第六話 最初の一歩①
自分を変えたいと、そう心に決めた翌朝のことだった。
朝食を終えたクラリスは、父から「執務室へ来なさい」と声を掛けられた。
扉を開けると、室内には紙とインクの匂いが静かに漂っている。大きな机の上には帳簿や地図が何冊も広げられ、いつも以上に仕事部屋らしい雰囲気が漂っていた。
「失礼いたします」
声を掛けて中へ入ると、父は穏やかに頷く。
「来たか。クラリス、そこへ座りなさい」
「はい」
勧められるまま机を挟んで向かいへ腰を下ろすと、父はしばらく娘の顔を見つめてから、静かに口を開いた。
「昨日、お前は、今後何をしたいのか分からないと言っていただろう」
クラリスは静かに頷いた。
「だったら一つ、私から提案があるんだが……」
父は椅子へ深く腰掛け直し、ゆっくりと言葉を続けた。
「クラリス、今日から領地の仕事を勉強してみないか」
穏やかな問いかけだった。
「これまで私は、お前に侯爵家へ嫁ぐための教育しか受けさせてこなかった。礼儀作法も教養も、すべて侯爵夫人になることを前提にしたものだったな」
その言葉に、クラリスも静かに頷く。
それが当たり前だと思っていたし、疑問を抱いたことなど、一度もなく生きてきた。
「だが、お前は、我がエーデルベルク伯爵家の令嬢だ」
父は机の上の地図へ手を添えた。
「伯爵令嬢であれば、本来なら、領地を治めるための知識も身につけておくべきだった」
クラリスは目を瞬かせた。
そんなことを、自分が学ぶ日が来るとは思ってもみなかった。
押しつけるような口調ではなく、穏やかに父が続ける。
「もちろん、それがすべてではない。学ぶうちにお前が本当にやりたいことを見つけたのなら、そちらを選んでも構わない」
そう言って優しく微笑んだ。
「これからは、お前自身の人生だ。誰かのためではなく、自分で選んで生きていけばいい」
その言葉は、静かにクラリスの胸へ染み渡った。
これまで一度も言われたことのない言葉だった。
自分で選び、自由に生きていい。
その響きが胸の奥へじんわりと広がり、思わず目頭が熱くなる。
「……はい」
小さく返事をすると、父は満足そうに頷いた。
「では、さっそく今から始めようか」
「今から、ですか?」
少し驚いて尋ねると、父は穏やかに笑う。
「ああ。思い立った日が、一番始めるのにいい日だからな」
そう言うと、父は机の上へ一枚の地図を広げた。




