。でも、今も不思議です。だって、王太子殿下がお困りのときは、必然的に、王太子妃殿下がお困りのときでしょう?」
夫婦なんですから、と続ける前に、カルヴァンがはっと顔を上げた。
紺碧の瞳は、どこか迷子の子どもを思わせる色をしていた。
アイリーンはその色に誘われるように、礼儀正しい距離を侵して、手紙を握ったままのカルヴァンの手に、手を添える。
もちろんそれは、子どものものではない。がっちりと厚く鍛えられた、男性の手だった。それでもそれを、優しく励ますように、握り込んだ。
「ノエリアが困っているときに助けたい、と思うことにかけて、私は国中でも一番だ、という自信があります。こればかりは、王太子殿下にだって負ける気はありません」
そして、もし――まだその想像に実感はないが――我が子をノエリアに譲れ、と言われたとしても、アイリーンはまた、「ノエリアなら愛情深く育ててくれる」と一番信じられる女でもある。事実自分が、ずっとそうされてきたからだ。
もちろん、先のことはわからない。子どもを産むと女は変わると言うから、いざそのときに今と同じようには考えられないかもしれない。でも。
「カルヴァン殿下。剣のお話をうかがったとき、私は言いましたね。私も、自分より大事にしたいものがある人間です。幸い、殿下の大事なものと、私の大事なものは、近しいところにあるように思います。私たちは、お互いの大事なものを、ともに支えていけるんじゃないでしょうか」
これはもはや、説得や売り込みに近い。
ただ、感情でも利得でもなんでもいい。どうしても彼を頷かせたくて、必死だった。
目をひたと合わせて、握った手に力を込める。
「殿下、どうかお願いです。私にはあなたが必要です。お力ではなくて、存在そのものが」
そして、黒い魔道具の玉で止められていた、胸元の襟飾りを外す。
スカーフのように巻いていたそれは、白い絹のハンカチだ。ひだをつけて折っていた一角に、刺繍がある。黒い鎖の円に囲まれて、銀の剣と白い狼が眠り、鎖の端を白から紺にグラデーションする小さな釣り鐘型の花が飾る。さすがに王家の紋章は難しすぎて諦めたが、メアリーや母、レスリー嬢たちに手伝ってもらって、アイリーンの精一杯を込めた。
それを、彼の手の甲に押し付ける。
本来これは、いけないことだ。はしたないことだ。身体に添わせていたものを受け取ってもらえるのは、特別な相手だけだ。でも。
今のアイリーンは、これを受け取ってもらえる関係をこそ、望んでいる。
「あなたの生き方に、私を関わらせてください。大事なものを、ともに支えさせてください。あなたのそばで、苦労する権利をください」
彼が言えないなら、自分が言う。自重なんてしない。不敬を問われたってかまわない。
「私と、結婚してください」
アイリーンの懇願に、紺の瞳がゆらりと揺れて――そして、落ちた。
脱力するようにがくりと頭を下げ、カルヴァンは椅子から下りてその場に膝をつく。
「……で、殿下……?」
片膝をついた彼は、左手で手紙を胸に押しいただき、右手でアイリーンのハンカチを握る手の手首を取った。
下げた頭の下にアイリーンの手が引かれ、持ったままのハンカチに、唇を当てられる。
「ひゃっ……」
思わず、おかしな声が漏れた。そのくらい、薄い絹布越しに指に与えられた感触は、生々しかった。
かすかに湿った吐息の温度や、彼の唇の形まで、はっきり感じられた。
紳士は、挨拶のときは、本当に唇を触れさせはしないものなのに!
驚いて引っ込めたアイリーンの手からハンカチが落ちるが、地につく前に、カルヴァンが素早く手に取った。
「まいった。完敗だ」
彼は、自分の片膝の上にハンカチを広げて、アイリーンの刺した意匠を見つめる。ラティムスの花の部分に指を当てて、ゆっくりとたどるように撫でた。なぜだか、アイリーンは肩や背のあたりがひどくむず痒い気持ちになる。
「やっと義姉上やトニーが言っていたことが分かった。……これが、懇願か」
呟いて、カルヴァンは膝をついたまま、顔を上げる。
妙に晴れやかな顔つきだった。今日の秋空のように。
「ありがとう、アイリーン嬢。これは、喜んで受け取る」
彼は、まずアイリーンの手紙を丁寧にたたんで封筒に戻し、内ポケットにしまった。
そして、膝に広げていたハンカチを折って、胸ポケットに差す。
アイリーンの言葉も、想いも、受け取って胸にしまってもらえた。そう思った。
カルヴァンが、引っ込めてしまったアイリーンの手を再度取り、真っ直ぐ目を見つめてくる。
片膝をついた彼を、椅子に座ったままのアイリーンは、見下ろす形になる。なんだか新鮮だ。いつもこの人を見上げていたから。
「きみに全て言わせてしまった不甲斐ない男だが、今日の名誉をきみに捧げられたら――俺からも、プロポーズをしていいだろうか」
狩りの獲物は、狩った者の名誉。それは多くの場合、大会の最後に、女性に捧げられる。
自分が仕える女主人に。あるいは、崇敬する貴婦人に。あるいは、親しい身近なひとに。
王妃陛下は、毎年多くの騎士と貴族から名誉を捧げられていたそうだが、今年の大会は王太子夫妻が取り仕切っているから、今年はノエリアの下に多くの名誉が集まるだろう。
そして、自分の妻や婚約者に捧げる者も多い。
ハンカチを渡した相手から、名誉を捧げられるのは、最も理想的な返しだろう。
アイリーンは泣きそうになるのをこらえて、ゆっくり首を振る。
「……いやです」
瞬間、目を見開いたカルヴァンに、微笑みかけた。
「条件がついては、いやです。今日もし殿下が名誉を得られなくても、プロポーズしてください」
彼ほどの人物に、狩りの成果がない仮定の話をするのは、侮辱に近いかもしれない。
でも、もう条件がつくのはいやだった。これができたら。一か月経ったら。考えが変わらなかったら。自分はここまでけっこう、がんばって待ったと思うのだ。
アイリーンの甘えた返答に――カルヴァンは、笑った。
目を細めて、口元をくつろげて、頬の輪郭すら溶けてゆるむ。白い歯が、かすかに覗く。
こんなに晴れ晴れと、はっきり笑う彼を、初めて見た。
「わかった。では、今日の名誉を賭けるのは、今日プロポーズできるかだけだ。俺が表彰の壇上に上がれたら、その場で言わせてくれ。だめだったら、後日言う」
カルヴァンの笑顔に驚くアイリーンを、更に衝撃が襲う。
大会の最後には、狩りの成果を評価して順位をつけ、上位三名までが壇上で表彰される。
その場で、とは。
狩猟大会は、王都にいる貴族のほとんどが参加する大きな社交イベントなのに。
そんなの、王宮の夜会で公表されるに等しい、公開プロポーズではないか。
「そ、それは……さすがに早急なのでは。両陛下や王太子殿下のお許しとか……確認とか……」
「母上はもう、きみとの婚約発表の時期を考えていたそうだから、問題ないと思うが」
「えっ」
初耳である。いつの間にそんなことに?
「きみが気になるようなら、兄上と義姉上には確認を取っておこう。あとで主催として会場に来るはずだ」
カルヴァンは、いかなる姿勢の乱れもなく、片膝からすらりと立ち上がった。どれだけ脚や体幹を鍛えているのだろうか。
そして、アイリーンに手を差し出して、椅子から立たせる。
「それよりも、アディンセル伯爵と伯爵夫人には、一言あるべきだな。今から行こう」
「えっ、あの、……はい……」
すっかり勢いは逆転している。
アイリーンは、良識と羞恥心を必死にかなぐり捨て、なけなしの力と勇気を振り絞って、告白したところだったので、すっかり魂が抜けたようになってしまった。
一方のカルヴァンは、きりりとした足取りで天幕の外に向かう。
どこか引きずられるような気分で――紳士的な王子様の所作に、そんな粗暴さはまったくないのだが――手を引かれて、外に出る。
その途端。わっ、と、歓声めいた声が上がった。
天幕の外には、かなりの人数が集まっていた。
父母と話していたらしい、赤銅色の髪を刈り込んだ大柄な男性が、カルヴァンに近づいてきて、突然、がしっと肩を組む。
「よぉ! どうだ、ちゃーんとプロポーズできたか?」
とっさにカルヴァンが距離を取ってくれたので、アイリーンはまるでぶつかり合いのような勢いに巻き込まれずにすんだが、あまりのことに目をぱちぱちさせてしまう。王子殿下にこの態度を取れるこの人は一体。
「見えてましたよ~、副団長が膝ついてたの! したんですか、したんですよね!」
劇場で紹介されたケンドール卿が近づいてきて、にまにま笑いながら言う。天幕内で聞き覚えのある声がしたと思ったのは、彼だったろうか。
唖然とするアイリーンを、いつの間にか現れたカルヴァンの侍従がそつなく先導して、父母の近くに寄らせてくれる。馴れた両親のそばは、ほっと安心できた。
「いや、まだだ。むしろこれからだ。――団長、俺を表彰台に上げてください。プロポーズしたいので」
開き直り切った声で、カルヴァンが大男に言う。
一瞬、ぽかんとする間があってから、どっ、と場が沸いた。
嘆声、笑い声、口笛の音。カルヴァンの髪を、大男ががしがしかき回す。
「こいつ、このっ、言うじゃねぇか!」
「去年俺がもらった協力ですね! みんなで追い込んで副団長に獲らせる」
「うちの連携の見せ所だ。よーし、やったろうじゃねえか。下見行くぞおまえら!」
おう、と応えた周囲の男性たちは、もしかしてカルヴァンが所属しているという第二騎士団の面々だろうか。
これだけの人数に見守られていたのか? 声は聞こえていなかっただろうか。
団長と呼ばれた赤銅色の髪の男性に引き連れられて、彼らはどこかへ向かって去っていく。
去り際、ちらちらとこちらに視線を向けられたので、アイリーンはかろうじて微笑んで、軽く手を振った。
また、わっと歓声があがる。
「かわいー」「いいなぁ副団長」「おれもそろそろ……」
そんな声が漏れ聞こえる中、団長だけは、妙に洗練された騎士の一礼をアイリーンに向けて行った。……よくわからない人だ。
赤くなって、つい母の袖を握ってしまうアイリーンのもとに、カルヴァンが戻ってくる。
「失礼しました。アディンセル伯爵、伯爵夫人」
彼は、紳士の礼を取る。瞬きの内に、第二騎士団副団長から、王子の顔になった。
「突然のことで、大変申し訳ないのですが――ご息女に、結婚を申し込ませてください」
ど真ん中を射抜くような真っ直ぐさに、アイリーンは呼吸が止まりそうになった。
父が渋面を作り、母は輝くような笑顔になる。兄は、と目で探すと、少し離れたところで拍手するような仕草をしていた。お兄様、どういうこと。
しかし、父の渋面は長くは続かなかった。深々と嘆息したかと思うと、
「……ひと月も前に、国王陛下から内意のご連絡はありました」
そう語る。どうも王室からは、すでに『内々定』と言われていたらしい。
「……父上が」
「それでも急だ、とは思いますがな。王族の婚姻とは本来、もっと協議と検討を重ね、慎重に決定すべきものと、愚考いたします」
苦言を呈し、苦い顔を作りながらも、しかし、と父は続ける。
「当家は殿下に大恩がありますし、殿下のお人柄も信じるに足る、とは存じております。娘の意志も固いようです。更には陛下からのご内意もあり、これで渋るようでは、私こそ不忠を問われかねませんな」
ここで父は、アイリーンに顔を向ける。
「覚悟を持って務めなさい。おまえの道は、負おうとしている責任にふさわしく険しいものになるだろうが、我らの娘は、その道で、殿下の支えになれると信じよう」
「――まだ早いですわ、あなた。まだまだこれからよ、アイリーン。してあげたいことも、してあげなくちゃならないことも、たくさんある。始まったばかり……いえ、これから始まるところなんですからね」
母が、優しく手を取って握ってくれる。
アイリーンは、頼もしくも、心細くもなった。自分は、この手に守られてきた場所を飛び出して、新しく別の手を取ろうとしている。今日はその一歩目なのだ、と感じた。
「ありがとうございます、お父様、お母様」
「……私からも感謝を。伯爵、伯爵夫人」
頭を下げたアイリーンに続いて、カルヴァンも礼を述べる。
「まずは、今日、ご息女に名誉を捧げられる男だと証明させてください」
一礼して、踵を返す。かと思うと、アイリーンにちらと視線をやって、自身の胸元をとんとんと二度叩いた。
そこには、アイリーンのありったけが二つ、しまわれている。
「待っていてくれ、アイリーン嬢。返礼は必ずする」
そして、彼は、精悍な顔に見惚れるような微笑を浮かべ――今度こそ、騎士団の仲間を追って、立ち去った。
開き直った殿下は、なんか、すごい。破壊力が。
脳内の語彙が死んでいくのを感じながら、アイリーンは、その場にへたり込みそうになった。




