第四話 空っぽな自分
クラリスは、どこか現実味のない心地のまま、ヴァイスハルト侯爵家を後にした。
静かな馬車の中には、車輪が石畳を転がる規則正しい音だけが淡々と響いている。
その単調な音を聞きながら、クラリスは窓の外へぼんやりと視線を向けた。
見慣れた王都の街並みがゆっくりと流れる。
けれど、その景色は少しも心に映らなかった。
頭の中を占めていたのは、家へ帰れば両親に今日の出来事を話さなければならないということだけだった。
(お父様も、お母様も……きっと失望なさるわ)
そんな不安ばかりが胸を締めつけ、気づけば馬車は屋敷へと到着していた。
使用人に迎えられながら屋敷へ入ると、応接室にはすでに父と母が待っていた。
二人の前に座ったクラリスは、震えそうになる声を抑えながら、侯爵家で起きた出来事を一つひとつ包み隠さず話した。
話し終えた部屋には、しばらく重い沈黙が流れる。
やはり失望しただろうかと、身を縮こまらせた、その時だった。
「……馬鹿馬鹿しい」
低く吐き捨てるように呟いたのは父だった。
その表情には呆れと怒りが浮かんでいる。
「家同士で正式に結んだ婚約を、自分の感情だけで勝手に破棄するとは……。ヴァイスハルト侯爵家は一体何を考えている」
父は机を軽く叩き、険しい表情のまま続けた。
「そんな婚約者、むしろこちらから願い下げだ。向こうから言ってきてくれて、かえって良かったくらいだぞ」
思いもよらない言葉に、クラリスは目を見開いた。
父は自分を責めるどころか、ルシアンの態度に怒ってくれていた。
隣では母も静かに頷いている。
「ええ、その通りです」
母は穏やかな口調のまま、しかしきっぱりと言った。
「こちらからは正式な手続きをもって、婚約破棄を了承する旨をヴァイスハルト侯爵家へお伝えしましょう。それでよろしいですね、クラリス」
クラリスは小さく頷いた。
「……はい」
胸の奥に張り詰めていたものが、少しだけほどけていく。
帰ってくるまでは、両親を失望させてしまうのではないかと、そればかりを恐れていた。
けれど、二人は違った。
責めることも、失望することもなく、ただ娘の味方でいてくれた。
その温かな想いに触れた途端、それまで必死に堪えていた涙が滲みそうになる。
母はそんなクラリスの様子を見て、優しく微笑んだ。
「今日はもう何も考えなくていいわ。ゆっくり休みなさい」
「……はい」
小さく返事をしたクラリスは静かに立ち上がる。
両親へ一礼すると、そのまま自室へと続く階段をゆっくりと上っていった。
*
自室へ戻り、静かに扉を閉める。
部屋の中には、いつもと変わらない景色が広がっていた。
本棚も、机も、刺繍道具も、窓辺に置かれた椅子も、何一つ変わってはいない。
それなのに、どれも初めて見るもののように感じられ、この部屋だけが自分を置き去りにしてしまったような、不思議な違和感が胸に広がる。
クラリスは力なく椅子へ腰を下ろした。
ふと机の上へ目を向けると、侯爵邸へ向かう前まで縫い進めていたハンカチが、そのまま置かれている。
白い布に咲く小さな青い花。
ルシアンの為に刺していた刺繍だ。
そっと手に取ると、細やかな糸目が指先に心地よく触れる。
「……これももう、必要ないのね」
ハンカチの刺繍にそっと触れながら、不意に胸の奥で小さな疑問が芽生えた。
自分はもう、侯爵家へ嫁がない。
ならば、これからは、一体何をすればいいのだろう。
その問いが浮かんだ途端、頭の中が真っ白になった。
侯爵夫人になることだけを目標に生きてきた。
朝起きる時間も、学ぶ内容も、習い事も、立ち居振る舞いも、そのすべてが未来の侯爵夫人になるためだった。
その未来がなくなった今、自分には何が残っているのだろう。
考えてみても、何一つとして思い浮かばなかった。
クラリスは立ち上がり、本棚の前へ歩み寄った。
並んでいるのは礼法や歴史、外交、貴族社会について書かれた本ばかりで、どれも侯爵夫人になるために必要だと言われ、幼い頃から読み続けてきたものだった。
小説も数冊あるにはあるが、いつ手に入れたものなのかさえ思い出せない。
机の引き出しを開けば、色とりどりの刺繍糸が整然と並んでいる。
けれど、それも花嫁修業の一つとして覚えた技術だった。
クラリスは鏡の前に立った。
そこに映っているのは、感情を乱さず、誰にも不快な思いをさせないよう整えられた表情をした、亜麻色の髪と緑の瞳を持つ自分の姿だった。
侯爵夫人になるために身につけてきた、一切の感情を持たない静かな顔を、しばらくぼんやりと見つめる。
「……私は」
小さく呟く。
「私は、どんな人間だったのかしら」
静かな部屋に、その声だけが儚く溶けていく。
答えてくれる人は、どこにもいなかった。




