10月(下)
ベガは、困惑していた。
しかし困惑の感情よりも強く感じていたのは、羞恥と気まずさだった。
彼女の目の前にある物は、それだけのインパクトがあった。
「…………」
「…………」
「……♪」
ベガとリチャードが沈黙する前で、ヴィクトリアがニコニコとしていた。
実に機嫌が良さそうだ。
普段ならリチャードも踊り出して喜びそうな愛らしい笑顔を浮かべているのだが、今はリチャードも非常に困った顔をしていた。
全ては、ベガとリチャードの前に置かれたものにある。
「あ、あのな? ヴィクトリア」
状況を整理しよう。
まず3人はオープンカフェにいて、ベガとリチャードと向かい合ってヴィクトリアが座っている。
周りにはもちろん多くの人がいて、中には生温かい視線を向けて来る者もいる。
そして問題は、テーブルにあった。
「これはちょっと、流石に恥ずかしいかなぁ、と」
恋人ストロー、と言うものがある。
飲み口が2つあるストローのことで、余り一般的な代物では無い。
しかしこう言うお祭り行事やちょっとお洒落なカフェならば、中には扱っている店もある、と言うアイテムだ。
読んで字の如く、恋人が同じジュースを飲むためのストローだ。
つまり飲み物は大きなコップが1つあるだけで、そのストローがさしてあるだけ。
ここまで言えば、大方の状況は飲み込めただろうと思う。
「ダメなの……?」
「う、い、いやー。ダメって言うか、ね?」
いわゆる恋人や夫婦が「いちゃいちゃする」ための飲み物であって、ベガとリチャードは今からそれを飲もうとしているのだった。
繰り返すが、これは「いちゃいちゃする」ための飲み物である。
しかも、政略結婚の2人である。
友人としてならともかくとしても、夫婦としてはいかんともし難い部分があることは否めない。
と言うか、今まで夫婦らしいことなどほとんどしたことが無いのだ。
そもそもこの2人、ヴィクトリアの面倒を見ること以外に一緒に何かをしたことが無いのである。
結婚して10ヶ月以上が経つと言うのに、だ。
「あ、あー、あははは、はは、は……はぁ」
そしてだからこそ、こんなことになっているのだった。
ヴィクトリアはまさに、そのことを不満に思っていたのだから。
◆ ◆ ◆
そう、ヴィクトリアはずっと不満だった。
まず兄であるリチャードが自分にばかり構っていて、ベガのことを気にしていない。
まだ夫婦と言うものを良くわかっていないヴィクトリアではあるが、「これは違う」と言うのは何となくわかっていた。
兄が自分のことを好きなのは、良く知っている。
鬱陶しいくらいに、わかっている。
と言うか正直、そろそろ少しくらい離れて欲しいとか思っている。
そしてそれ以上に、リチャードはベガを大事にしなければならないはずだと思っている。
それが、ヴィクトリアの理解している唯一の「夫婦」のイメージでもあった。
「兄さまは、姉さまを大事にしないといけないんだよ」
不機嫌さに眉を寄せて、不満に頬を膨らませて、ヴィクトリアは言う。
リチャードは馬鹿だ。
もっとちゃんとベガに構うべきなのに、一度だってそうしたことが無い。
「だって姉さまなんだから。兄さまの姉さまなんだから」
(う、うわー……何だか思ったよりも大変そうだぞこれー)
そんなヴィクトリアの不満を笑顔で――そして飲み物には口をつけず――聞きながら、ベガは冷や汗をかいていた。
おそらくだが、かなり際どいことを言われているような気がする。
確かに。
確かにだ、ベガとリチャードはこれと言って夫婦らしいことをしたことが無い。
ぎりぎり、宮殿でそれっぽく振る舞ったことがあるだけだ。
寝室も別な上、リチャードは主に妹の寝室で就寝している。
……改めて言葉にすると、ツッコミどころしか無いと思った。
(リチャードは……)
どうしているかと視線を向けて、ベガは「あ、ダメだこいつ」と思った。
リチャードは、目が点になっていた。
つまるところ、どうしてヴィクトリアにこんなことを言われているのか、まるでわかっていない様子だった。
何と言うか、自分とのいわゆる「夫婦生活」の現状に疑問を抱いていないのだろう。
「…………」
思いのほか。
思いのほか、ベガは深刻そうな吐息を吐いた。
ただこのタイミングでのそれは、何とも不味かった。
「……!」
それを見たヴィクトリアが席を立ち、ばんっとテーブルを叩いた。
「兄さまっ!」
そして、ヴィクトリアは言った。
「姉さまにちゅうしてっ! 今すぐ!!」
◆ ◆ ◆
ちゅう、より大人の表現をするのであれば「キス」であろう。
夫婦、あるいは恋人の関係にある男女であれば、あるいは普通に行われる行為であろう。
もちろん、人前で行うような者は少数派であろう。
(ち、ちゅうって……)
さて、ここで翻って、である。
はたしてリチャードとベガは、キスをしたことがあるのだろうか。
はっきり言えば、無い。
何故かと言うか、結婚式はどうしたと言う意見もあるだろう。
あえて表現するのであれば、リチャードとベガの結婚式は盛大かつ荘厳なものだった。
流石に皇帝ヴィクトリアの戴冠式や誕生祭程では無かったが、帝国の貴族や属国の王族が傅いてお祝いの言葉を述べたり、帝都中の民が花を舞わせたりと、贅と財を尽くした一大イベントだった。
しかしその一方で、世間一般で行われているような夫婦共同の何か、と言うものは全く無かった。
「いや――いや、待ってくれヴィクトリア。それはちょ」
「兄さまは姉さまが嫌いなのっ!?」
「いや、そういうわけじゃなくてだな?」
じゃあどう言うわけなんだよ、と、ベガは他人事のように
ちゅう、キス。リチャードとキス。
正直なところ、まるで想像できなかった。
リチャードとそう言うことをすると言うよりは、自分が男性とそう言うことをすると言うイメージ自体が浮かんで来ないと言った方が正しいだろう。
「姉さまは、兄さまが好きなのに!」
「ぶふぉっ!?」
ただ、それはちょっと看過できなかった。
流石にそれを往来で叫ばれると、いかに夫婦とは言え流石にちょっとアレである。
「ま、まぁまぁヴィクトリア、そんな風に言ったらリチャードもこま」
「姉さまは兄さまが好きだよね!?」
「いや、あー……何て言うか、な?」
宥めるようなベガの様子に、そしてはっきりしないリチャードに、ヴィクトリアは顔を真っ赤にしていた。
明らかに興奮している、しかも悪い方向にだ。
しかも、どうしたら良いという類のものでも無い。だから……。
「もう、いいもん……っ!」
「あっ、ヴィクトリア!」
だから、目に涙を溜めてヴィクトリアは駆け出してしまった。
ベガがリチャードを見ると、彼はおろおろしているような呆然としているような、そんな様子だった。
彼女は迷った様子だったが、結局、ヴィクトリアを追いかけることにした。
リチャードはひとり、何かを考え込んでいた。
◆ ◆ ◆
「ヴィクトリア」
積み上げられた荷物の隙間に座り込んでいたヴィクトリアに、ベガは声をかけた。
狭いところに閉じこもりたがるのは、どこの子供も一緒だなと思った。
ただ、ヴィクトリア自身は本気でいじけている様子だった。
そんなに自分とリチャードを仲良くさせたかったのかと思うと、何だかむずがゆいものを感じた。
ベガが声をかけると、ヴィクトリアはぴくっと頭を揺らした。
そして頭の上に手を置いて丸まって、「ぜったい動かないぞ」と全身で意思表示していた。
それがおかしくて、思わず笑ってしまいそうになった。
「あのなヴィクトリア、私とリチャードは心配しなくてもちゃんと仲良しなんだぞ?」
具体的にどう仲良しかと言われれば、それは答えようが無かったのだが。
しかしベガは、とりあえずそう言った。
そうしないとヴィクトリアを宥められないと思ったからだ。
ただ、ヴィクトリアはベガの方を見ないまま言った。
「兄さまはね、姉さまのことが好きなんだよ」
「……そ、そうか。まぁ嫌われてはいないと」
「だって兄さま他に女の人と一緒にいたことないもん」
ただ、流石にそれには言葉を止めた。
ことのほか、ヴィクトリアの口調が真面目なものだったから。
例外はどこぞの司法長官だろうが、あれはまさに例外だろう。
それ以外と言えば、宮殿や離宮のメイドくらいなものか。
しかしそれにしたって、別に何か色事があるわけでは無い。
あったら大問題だが、逆に安心するかもしれない。
ああ、あいつ妹以外にちゃんと興味あったんだな、と。
「だから姉さまとちゃんとしないと、兄さまが1人になっちゃうんだよ」
ぐすっ、と鼻をすすって、ヴィクトリアはそう言った。
それに、ベガは何も言わなかった。
何も言わずに考えて、そうか、と気付いた。
気付いてしまった、ヴィクトリアが本当は何を気にしていたのか。
「……そっか」
優しい子だな、と、そう思った。
心からそう思った。
ヴィクトリアは、ベガと「家族」になりたくて。
そして兄であるリチャードのことを、とても想っていて。
「ヴィクトリア、帰ろうか。リチャードが心配するから、さ」
「……ん」
小さな手を握って、リチャードの下へ歩いていく。
この後の人生を、この優しい女の子と一緒に歩いていけたらいいなと。
ベガは、そう想っていた。
最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。
いよいよ冬、1年の終わりの時期です。
この物語も、最後の季節へと進んでいきます。
では、また次回。




