37 伯爵令嬢のお手紙事情
爽やかな秋晴れの、佳き日であった。
秋はすっかり深まり、少し前まで残っていた夏の気配は遠くなっている。
澄んだ空気を渡る風が、そこかしこに張られた天幕の布を揺らしている。
王都近くにある、王家所有の狩猟場で開かれる秋の狩猟大会は、年内最後の大型の社交イベントとして、人気が高い。
古い時代には、何日もかけて行われる、軍事演習の色が強い行事だったが、近年ではすっかり行楽化し、王家がイベントとして主催するのも、一日だけになっている。
アディンセル伯爵家は、家を出られなかったアイリーンに配慮してここ数年不参加だが、兄だけはアカデミーの学友に連れられて何度か見物に来たことがあり、手紙でその様子を知らせてくれていた。
新聞記事や、兄からの手紙で知るだけだった、狩猟大会。初めて生で見る幕営地の様子は、壮観だ。
参加を申し出た家々は、それぞれに場所を割り当てられ、一家の、あるいは複数の家で共用のテントを張る。大会が行われるのはこの一日だけでも、熱心な家は前日から入って幕営で泊り込んだりするそうだ。
幕営地の中央では、王家が大きな屋根布だけの天幕を数多く設営していて、狩りに参加しない人々は、参加者の勇士を眺めながらそこでお茶と会話を楽しむことができる。令嬢たちに人気の場所だ。
時刻はまだ早い。大会開始前のそわそわした空気の中、アイリーンはアディンセル家のテントで、待ち人を迎えた。
「……久しいな、アイリーン嬢」
「お久しぶりです、殿下」
天幕の入り口をくぐったカルヴァンは、本日はもちろん狩りに参加するのだろう、凛々しい乗馬服だ。濃紺のがっちしりたジャケットに、白のボトムスが目に鮮やかである。
対するアイリーンは、群青色の落ち着いた外出着だ。襟飾りとして、すでにいくつ目かの魔道具の黒石が、あえてそのまま喉下のスカーフの真ん中に飾られている。
アディンセル家は、父も兄も、狩猟は貴族男性として最低限、という程度しかたしなまない。一応参加登録はしたそうだが、テント内は大した荷物もなく片付いている。熱意のある参加者のテントほど、装備で雑然としていると聞くが。
そこに並べられた、休憩用の簡素な携帯椅子を勧めると、アイリーンを座らせてから、カルヴァンも隣に座ってくれた。
しばしの沈黙。幕の外からは、近くにいる人の声が漏れ聞こえてくる。入り口の方では父母が誰かと挨拶を交わす声がしたし、横手では兄の弾んだ声もした。他にも聞き覚えのある声がする。これはどなただったかしら。
密室ならぬ天幕でも、入り口の覆い布はなかば上げられ、外から中がうかがえる配慮がされている。お堅い父の配慮だろう。
外から見られてもまったく問題ない程度の礼儀正しい隣席の距離で、カルヴァンが口を開く。
「その……この一か月はどうだった?」
「そうですね、忙しかったです」
アイリーンは微笑む。
「畏れ多い方々にもお声がけいただくことがあって、様々な場に顔を出しました。お友だちもできたように思います」
「……お友だち」
「はい、お友だちです。お茶会に招いてくれたんですよ。私からもご招待して」
彼が何に引っかかったのかは知らないが、おうむ返しにされた単語を、アイリーンも復唱した。
「夜会にも、父や兄に何度か連れて行ってもらいました。母とは、劇場や音楽会に行ったりしました。恩賜公園の秋の風景も見られました。メアリー……ああ、私のメイドですが……彼女と、王室御用達の服飾店の店舗を覗きに行ったりもしたんですよ。さすがに当家ではあの格の仕立て屋を家に呼ぶのは難しいので」
夜会は、舞踏会形式のものは避けてしまったのだが、これはアイリーンの密かな他愛ない野望のためなので、今は言わなくてもいいだろう。
「殿下はいかがでしたか?」
水を向けると、カルヴァンが少し顔を逸らすようにして言う。
「俺は……いつも通りだったな。いつもの日常に帰った、という感じだった。今までが夢だったみたいに」
夢にされては困るのだが。だが、どこか味気ない口調に、アイリーンはほっとした。
自分は楽しげにひと月のことを語っておいてなんだが、もしカルヴァンが明るい口調で「様々な出会いがあって楽しかった」などと語ったら、がっかりしただろうと思う。自分は、新しい出会いを重ねろと言った殿下ほど、心が広くない。
「私の手紙は、お持ちいただけましたか、殿下」
本題を促すアイリーンに、カルヴァンはジャケットの内ポケットから見覚えのある封筒を取り出した。当然、封蝋は解かれないままのものだ。
これを書いたひと月近く前が、ずいぶん遠い日のような気がする。
内容はほとんど覚えていたが、「確認させていただいていいですか」と言うと、封筒を手渡された。
封を解いて、中身をざっとあらためる。
一か月前の自分の言葉に、アイリーンは思わず、ふふっと笑ってしまった。
「なんだか不思議です。こうして自分の手紙を見るなんて」
「そう、だな。兄上の提案は少し変わっていると思った」
「今私が申し上げたいことと、ほとんど変わらないことが書いてあるようです。少し恥ずかしいですが……読んでいただけますか?」
便箋を一度折り目のままにたたんで、カルヴァンに渡す。開封した手紙を直接手渡し、目の前で読まれるのは、初めてだ。
彼は、目で頷いて受け取り、手紙を開く。
そして、黙読し始めた瞬間。がたり、と椅子を鳴らして、一度手紙を伏せた。口元を広く手で覆い、瞠目してこちらを見てくる。
アイリーンの手紙は、カルヴァンへの宛名書きに続き、このように始まっている。
『あなたが好きです。
私も、お慕いしております。きっと、一目見たときから』
あの日、アイリーンが真っ先に告げたかったことだった。
彼に言うなと言われれば、言えなくなる。それがアイリーンの立場だ。
だったら、遠慮したり恥じらったりしている場合ではない。
最初の茶会の後に、母も言っていたではないか。
王族が言えないことこそ、私たちが言うのだ。黙って微笑む王族の周囲を、そうしてにぎやかす。
こんなことは本来、アイリーンの方がずっと気軽に素直に、言えることだった。男女の差以上に、彼の立場のほうが重かったはずだ。王太子に憧れるマデリン嬢のように、一介の令嬢が王子に憧憬や恋心を抱いたところで、何ほどのこともない。
だから、素直にそう書いた。
カルヴァンが、口元を覆ったまま、絞り出すような声で言う。
「……俺は、この手紙を、部屋に飾って朝晩眺めていたんだが」
つまりは、アイリーンの告白を、封筒ごしに毎日眺められていたということか。
さすがに羞恥に心臓がぎゅうとなったが、アイリーンは努めて優美に微笑んだ。
「私の告白の言葉を大事にしていただいて、ありがとうございます」
カルヴァンは、何ともいえない目つきで、また顔を逸らす。目の縁が少し赤い気がする。アイリーンの願望でなければ。
「続きも読んでいただけますか?」
促すと、なぜか恐々と慎重な手つきで、彼は一度閉じた手紙を開いた。
それは、こう続いている。
『これはあの日、あなたにその場で伝えたかったことです。
ですが、この気持ちが、一時的な、ちょっとした好意にすぎないと思われるなら、まず私の感謝を伝えさせてください。
ありがとうございます。何度言っても足りません。
あなたのおかげで、私は家族の、従姉の顔を再び近しく見ることができました。
憧れの場所へ、出かけることができました。
見知らぬ人とも、出会う機会をいただけました。
この恩義は、多少のことではありません。あなたのお力だけでなく、あなたのお人柄が必要なことでしたから。
あなたは、私の事情を知るなり、家族との時間を作ってくれようとしてくれましたね。ありがとうございます。母の腕に抱かれるのも、父兄に挨拶のキスをすることも、五年ぶりのことでした。
あなたは、お忙しい最中にも、なんとか時間を作ってくれようとしてくれましたね。ありがとうございます。あなたのお力がくださる恩恵とともに、あなたの姿を見られることそのものが、私には嬉しいことでした。
私に、多くの機会をありがとうございます。あなたにいただいた大切なものは、数え切れません。
私は、きっと一目惚れです。最初は、あなたの美しい黒い鎖と、銀の剣のようなたたずまいに、惹かれました。
けれど、お会いするたびに、あなたの温かい御心に、親切な振る舞いに、かけていただいた言葉に、重なっていったこの想いを、否定して欲しくないのです。
あなたは、私に、自由、とおっしゃいましたが、私は、あなたの側でこそ自由を感じます。
あなたの魔法のためだけではありません。あなたが、私を自由でいさせようと心を砕いてくれる方だからです。それは、私を助けてくれる魔道具ができた後も、変わらないと思います。
私を守ってくれるひとは、家族を始めたくさんいます。彼らに守られ、私の小さな部屋で過ごしてきた時間も、幸せなものでした。
けれど、この大好きな部屋であなたを想う今、私はとてもさみしい。翼を失ったような気持ちがいたします。
あなたとともにあるときのほうが、ずっと、私は自分の可能性を信じられました。
これも一時的な感情なのでしょうか。そうは思えませんが。
私に足りないところがあるというなら、改めます。知らないことは、学びます。
そもそも素質に決定的に欠けるものがあり、改めることも学ぶこともできないというなら、諦めます。
けれどそうでないなら、私に、努力する機会をください。
私は、一番だという言葉も、苦労させないという約束も、いりません。
大切なものを抱える、あなたの姿こそが好きですから。
最初に見惚れた黒鎖も、今ではあなたの生き方の象徴のように思えます。
私に、守られる安逸より、波のない平穏より、あなたのおそばでともに苦労する権利をください。
選択肢というなら、私はそれがいいです。
それが、今の私が心から望む、選択肢です』




