第十話 リンデ村
リンデ村は豊かな緑に囲まれた、のどかな村だった。
(とても穏やかな場所)
クラリスは馬車の中から、畑で働く村人や、道端で楽しそうに会話を交わす女性たちの姿を眺めながら、そんなことを思った。
クラリスとアシュレイは、まず村長のもとを訪れ、到着の挨拶を済ませた。
村長は穏やかな笑みを浮かべながら二人を迎えたが、その視線は時折、クラリスへ静かに向けられている。
おそらく、これから領地に関わる立場となるクラリスが、どのような考えを持つ人物なのか見極めようとしているのだろう。
クラリスは、改めて自分の立場の重さを感じ、静かに背筋を伸ばした。
挨拶を終えた後は、村長から村の現状や翌日以降の視察予定について簡単な説明を受け、その日は長旅の疲れも考慮し、早めに切り上げることとなった。
クラリスは今後しばらく滞在することになる領務館近くの別邸へ向かい、アシュレイは村にレインフォード家が所有する別荘へと戻り、翌日からの視察に備えて、その日は早めに床に就いた。
翌朝、今後の職場である領務館に向かったクラリスは、既に到着していたアシュレイとともに、領内の視察へと向かっていた。
目的は、以前から土砂の堆積が問題となっていた農業用水路の様子を確認することだった。
馬車を降りると、澄んだ風が頬を撫でていく。
耳を澄ませば、水路を流れる水の音が心地よく響き、その周囲では農夫たちが朝から忙しそうに鍬を動かしていた。
「おはようございます。作業中に失礼します」
アシュレイは穏やかに挨拶をすると、一人ひとりに軽く声を掛けながら、慣れた様子で水路の方へ歩いていった。
クラリスもその後ろに続き、農夫と挨拶を交わした。
アシュレイは水路の縁まで歩み寄ると、しゃがみ込んで水の流れを覗き込んだ。
「……やはり」
アシュレイが小さく呟く。
「以前確認した時より、かなり土砂が溜まっています」
そう言って、水路の底へ視線を落とした。
「このまま放置すれば、水の流れはさらに悪くなるでしょう。夏になれば、下流まで十分な水が届かなくなる可能性があります」
クラリスも水路を覗き込む。
見ると水路の底が浅くなっており、流れも、ところどころ土砂に遮られているのが分かった。
「では、どうすれば……」
「まずは、ここに溜まった土砂を取り除く必要があります。ただ、それだけでは根本的な解決にはなりません」
アシュレイは水路の上流へ視線を向けた。
「これだけ土砂が溜まっているということは、上流から継続的に流れ込んでいる可能性があります。原因を突き止めなければ、土砂を取り除いても同じことの繰り返しです」
そう言って立ち上がる。
「上流まで確認してみましょう。水路沿いを辿れば、土砂が流れ込んでいる場所を見つけられるかもしれません」
アシュレイの言葉に頷きながら、クラリスは彼が言った言葉を頭の中で整理していた。
もう一度水路へ目を向ける。
目の前の問題だけでなく、その原因や、この先起こり得ることまで考えて判断を下すアシュレイの視点に、クラリスは改めて感心した。
*
その日の視察を終えて領務館へ戻ると、午後はその日に見聞きした内容を整理する時間となった。
執務室へ入ったアシュレイは、机の上へ数枚の紙を並べると、向かいに立つクラリスへ穏やかな眼差しを向ける。
「クラリス様。今日ご覧になったことを、簡単で構いませんので書き出してみてください」
「分かりました」
クラリスは席へ着き、ペンを手に取った。
水路の流れや橋の様子、畑で汗を流していた農夫たちの姿など、視察中の光景を一つひとつ思い返しながら、頭に浮かんだことを紙へ書き留めていく。
やがて書き終えると、少し緊張しながらアシュレイの前へ差し出した。
「ご確認、お願いいたします」
「では、拝見します」
アシュレイは礼を述べて紙を受け取り、静かに目を通し始める。
表情はいつもと変わらず穏やかで、その様子を見ていたクラリスも、自然と肩の力が抜けていった。
しかし、一通り読み終えたアシュレイは紙を丁寧に机へ戻すと、穏やかな口調のまま告げた。
「クラリス様。こちらは、一度書き直してみましょう」
予想もしていなかった言葉に、クラリスは思わず目を瞬かせる。
「……書き直し、ですか」
「はい」
アシュレイは一文を指先で示した。
「全体的に、ご自身の感想が多く書かれています」
促されるまま紙へ目を落とす。
『西地区の農業用水路は思っていたより広く、村の農業を支えていることがよく分かった。』
『北側の麦畑を管理する農家の皆さんは、一生懸命働いていて素晴らしいと思った。』
『川に架かる中央橋は立派で、多くの人に利用されている様子が印象的だった。』
並んでいるのは、目にした光景を通して自分が感じたことばかりだった。
「視察報告で大切なのは、まず事実を正確に記録することです」
責めるような響きはない。
ただ、当然のことを教えるように、落ち着いた声で言葉を重ねる。
「たとえば水路でしたら、どの場所に、どの程度の土砂が堆積していたのか。水の流れに問題はなかったのか。橋でしたら、どの地域をつないでいて、どの程度利用されているのか。農民の方々についても、ただ一生懸命働いていたと書くのではなく、何か困っていることはなかったか、どのような声があったのか。そうした事実を一つひとつ記録しておけば、そこから何が必要なのかを考えることができます」
アシュレイは、クラリスの書いた紙へ視線を落とした。
「感想が悪いわけではありません。ですが、それだけでは次の判断に必要な材料が足りないのです」
その説明を聞きながら、クラリスは自分の書いた文章を見つめた。
きちんと見ていたつもりだった。
けれど、本当に見ていたのは景色だけだったのかもしれない。
そう思うと胸が小さく痛み、自然と視線が伏せられる。
「……申し訳ありません」
また失敗してしまった。
やはり自分には向いていないのではないか。
そんな考えが胸をよぎった、その時だった。
「いいえ」
柔らかな声が、その思考をそっと遮る。
顔を上げると、アシュレイは穏やかな笑みを浮かべていた。
「初日でここまで書ければ十分ですよ」
「え……?」
「最初から完璧にできる方などいません。誰もが失敗を重ね、そのたびに学びながら少しずつ身につけていくものです」
その言葉は、不思議なくらい自然に胸へ染み込んできた。
「もう一度書いてみましょう。今度は自分が感じたことではなく、実際に見たことや聞いたこと、問題点などを書き出してください。分からないことがあれば、遠慮なく聞いていただいて構いません」
そう言って、アシュレイは優しく目を細める。
「そのために、私はここにおりますから」
その瞬間、クラリスの脳裏にルシアンの姿がよぎった。
もし同じ失敗をしていたなら、「こんなことも分からないのか」と呆れられ、「本当に愚図だな」と突き放されていたに違いない。
けれど、アシュレイは全く違う。
間違いはきちんと指摘する。けれど、できなかったことを理由に、その人自身を否定することは決してなかった。
「……はい」
クラリスは静かに頷くと、新しい紙を手に取った。
水路の土砂が堆積していた場所やその状況、農民たちが口にしていた困りごとを思い出しながら、一つひとつ丁寧に書き進めていく。
以前の自分なら、間違えてはいけないという思いばかりが先に立ち、少しでも分からないことがあれば、そこで筆を止めていただろう。
けれど、今は違う。
分からないことは、聞いてもいい。間違えた時は、教えてもらえる。
そう思えるだけで、不思議と肩の力が抜けていく。
もう一度やってみたいという気持ちが、いつの間にか胸の奥に芽生えていた。




