第五話 私を変えたい
婚約が正式に解消されてから、一週間が過ぎた。
その知らせは、あっという間に社交界へ広まっていった。
客人が伯爵家に訪れた際には、皆どこか痛ましそうな眼差しでクラリスを見つめた。
「きっと今後、良いご縁がありますわ」
「どうか元気をお出しになってくださいませ」
優しい言葉を掛けられるたび、クラリスは「ありがとうございます」と礼をした。
ただ、それ以上は何も話せなかった。
何を話せばいいのか、自分でも分からなかった。
夕食を終え、自室へ戻ろうとしたところで、父から「この後、書斎へ来なさい」と声を掛けられた。
書斎へ入ると、父は机の上に積まれた書類へ目を通していたが、クラリスが入室すると手を止め、向かいの椅子を勧める。
「座りなさい」
「はい」
静かに腰を下ろすと、父はすぐには口を開かなかった。
娘の顔を見つめながら、何をどう伝えるべきか考えているようだった。
しばらくして、小さく息をついた父は、穏やかな声で問いかける。
「クラリス。これから先、お前はどうしていきたい?」
思いもよらない質問だった。
クラリスは思わず目を瞬かせる。
「これから……ですか?」
「ああ。ルシアン殿との婚約は解消された。これからの人生は、お前自身が決めればいい」
その言葉は、クラリスにとって初めて耳にするものだった。
自分で決めることを、これまで一度でも求められたことがあっただろうか。
何かを選ぶ時も、学ぶ時も、将来のことを考える時も、そこにはいつも『侯爵夫人になるため』という答えが用意されていた。
だから、自分が何を望むのかを考えたことなど、一度もなかった。
「私は……」
答えようとして口を開く。
しかし、何一つ言葉にならなかった。
未来を思い描こうとしても、そこには何もない。
侯爵夫人になるという、その一本道だけを歩いてきた人生には、その先の景色が存在しなかった。
「……分かりません」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど頼りなかった。
父はその答えを責めることなく、小さく頷く。
「そうだろうな。だが、急いで見つける必要はない」
穏やかな声だった。
「これから少しずつ、お前自身の人生を歩けばいい」
その言葉は、すぐには胸へ落ちなかった。
けれど、これまで一度も言われたことのない言葉だったからこそ、静かな波紋のように心の奥へ広がっていく。
クラリスは膝の上でそっと手を重ね、小さく息を吐いた。
自室へ戻ったクラリスは、窓を開けてそっと外を見つめた。
涼しい風が頬を撫で、庭に咲く花々が静かに揺れている。
(今の私には、何もないわ……)
侯爵夫人になることだけを目標に生き、そのためだけに自分を形作ってきた結果、気づけば自分自身が何も残っていなかったのだ。
好きなものも、やりたいことも、自分の意志で選んだものは何一つ思い浮かばない。
それでも、その空っぽな心の中に、今までにはなかった一つの思いだけが静かに芽生えていた。
(……このままでは、嫌)
これまでの人生は、誰かに叱られないため、誰かに嫌われないため、期待を裏切らないためだけに歩いてきた。
その道を必死に歩き続けるうちに、自分が何を感じ何を望んでいるのかさえ、分からなくなってしまっていた。
だけどもう、自分を見失うほど誰かに合わせ続ける生き方は、もう終わりにしたいと思った。
たとえ今は何も分からなくてもいい。
好きなものがすぐに見つからなくても構わない。
迷いながらでも、自分の足で前へ進み、自分自身の人生を歩いてみたい。
クラリスは、そっと息を吐く。
「……私は、こんな自分を変えたいわ」
その声はかすかに震えていた。
けれど、その願いだけは誰かに教えられたものではない。
生まれて初めて、自分の心が自分のために生み出した、小さくても確かな決意だった。
クラリスはこの時初めて、彼女の人生を大きく動かす、最初の一歩を踏み出したのだった。




