第七話 最初の一歩②
「今までお前が学んできた政治学は、この国全体の歴史を知るための学問だった」
そう言って指先で地図の一角を示す。
「だが伯爵家が守るのは、この領地だ」
クラリスは自然と身を乗り出し、地図へ視線を落とした。
広大な畑があり、その向こうには深い森が広がっている。
いくつもの村が点在し、一本の川が町の中心をゆるやかに流れていた。
これまで地図としてしか見てこなかったその景色が、不思議と少し違って見える。
そこには多くの人々が暮らし、畑を耕し、日々の生活を送っている。
そして、その人々の暮らしを支えることこそが、伯爵家の役目なのだと、クラリスは初めて実感した。
父は広げていた地図から視線を上げると、穏やかな表情のままクラリスを見つめた。
「クラリス。領主の仕事とは、何だと思う?」
不意に向けられた問いに、クラリスは少し考え込む。
侯爵夫人になるための教育の中で、政治や外交について学んだことはある。けれど、領主の役目について深く考えたことはなかった。
「……税を集めることでしょうか」
恐る恐る答えると、父は静かに首を横へ振った。
「もちろん、それも仕事の一つだ。だが、一番大切な役目はそこではない」
そう言って机の上から一枚の書類を取り上げ、クラリスの前へ差し出す。
「これを見てごらん」
目を落とすと、そこには昨年領地を襲った豪雨による被害が、細かく記されていた。
流された橋の数、冠水した畑の面積、そして大きく落ち込んだ収穫量。
数字だけが並んでいるはずなのに、その向こうには領民たちの困り果てた姿が浮かぶような気がして、クラリスは思わず息をのんだ。
「こんなことになっていたなんて……」
「自然はこちらの都合など待ってはくれないからな」
父は穏やかな口調のまま、地図の上に描かれた一本の街道を指先でなぞる。
「橋が流されれば荷馬車は通れない。荷物を運べなければ商人も来なくなる。そうなれば村の暮らしは苦しくなり、領地全体にも大きな影響が出る」
そこで父は指を止め、クラリスへ視線を向けた。
「だから橋を修繕しなければならない。だが、そのための資金が足りなければ、どうすればいいと思う?」
突然問い返され、クラリスは言葉を失う。
橋は直さなければならないが、お金がなければ工事はできない。
だからといって税を増やせば、今度は領民たちの暮らしが苦しくなる。
どちらを選んでも誰かが困ってしまう。
その現実の重さに、クラリスは答えを見つけられなかった。
そんな娘の様子を見て、父は静かに頷く。
「税を上げれば領民は苦しむ。かといって資金がなければ橋は直せない。……領主とは、そうした答えのない問題に向き合い続ける立場なんだ」
一呼吸置いてから、穏やかに言葉を続ける。
「だから、領主は常に考える。どうすれば領民が少しでも安心して暮らせるのか。どうすれば、この土地に住む人たちが幸せになれるのかをな」
その言葉を聞いた瞬間、クラリスは思わず目を見開いた。
これまで政治とは、法律や制度を学ぶことなのだと思っていた。
けれど、本当は違う。
その先には、人々の日々の暮らしがあり、笑顔があり、守るべき生活がある。
初めてそのことを実感し、胸の奥が熱くなった。
「私は……何も知りませんでした」
自然と漏れた声は、かすかに震えていた。
「ですが……知りたいです」
まっすぐ父を見つめてそう告げると、その瞳には、これまでにはなかった確かな意志が宿っていた。
父はそんな娘を見つめ、満足そうに目を細める。
「ああ。その気持ちを忘れなければいい」
優しく微笑みながら、静かな声で続けた。
「今、自分が何も知らなかったと悔しく思えたのなら、その思いを大切にしなさい。これから少しずつ学んでいけばいいんだ」
その言葉は、まるで肩をそっと押してくれるようだった。
クラリスは小さく頷く。
胸の奥に、これまで感じたことのない温かな灯がともった。
侯爵夫人になるためではなく、伯爵令嬢として領地を知り、人を支えるための学びが、今まさに始まろうとしていた。




