第十二話 大馬鹿者
その日の仕事を終える頃には、西へ傾いた陽の光が領務館の窓を茜色に染めていた。
クラリスは執務室で視察報告を書き終えると、ペンを置いて小さく息をつく。
以前は書き終えるたびにどこか不安があった報告書も、今では以前よりも自信を持って差し出せるようになっていた。
そう思えるようになったことも、全てアシュレイの優しさあってこそだ。
クラリスは心の中で感謝と尊敬の念を込めて、報告書を提出した。
「お疲れさまでした」
アシュレイはそう言って報告書を受け取り、一枚ずつ丁寧に目を通していく。
その様子を見守りながら、クラリスはどこか照れくさそうに微笑んだ。
領地へ来てからの日々は決して楽なものではない。
それでも、毎日少しずつできることが増えていく実感があり、その積み重ねが今は何より嬉しかった。
やがて最後まで読み終えたアシュレイは、報告書を静かに閉じて満足そうに頷く。
「よくまとめられています」
「ありがとうございます」
自然と笑みがこぼれる。
そんなクラリスを見つめながら、アシュレイは少しだけ間を置き、おもむろに口を開いた。
「クラリス様。一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「はい」
穏やかな声音はいつもと変わらない。
けれど、言葉を選んでいるようなわずかなためらいが感じられ、クラリスは自然と背筋を伸ばした。
「以前、誰かに褒められたことはほとんどない、とおっしゃっていましたよね」
その言葉に、クラリスの表情がわずかに曇る。
「……はい」
アシュレイは静かに続けた。
「失礼を承知でお尋ねします。元婚約者のルシアン殿は、あなたを褒めることはなかったのですか?……立ち入ったこととは思いましたが、どうしても気になってしまって」
静かな問いかけだった。
けれど、その一言に、クラリスの胸の奥へ沈めていた記憶がゆっくりと浮かび上がる。
ーーお前の趣味など興味はない。
ーー本当に何も出来ないノロマだな。
ーー面白みのない女だ。
幼い頃から、どれほど努力を重ねても返ってくるのはそんな言葉ばかりだった。
彼に見合う淑女になれるよう、もっと頑張らなければと思い自分なりに努力し続けていたが、一度として「よく頑張った」と認められたことはなかった。
クラリスは、小さく首を横へ振った。
「……ルシアン様に褒めていただいたことなど、ありません」
自分でも不思議なくらい、声は穏やかだった。
アシュレイは急かすことも口を挟むこともなく、ただ静かに耳を傾けてくれている。その優しさに少しだけ救われたような気がした。
けれど、クラリスはどこか諦めたように微笑んだ。
「でも、それが当然なのだと思います。……私は、出来の悪い人間ですから」
そこまで言った時だった。
アシュレイが、静かに深いため息をついた。
「……はぁ」
普段の彼からは想像もつかないような、大きなため息だった。
思わずクラリスは顔を上げる。
「……アシュレイ様?」
アシュレイは額へそっと手を当て、小さく首を横に振った。
「実は私は、以前からあなたの元婚約者のことを、あまり賢い人物ではないと思っていたんです」
突然の言葉に、クラリスはきょとんと目を瞬かせた。
アシュレイは淡い青の瞳をすっと細め、続けた。
「ですが、どうやら私の認識は甘かったようですね。思っていたよりも、ずっと……」
一瞬だけ言葉を探すように視線を逸らしたあと、迷いなく言い切る。
「大馬鹿者だったようです」
その瞬間、執務室に静寂が落ちた。
クラリスはぽかんと口を開けたまま固まる。
今、聞き間違えただろうか。
「え……?アシュレイ様、今……なんと……」
思わず聞き返すと、アシュレイは真顔のままきっぱりと言い切った。
「あなたの元婚約者は、大馬鹿者だと言ったのです」
あまりにも真剣な表情で、あまりにもはっきりと。
しかも、公爵家の嫡男とは思えないほど率直な言葉だったものだから。
一瞬の沈黙のあと、不意に小さな笑いが漏れた。
「ふっ……」
思わず口元を押さえる。
それでも込み上げるものは抑えきれず、肩が小さく震えた。
「ふふっ、あはは……!」
とうとう堪えきれず、声を上げて笑ってしまう。
「お……大馬鹿者って……」
こんなふうに心の底から笑ったのは、いったいいつ以来だろう。
「ルシアン様が……大馬鹿者……。ふふ、あははっ……!」
笑いすぎて涙が滲んできてしまい、それを拭いとりながらクラリスは笑いを必死に納めた。
ルシアンの婚約者だった頃は、誰も彼をそんなふうに評することなどなかった。
それなのに今、目の前のアシュレイは、まるで当たり前のことを口にするように言ってのけた。
そのことがおかしくて、そしてすごく嬉しかった。
そんなクラリスを見つめながら、アシュレイはふっと口元を緩める。
「ようやくその笑顔を見せてくれましたね」
その一言に、クラリスは目を丸くした。
「え……?」
「あなたはずっと、笑っているようで笑えていませんでしたから」
その声は、どこまでも穏やかで優しかった。
「今の笑顔が見れて、嬉しいです」
その言葉に、クラリスの胸の奥がじんわりと温かく満たされていく。
長い間、心の奥を覆っていた重たい霧が、少しずつ晴れていくような、そんな心地がした。




