第九話 アシュレイ・レインフォード
リンデ村へ出発する日の朝、旅支度を終えたクラリスは、父に呼ばれて執務室を訪れていた。
扉を開けると、父のほかに一人の青年が立っている。
その姿を目にした瞬間、思わず足が止まった。
陽光を受けて淡く輝く白銀の髪に、澄み渡る空を思わせる淡い青の瞳。
整い過ぎているほど端正な顔立ちには、自然と目を奪われる気品があった。
それでいて、その表情は驚くほど穏やかで、近寄り難さよりも柔らかな空気をまとっている。
(なんて……綺麗な方)
凛とした品格と落ち着きを備えた、美丈夫という言葉がよく似合う青年だった。
二十一歳と聞いていたが、自分と一歳しか違わないとは思えないほど、その佇まいには気品と落ち着きがあった。
「クラリス、紹介しよう」
父が穏やかな声で言う。
「彼が以前に伝えた、レインフォード公爵家嫡男、アシュレイ・レインフォード殿だ」
クラリスは姿勢を正し、丁寧に一礼した。
「初めまして。クラリス・エーデルベルクと申します」
青年もまた、美しい所作で一礼を返す。
「アシュレイ・レインフォードです。これからしばらくご一緒することになります。どうぞよろしくお願いいたします」
その穏やかな笑みに、クラリスは不思議と緊張がほどけていくのを感じた。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
公爵家の嫡男と聞いていたため、もっと威厳に満ちた人物を想像していた。
だが、目の前の青年は柔らかな物腰で話しやすく、自然と肩の力が抜けていく。
そんな二人の様子を見て、父は満足そうに頷いた。
アシュレイは穏やかな微笑みを浮かべ、言葉を続けた。
「伯爵から事情は伺っています。私に教えられることでしたら、喜んでお力になります」
その言葉に、クラリスはほっと息を吐いた。
「ありがとうございます」
頭を下げると、アシュレイは小さく首を横に振った。
「そんなにかしこまらなくても大丈夫ですよ。私も人に教えるのは初めてですから、お互い気負わずにいきましょう」
その一言に、クラリスはさらに安心感を覚えた。
それほどにアシュレイは、穏やかな空気を纏う人物だった。
父はそんな二人を見て安心したように頷く。
「それでは頼みましたよ、アシュレイ殿」
「ええ、お任せください」
玄関前には、荷を積み終えた馬車が停まり、数名の護衛や侍女たちが出発の準備を整えていた。
アシュレイは馬車の扉を開き、先にクラリスを乗せる。クラリスが席に着いたのを確認すると、自らもその向かいへ乗り込んだ。
やがて、一行を乗せた馬車は王都を後にした。
石造りの街並みが少しずつ遠ざかり、窓の外には広々とした畑や緑豊かな丘陵が広がっていく。
クラリスは思わず窓辺へ身を寄せた。
「……広い」
飾らない感想が自然と口をつく。
そんな横顔を見ながら、アシュレイが穏やかに微笑んだ。
「王都とはずいぶん景色が違うでしょう」
「はい。こんな景色が広がっているなんて、知りませんでした」
「領地へ出ると、本だけでは分からないことがたくさんあります」
アシュレイは窓の外へ目を向ける。
「あの畑一つにも、そこへ至る道にも、人々の暮らしが詰まっていますから」
クラリスも同じ景色へ目を向けた。
畑では、農夫たちが慣れた手つきで麦の手入れに励んでいる。
その光景を眺めながら、父が教えてくれた「領民の暮らしを守ることが領主の仕事」という言葉を思い出していた。
*
昼前、一行は街道沿いの宿場町で休憩を取ることになった。
馬車を降りると、焼きたてのパンの香ばしい香りが風に乗って漂ってくる。
「いい匂いですね」
思わずそう呟くと、隣にいたアシュレイが微笑んだ。
「ええ。この町の名物なんですよ」
アシュレイに案内され、二人は馬車を停めた場所の近くにある木製のベンチへ腰を下ろした。
行き交う人々の声や、通りを歩く荷馬車の音が聞こえる中、アシュレイはパン屋の主人から受け取った丸いパンを一つ、クラリスへ差し出す。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
まだ温もりの残るパンを受け取り、クラリスは一口かじった。
外側は香ばしく、中はふんわりとしている。
噛むほどに素朴な甘みが広がり、自然と頬が緩んだ。
「わっ……とっても美味しいです」
弾んだ声がこぼれる。
そんなクラリスを、アシュレイはどこか嬉しそうに見つめた。
「領地には、その土地ならではの食べ物や味があります。そういうものを実際に知ることも、領地を知るうえで大切なことだと私は思っています」
「食べ物も……ですか?」
「ええ。人の暮らしは、毎日の食事とも深く結びついていますから」
クラリスは、なるほどと頷いた。
そんな考え方をしたことは、一度もなかった。
そこに暮らす人々が何を作り、何を食べ、どんなものを大切にしているのか。
そうした一つひとつを知ることもまた、その土地を知るということなのだ。
そんなことを考えていると、アシュレイが少し悪戯っぽい表情を浮かべた。
「ちなみに、このパンには蜂蜜をかけるのがおすすめなんです」
「蜂蜜を?」
「ええ。そして、なんとちょうどここに……」
そう言って、アシュレイは持っていた小さな瓶を取り出した。
「蜂蜜が」
その言い方が少しおかしくて、クラリスは思わず口元を綻ばせた。
「クラリス様も、よければ試してみてください」
「はい」
渡された瓶から蜂蜜を少しかけて、もう一度パンを口に運ぶ。
「わっ……」
先ほどとは違う甘さが、ふわりと口の中に広がった。
「本当に美味しいです。先ほども十分美味しかったですが……こんなに美味しいパンは、初めて食べました」
クラリスの心からの言葉に、アシュレイは満足そうに微笑んだ。
「でしょう?気に入ってもらえて良かったです」
そして二人で並んでパンを味わった。
たった一つのパン。けれど、クラリスにとっては、今まで知らなかったものを一つ知ることができた、嬉しい出来事だった。
これから訪れる土地でも、きっとその土地にしかないものがあるのだろう。
どんな人が暮らし、何を作り、どんなものを食べているのか。
そんなことを実際に見て、触れて、味わってみたい。
クラリスは、これまで抱いたことのなかった期待を胸に抱きながら、残ったパンを大切に味わった。
休憩を終えて、馬車が再び走り出してからしばらくすると、街道沿いに大きな川が見えてきた。
その川に架かる石橋を見つめながら、クラリスが尋ねる。
「あの橋も、領主が管理しているのですか」
「ええ、もちろんです」
アシュレイは静かに頷いた。
「橋が壊れれば商人は通れません。物が運ばれなくなれば、人々の暮らしにも影響が出ます」
クラリスは、橋へ視線を戻した。
王都で父から教えられていたことも、こうして実際に領地を目にすると、その意味が以前とは少し違って感じられた。
アシュレイが、言葉を選ぶように静かに続ける。
「領地を治めるということは、そこに暮らす人々の生活を預かることです。ですから、目に見える問題だけではなく、その先に何が起こるのかまで考えなければなりません」
穏やかな声音だが、その言葉には揺るがない覚悟が込められていた。
「税を納めてもらう以上、領主には責任があります。道や橋、農地や水の管理も、すべて領民の暮らしにつながっていますからね」
クラリスは静かにその横顔を見つめた。
アシュレイは、ただ優しいだけではない。
彼のその言葉の一つひとつから、領民の暮らしを守ろうとする強い意志が伝わってくる。
(……私も、アシュレイ様のような考え方が出来るようになりたいわ)
リンデ村に到着する頃には、クラリスはそんな風に考えるようになっていた。
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陽ノ下 咲




