第八話 初めての仕事
父から領地経営について学び始めてから、数日が過ぎていた。
クラリスは毎日書斎へ通い、帳簿や地図を広げて領地について学んでいた。
まずは自分で資料に目を通し、分からないところがあれば、父の手が空いた時に教えを請う。
そんな日々を重ねるうちに、少しずつ領地のことが見えるようになってきていた。
最初は数字ばかりが並ぶ帳簿を見ても何が書かれているのか分からず戸惑うことばかりだったが、少しずつ項目の意味が理解できるようになり、父の説明も以前より頭に入るようになってきた。
領主の役目は、税を集めることではない。
領民が安心して暮らせるよう考え、より良い暮らしを守っていくこと。
その言葉を胸に刻みながら、クラリスは一つひとつの学びに真剣に向き合っていた。
そんなある朝、朝食を終えたクラリスは父に呼ばれ、執務室を訪れていた。
「おはようございます、お父様」
「ああ、おはよう」
机いっぱいに書類を広げていた父は、顔を上げると穏やかに微笑んだ。
「今日は少し付き合ってもらおうと思ってな」
「私に、ですか?」
「ああ」
父は書類を手早くまとめながら椅子から立ち上がる。
「これから商人たちとの話し合いがある。お前も同席して、どんな話が交わされるのか見てみるといい」
その言葉に、クラリスは思わず背筋を伸ばした。
これまでは書物の上で学ぶばかりだったが、今日は実際に領主の仕事を見ることができるのだ。
応接室へ入ると、すでに数人の商人たちが席について父を待っていた。
父が中央の席へ腰を下ろすと、一人の商人が立ち上がり、丁寧に頭を下げて口を開く。
「旦那様。今年は川沿いの道の傷みがひどく、荷馬車が通りづらくなっております」
その隣に座っていた商人も困ったように続けた。
「このままでは収穫期の荷運びにも支障が出そうでして……。できれば、それまでに修繕していただければ助かります」
クラリスは父ならすぐに返事をするものと思っていた。
だが父は頷くだけで、すぐには結論を口にしない。
「傷みがひどいのは、どの辺りだ?」
「橋の手前でございます」
「荷馬車は一日にどのくらい通る?」
「例年なら三十台ほどですが、最近は遠回りをする者も増えております」
父は商人たちの話を途中で遮ることなく最後まで聞き、必要なことだけを一つずつ確認していく。
その姿を見ながら、クラリスは静かに息をのんだ。
答えを急がず、まず状況を知ろうとする。
書物には書かれていなかった領主の姿が、そこにはあった。
話し合いを終えて商人たちが帰ると、父はクラリスへ目を向けた。
「どう思った?」
突然問いかけられ、クラリスは少し考え込む。
「皆さん、とてもお困りのように感じました」
その言葉に、父は静かに頷いた。
「では、すぐに工事を始めればいいと思うか?」
そう尋ねられ、クラリスは素直に自分の考えを口にする。
「……はい。その方がいいと思います」
「私もできることならそうしたい」
父は苦笑を浮かべながら続けた。
「だが、今は難しい」
「どうしてですか?」
「今は農作業が最も忙しい時期だからだ。工事を始めれば、人手をそちらへ回さなければならない」
その言葉を聞いた瞬間、クラリスははっとした。
道を直すことしか考えておらず、その工事を誰が担うのかまでは思い至っていなかったのである。
父は地図へ目を落としながら、穏やかに問いかける。
「では、いつが適切な時期だと思う?」
今度は少し考えてから答えた。
「……半年後、収穫を終えた時期でしょうか?その頃は一旦ひと段落していますから、人手にも余裕があります」
「うん、そうだな」
父は満足そうに頷いた。
「今は、最低限の応急処置だけを行い、本格的な工事は半年先に回す。それなら商人も農民も、大きな負担を負わずに済むだろう。……だが、それが最善の策なのかと聞かれたら、それだって絶対だとは言い切れない。だから、常に考え続けることが大切なことなんだ」
クラリスは思わず父を見つめた。
正しい答えはきっと一つではない。それぞれの立場を考え、皆にとって最も良い方法を探していく。
それが領主の仕事なのだと、今日初めて実感できた気がした。
応接室を出て廊下を歩いていると、父がふと足を緩めて口を開いた。
応接室を出て廊下を歩いていると、父がふと足を緩めて口を開いた。
「クラリス。来週から半年間、お前には王都を離れ、我が領地のリンデ村で過ごしてもらおうと思う」
思いがけない言葉に、クラリスは驚いて父を見上げる。
「書物だけでは学べないことがある。現場を自分の目で見て、人々と接してこそ、今日の話も本当の意味で理解できるようになるはずだ」
「はい、分かりました」
自然と返事に力が入る。
父はそんな娘の様子を見て、小さく微笑みを浮かべる。
「実はお前に、領地運営を学ぶうえで力を貸してくださる方がいる」
「え?」
驚いて父を見るクラリスに、父は優しく目を細めた。
「先日、我が家の上位にあたるレインフォード公爵家のアシュレイ殿と話す機会があってな。お前が領地運営を学んでいることをお伝えしたところ、その勉強熱心な姿勢を大変褒めてくださった」
クラリスは思わず目を瞬かせる。
「そのうえ、クラリスの指導役を務めることを申し出てくださったのだ」
「え……公爵家の方が私の指導役を……?」
父の口ぶりから、その人物への深い信頼が伝わってくる。
アシュレイというその人物をクラリスは全く知らないが、わざわざ娘の指導役をしてくれるほどに、二人の仲はいいのだろう。
「レインフォード公爵家は代々この地方を統べる家柄だ。領地運営についても学ぶべきことは多い。分からないことがあれば遠慮なく尋ねるといい。きっと得るものは大きいだろう」
クラリスは静かに頷いた。
自ら指導役を申し出てくれたというその人と共に領地を巡ることを思うと、胸の奥が静かに揺れた。
初めて会う男性に対する緊張はどうしても拭えない。
けれど、父がこれほど信頼を寄せる方なのだと思うと、その不安も少しだけ和らいだ。
新しい景色を見て、新しいことを学ぶ半年間が、自分をどこへ導いてくれるのか。
その答えを、クラリスはまだ知らなかった。




