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心を無くした伯爵令嬢は、新たな土地で本当の自分を取り戻す  作者: 陽ノ下 咲


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第十三話 知らなかった景色

 心から笑うことができたあの日から、少し経ったある日の午後。

 午前中の視察を終えたアシュレイは、地図を丁寧に畳みながらクラリスへ声を掛けた。


「クラリス様、今日は少し遠回りをしてから戻りましょうか」

「遠回りですか?」

「ええ。この辺りは景色が良いんですよ」


 仕事中の彼からそんな誘いを受けるとは思ってもおらず、クラリスは少し驚いたように目を瞬かせる。

 するとアシュレイは、その表情を見て小さく笑った。


「もちろん、これも視察の一つですよ」


 その言葉に、クラリスも思わず笑みを浮かべた。


「はい」


 アシュレイはクラリスを伴って、木立の続く小道へ足を踏み入れた。

 道の両脇には背の高い木々が並び、木漏れ日が揺れながら地面へ降り注いでいた。

 どこかから小鳥のさえずりが響き、木々の葉を揺らす風の音が心地よく耳に届く。


「……静かですね」

「ええ。いいところでしょう?この辺りは私も好きな場所なんです」


 穏やかに答えたアシュレイは、木々を見上げながら続ける。


「季節によって表情が変わるんですよ。春は新緑が美しいですし、秋になると紅葉が見事です」


 その言葉に、クラリスは周囲を見回す。


「アシュレイ様は、こういう場所もご覧になるのですね」

「ええ、もちろんです」


 少しだけ不思議そうに笑う。


「領地は建物や畑だけではなく、自然もまた、この土地の財産ですから」


 クラリスは思わず息を呑んだ。

 アシュレイは、この景色も守るべきものとして見ているのだ。

 領主とは、人々の暮らしだけではなく、その土地そのものを未来へ繋いでいく存在なのかもしれない。

 そんなことを考えているうちに、小道を抜け、視界が一気に開けた。


「……わぁ」


 クラリスの口から、感嘆の声が漏れた。

 一面に広がる草原の向こうには、青く連なる山々がどこまでも続いていた。

 その手前では黄金色に色づき始めた麦畑が風を受け、さらさらと波打つように揺れている。


「綺麗……」


 頬を撫でる風が亜麻色の髪を優しく揺らしていく。

 その光景を見ながら、クラリスの胸の奥が、じんわりと熱くなっていった。


 景色を見て、こんなにも心を動かされたのはいつ以来だろう。

 目の前に広がる景色を前に、自然と「綺麗」という言葉が口をついて出た。

 忘れていたはずの感情が、少しずつ心の奥で息を吹き返していくような気がして、クラリスはしばらく景色から目を離すことができなかった。


「ここへ来ると、不思議と心が落ち着くんです」


 隣へ並んだアシュレイも、穏やかな眼差しで景色を眺めていた。


「視察の途中、ときどきこうやって足を止めて眺めるんです」


 その言葉にクラリスは少し驚く。


「お忙しいのに、ですか?」

「いえ、むしろ忙しいからこそですね」


 遠くの山並みへ視線を向けたまま、アシュレイは静かに微笑んだ。


「仕事ばかりしていると、大切なものを見失うことがありますから」


 その横顔は、まるで自分自身にも言い聞かせているように見えた。

 それからしばらく、二人は何も言葉を交わさず、景色を眺め続けた。

 穏やかなこの時間に身を委ねていると、胸の奥まで静かに満たされていくようだった。


「私……」


 自然と声がこぼれる。


「こんな景色があるなんて、これまで知りませんでした」


 王都で暮らしていた頃は、侯爵夫人になるための勉強に追われる毎日だった。

 外へ出ても目にするのは社交界の人々や豪華な屋敷ばかりで、同じ国にこんなにも美しい景色が広がっていることなど、一度も気に留めたことはない。

 いや、知ろうとしたことすら、なかったのかもしれない。

 アシュレイが穏やかに口を開いた。


「知らないことは、きっとまだたくさんあります。ですが、それは恥ずかしいことではありません。これから知っていけばいいのです」


 その言葉に、クラリスは静かに頷いた。


「はい」


 返事は、自分でも驚くほど自然に口からこぼれた。



 領務館へ戻る馬車の中でも、クラリスは窓の外を眺めていた。

 これまでも通ったことのあるはずの道なのに、そこに広がる景色は今までとはまるで違って見える。

 小さな川も、石橋も、畑で働く農夫の姿も、道端に咲く名も知らぬ花さえも、どれひとつとして見過ごしたくなかった。


(世界って……こんなに広かったのね)


 これまでの自分にとって、世界はルシアンの隣だけだった。

 けれど、世界はもっと広く、美しく、そして優しい。

 そのことを教えてくれた景色を胸に刻むように、クラリスは窓の外を見つめる。

 その口元には、自然と心からの笑みが浮かんでいた。



 


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