第三話 面白みのない女
ある日の昼下がりのこと。
クラリスは自室で、ルシアンに贈るため、静かにハンカチに刺繍をしていた。
白い布に、小さな青い花を一針ずつ丁寧に咲かせていく。
そっと布を持ち上げると、細やかに揃った糸目が指先に心地よく触れる。
幼い頃から何度も繰り返し練習してきた刺繍は、今では家庭教師からも褒められるほどになっていた。
「もう少しで完成ね……」
小さく呟き、再び針を進めようとしたその時、コンコン、と扉が叩かれた。
「クラリス様、ルシアン様より急ぎお伝えしたいことがあるため、侯爵邸へお越しいただきたいとのご連絡がございました」
「え、私に?」
「はい。お迎えの馬車が到着しておりますので、ご準備ができ次第、至急ご出発をお願いいたします」
「ええ……分かったわ」
あまりに突然の呼び出しに戸惑いを覚えながらも、クラリスは静かに立ち上がった。
やがて迎えの馬車に乗り込み、ヴァイスハルト侯爵邸へ向かった。
到着すると、使用人に案内され、そのまま応接室の前まで通された。
「ルシアン様がお待ちです」
扉が開き、クラリスは一礼しながら部屋へ足を踏み入れ、思わず動きを止めた。
(……え?)
部屋にいたのは、ルシアンだけではなかった。
彼の周りには友人らしき男性が二人、そしてルシアンの隣には、クラリスの見覚えのない若い女性が座っていた。
女性は燃えるような赤い髪に澄んだ青い瞳を持ち、豪奢なドレスを優雅に着こなしている。
皆、まるで茶会でも開いているかのように、穏やかな表情でくつろいでいた。
とても急ぎの用件で呼び出されたとは思えない空気だった。
「ああ、来たか」
ルシアンはソファに腰掛けたまま、興味なさそうにこちらを見た。
「ごきげんよう、ルシアン様」
「ああ」
いつも通りの短い返事を聞きながら、クラリスは使用人に案内され、ルシアンと向かい合う形で空席へと座った。
誰も口を開かないまま、重い沈黙だけが流れた。
やがてルシアンは退屈そうに息を吐き、口を開いた。
「今日は、お前との婚約を解消することを伝えるために呼んだのだ」
あまりにも淡々とした口調だった。
まるで明日の予定でも話すかのような声音に、クラリスはその言葉の意味をすぐには理解できず、しばらく瞬きを繰り返した。
「……婚約をですか?」
「ああ、そうだ」
ルシアンの返事はそっけなかった。
謝罪もなければ、理由を説明しようとする様子もない。
クラリスは膝の上で重ねた手にそっと力を込め、小さく息を吸ってから静かに尋ねた。
「……理由をお聞きしてもよろしいでしょうか」
「理由?」
ルシアンは鼻で笑うと、背もたれへゆったりと身を預けた。
「そんなもの、決まっているだろう」
一拍置いて、彼は何でもないことのように言い放つ。
「お前が面白みのない女だからだ」
その一言に、応接室は水を打ったように静まり返った。
ルシアンは当然と言わんばかりに続ける。
「何を聞いても『はい』としか言わない。自分の考えもなければ趣味もない。何を考えているのかも分からないし、一緒にいて退屈なんだ」
「まあそれは分かるけど、本人を目の前に、ちょっと言い過ぎじゃないか?」
友人の一人が苦笑しながら言った。
「いや、そんなことは無い。こいつは何を話しかけても返事は『はい』ばかりだし、笑ったところなんて見たこともない」
「クラリス嬢って、無個性だもんな。なんか透明人間っぽい」
友人の一人が言ったその言葉に、くすくすと笑い声が広がる。
その中で、クラリスだけが静かに俯いていた。
やがて意を決したように顔を上げ、小さな声で口を開く。
「……ですが」
一斉に視線が集まった。
「以前、ルシアン様に花のお話をした時、あなたは何の意味があるのだと怒りました。それに、私の話はくだらないともおっしゃられます……。ですから私は、自分のことは話さない方がよいのだと思っておりました」
最後まで言い終える前に、ルシアンは小さくため息をついた。
「それが駄目なんだと、何故お前は分からないんだ」
その一言で、クラリスは言葉を失う。
「全部、言われた通りにするだけじゃないか。少しくらい自分で考えたらどうなんだ?」
「え……?」
思わず漏れた声は、自分でも驚くほど小さかった。
言われた通りにすれば怒られない。
そう信じて、自分の好きなものも、自分の考えも、少しずつ心の奥へ押し込めてきた。
それなのに今は、その生き方そのものを否定されている。
何が正しかったのか分からないまま、頭の中だけが白く霞んでいった。
ルシアンが肩をすくめる。
「まあ、お前には無理だったということだ。だから婚約はこれで終わりだ」
そう言い切ると、彼は隣に座っている女性へと視線を向けた。
「紹介しよう。エスメラルダ・グランシェ侯爵令嬢だ」
エスメラルダは美しい笑みを浮かべ、優雅に一礼した。
「初めまして、クラリス様」
礼儀正しい挨拶だったが、その微笑みには勝者だけが持つ余裕が滲んでいるようにも見えた。
「俺は、彼女と婚約する」
迷いのない声だった。
「話も面白いし、自分の意見もきちんと持っている」
「それはまた、クラリス嬢とは正反対だな」
ルシアンの友人の一人が言った言葉に、再び笑い声が上がる。
けれど、その声はもうクラリスの耳には届いていなかった。
胸の奥は不思議なほど静かで、悲しみも悔しさも湧いてこない。
ただ、これまで信じて歩いてきた道が音もなく崩れ落ち、その先に何も見えなくなってしまったような感覚だけが、ゆっくりと心を満たしていく。
クラリスは静かに立ち上がると、深く一礼した。
「……分かりました。これまで、お世話になりました」
踵を返そうとした、その時だった。
「おい」
少し焦りを帯びた声でルシアンに呼び止められて振り返る。
「何でしょうか」
ルシアンはじっとクラリスを見つめたまま、低い声で尋ねた。
「それだけか?」
その声には、わずかな戸惑いが滲んでいた。
「……それだけとは?」
ルシアンの質問の意図がわからず、聞き返す。
すると、彼が初めて、苦虫を噛み潰した様な顔をした。
「もっとこう、……泣いたり、嫌だとごねたりしないのかと聞いている」
その問いに、クラリスは少しだけ考え、小さく首を横へ振った。
「……いえ。その様なこと、するはずもありません」
そう言い残して部屋を後にする。
扉が静かに閉まると、応接室には奇妙な沈黙が流れた。
「……何なんだ、あいつは」
閉じられた扉を見つめながら、ルシアンは眉をひそめ、不満気にそう呟いた。




