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心を無くした伯爵令嬢は、新たな土地で本当の自分を取り戻す  作者: 陽ノ下 咲


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第十一話 褒められた日

 領地へ来て一ヶ月ほどが過ぎた頃のこと。


 朝はアシュレイとともに村や町を巡り、午後は領務館でその日の視察内容を整理する。

 そんな日々を重ねるうちに、クラリスの物の見方は確実に変わり始めていた。

 橋を見れば、誰の暮らしを支えているのかを考え、市場へ行けば、人の流れや店の様子が気になる。

 何かを目にするたび、その先にある理由を自然と考えるようになっていた。


 その日の午前中、二人は村外れにある畑を訪れていた。

 農夫たちから話を聞き終え、畑の横道を歩いていた時だった。

 慌ただしい声が聞こえ、クラリスがそちらに顔を向けると、道のぬかるみに荷馬車の車輪が深く沈み込んでいた。


「せーの……!」


 二人の農夫が車体の後ろから必死に押している。

 けれど、車輪は泥に取られ、わずかに動くだけだった。


 それを見た次の瞬間、クラリスは駆け出していた。 そしてそのまま、ぬかるみの中へ足を踏み入れる。

 ドレスの裾が泥に触れ、靴もたちまち汚れるが、そんなことを気にする余裕はなかった。


「私も押します」

「え……ク、クラリス様!?いけません!汚れてしまいます!」


 農夫が慌てて止めようとすると、クラリスは首を横に振った。


「いえ、大丈夫です。今は、こちらのほうが大事ですから」


 荷馬車の後ろへ回り、農夫と並んで車体に手をかける。


「せーの!」


 三人で力を込める。けれど、車輪はなかなか動かなかった。


 その一連の動きを、呆気にとられて眺めていたアシュレイは、ようやく我に返った。

 クラリスが迷うことなく駆け出し、ドレスが汚れるのも構わずぬかるみに入っていったことに、目を奪われてしまった。

 けれど、泥にまみれながら荷馬車を押すクラリスの姿を見つめてしまっている自分に気がついた。

 その時、アシュレイの瞳がわずかに揺れる。やがて優しく細められ、口元がふっと緩んだ。

 

「すみません、出遅れてしまいました。私も手伝います」


 そう言って、彼も荷馬車の後ろへ回る。


「お二人とも、本当にありがとうございます。申し訳ございません」


 農夫が申し訳なさそうにお礼を言った。


「いえ。四人でやれば、きっとすぐですよ」


 アシュレイが加わり、三人で力を込める。


「せーの!」


 ぐっと押した瞬間、泥に沈んでいた車輪が大きく動いた。


「もう一度!」


 さらに力を込める。

 すると、車輪が勢いよくぬかるみから抜け、荷馬車が前へ進んだ。


「出た!」


 農夫が声を上げる。


「本当に助かりました。おかげ様で、今回は早く引き上げることが出来ました。ありがとうございました」

「いいえ、よかったです」


 クラリスはほっと息をついた。

 そして農夫たちが荷馬車の状態を確認しているのを見ながら、気になったことを尋ねる。


「このようなことが、たびたびあるのですか?」

「ええ、そうなんですよ」


 農夫は困った顔をして頷いた。


「雨が降ると、ここはすぐにぬかるんじまって。特に収穫の時期は荷物を積んだ荷馬車が何度も通るでしょう?毎年のように車輪がはまるんです」


 その言葉に、クラリスは改めて足元へ視線を落とした。

 雨が降ればぬかるみ、荷車の車輪が土に取られる。

 そうなれば遠回りをするしかなくなり、その分だけ村人たちの負担も増えてしまう。


 どうすれば……、と考えた時、ふと幼い頃に庭師から聞いたことを思い出した。

 雨上がりのぬかるんだ場所には砂利を敷けば、歩きやすくなるのだと教えてくれたことがあった。


 「……大きな工事は難しくても、応急的に砂利を敷けば、少しは通りやすくなるのではないでしょうか」


 言い終えた途端、自信がなくなる。また浅い考えかもしれない。

 そう思ってアシュレイを見ると、彼は何も言わずにしゃがみ込み、地面の土を手で確かめた。

 しばらく周囲にも視線を巡らせてから、ゆっくりと立ち上がる。


「クラリス様のお考えは、良いと思います」

「……本当ですか?」


 思わず尋ねると、アシュレイは頷いた。


「ええ。ただ、このまま砂利を敷くだけでは、雨が続けばまた沈んでしまうでしょう。まず表面の泥を少し取り除き、大きめの石を敷いて、その上から砂利を重ねれば、今よりはずっと道が安定するはずです」

「大きめの石を……」

「はい。応急的なものではありますが、収穫期を乗り切る程度なら十分でしょう」


 そう言って、アシュレイは農夫へ視線を向けた。


「砂利は近くで採れますか」

「ええ。川原にございます。大きな石も、いくらか拾えるかと」

「では、そこから運べそうですね。まずは応急処置を行いましょう。本格的な整備については、その後改めて検討しましょう」

「分かりました。では、村に行って協力できる者を呼んで参ります」


 農夫がそう言って駆け出すと、アシュレイは静かに頷いた。


 ほどなくして村人たちが集まり、川原から大きな石や砂利を運び始めた。

 アシュレイが作業の手順を指示し、クラリスも村人たちと一緒に石を運ぶ。

 ぬかるんだ泥を取り除き土をならして、大きな石を敷き、その上に砂利を重ねていく。

 皆で力を合わせて作業を進めるうち、ぬかるんでいた道は少しずつ姿を変えていった。


 作業を終える頃には、先ほどまで車輪が沈み込んでいた場所も、足を取られずに歩けるほどになっていた。

 終わった後、最初に荷馬車を動かすことを手助けした農夫たちから、もう一度「ありがとうございました」と頭を下げられた。


 クラリスは恐縮しながらも、胸の奥にじんわりと温かなものが広がっていくのを感じた。

 自分の考えが、誰かの役に立った。

 そんな経験は、生まれて初めてのことだった。



 その日の午後、領務館へ戻った後、クラリスはいつものように視察報告をいていた。

 机へ向かい、午前中の出来事を思い返しながら筆を走らせる。

 以前のように「立派な橋だった」「道が広かった」と書くことはなかった。

 どこに問題があり、それが人々の暮らしへどんな影響を及ぼすのか、そのために何が必要なのか、それらを考えながら、一つひとつ書き記していく。

 書き終えると、少し緊張しながらアシュレイへ差し出した。


「お願いいたします」


 アシュレイは静かに読み進め、やがて紙を閉じた。


「以前と比べて、ずいぶん変わりましたね」


 その一言に、クラリスは思わず顔を上げる。


「今日の報告書には、事実だけでなく、その先まで考えて書かれています」


 そう言うと、道の件が書かれた箇所へ視線を落とした。


「今日の砂利のご提案も良いものでした。現状を見て問題に気づき、ご自身なりに解決策を考えられた」


 アシュレイは、優しく目を細め、続ける。


「もちろん、最終的な判断には確認が必要ですが、領地を預かる者にとって何より大切なのは、どうすればもっと良くなるのかを考え続けることです。……ですから、あの場であの提案を出せたことは、間違いなく成長の証ですよ」


 穏やかな声が、静かにクラリスの胸の奥へ染み込んでいく。


「それに……ぬかるみにはまった荷馬車を見た時の、あなたの動きには心を打たれましたよ」


 そこで、アシュレイはわずかに口元を緩める。


「正直に言えば、少し驚きましたが。……ドレスが汚れることも気にせず、迷うことなく駆け出していかれましたから」


 そう言って、アシュレイはクラリスをまっすぐ見つめる。


「困っている人を見た時、自分にできることをしようとする。その心は、領地を預かる者である以前に、人として何より大切なものだと思います」


 そして、優しく微笑んだ。


「クラリス様には、それが元から備わっているんですね」


 その瞬間、クラリスの胸の奥が熱くなり、視界がぼやけた。


「……クラリス様?」


 慌てて顔を伏せたものの、一粒の涙が頬を伝って落ちた。


「あ……。も、申し訳……ありません」


 声が震える。


「大丈夫ですか?」


 心配そうに声をかけてくれるアシュレイに、クラリスは小さく首を横に振った。


「違うんです……」


 何とか笑おうとしても、上手くいかなかった。


「嬉しくて……」


 その一言を口にした途端、堰を切ったように涙があふれる。


「私……そんな風に、誰かに褒めていただけたことが、ほとんどなくて……」


 アシュレイは何も聞かなかった。

 ただ静かに、その言葉を受け止めてくれた。


「そうでしたか」


 穏やかに微笑み、優しい声が部屋に響く。


「クラリス様。……努力は、必ずしもすぐに結果へ結びつくとは限りません。ですが、真剣に積み重ねた時間は、決して無駄にはなりません」


 少し間を置き、柔らかく微笑む。


「クラリス様は、ご自身では気づいていないかもしれませんが、この一か月で、ここに来る以前とは随分と変わられましたよ。……その変化を近くで見てきた私が言うのだから、間違いありません」


 その一言が胸の奥へ深く届き、クラリスは涙を拭いながら小さく笑った。


「……ありがとうございます」


 こんな風に、失敗ではなく自分の努力を見てもらえたのは、これが初めてのことだった。

 その温かな喜びは、長い間閉ざされていた心へ、小さな光を灯すように静かに広がっていった。





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