第二話 従順な令嬢
クラリスが初めてルシアンに蔑むような言葉を投げかけられたのは、十歳を過ぎた頃だった。
それまでのルシアンは、プライドが高く、きつい物言いをする強気な性格ではあるものの、クラリスを露骨に見下すようなことはなかった。
だが、その頃を境に、彼は明らかに以前とは違う態度でクラリスに接するようになった。
それは、両家の交流会が催された日のことだった。
庭園に咲いていた薄紫色の花があまりにも綺麗で、クラリスは思わず足を止めた。
「ルシアン様、このお花とても綺麗ですね」
嬉しそうに振り返ったクラリスに返ってきたのは、冷たい声だった。
「花など眺めて、何になるというのだ」
「え……?」
「そんな物を見て立ち止まる暇があるなら、さっさと歩け」
その一言で、クラリスは慌てて頭を下げた。
「も……申し訳ありません」
それ以来、花を見るたび、ルシアンにかけられた言葉が頭をよぎるようになってしまい、クラリスはあれほど好きだったはずの花を見ることを、やめてしまった。
思えば、その頃から少しずつ、ルシアンとの歯車が噛み合わなくなっていったように思う。
その歯車が再び噛み合うことは無く年月だけが流れ、クラリスは二十歳になった。
ヴァイスハルト侯爵家へ嫁ぐ日も、もうすぐ目の前まで迫っている。
その日、クラリスはヴァイスハルト侯爵家へ招かれ、ルシアンと昼食をともにすることになっていた。
食堂には、すでに侯爵夫妻とルシアンが席についている。
クラリスは静かに席へ着くと、一つひとつの所作を確かめるように食事を始めた。
ナイフを置く位置も、フォークを持つ角度も、背筋の伸ばし方も、相手へ向ける視線も、一つとして気を抜くことはできない。
すべては、未来の侯爵夫人として恥をかかないためだった。
しばらくして、ルシアンが皿の端へ視線を落とした。
クラリスはそれに気づくと、何も言われる前に少し離れた位置に置かれていた調味料へ手を伸ばし、ルシアンにそっと差し出した。
「……」
ルシアンは何も言わず、それを受け取る。
幼い頃から、彼が何を求めるのかを考えて動くことは、クラリスにとって習慣になっていた。
やがて食事が終わり、クラリスは今日はそれほど怒られなかったと、ほっと胸を撫で下ろした。
そんなクラリスの様子を見て、侯爵夫人が穏やかに微笑む。
「クラリスさんは、本当に気が利くわね。今日だって、ルシアンが言う前にあの子の欲しいと思うものを渡してらしたもの」
「ありがとうございます」
素直に頭を下げると、ルシアンが小さく鼻で笑った。
「こいつが気が利くんじゃない。何も出来ない愚図な女だから、俺が躾けてやった結果だ」
その言葉に、侯爵夫妻は顔を見合わせて苦笑気味に笑った。
クラリスは、そんなルシアンの言葉を黙って受け止めていた。
もう慣れてしまったはずの言葉なのに、胸の奥にはいつも小さな痛みが残る。
それでもクラリスは、その痛みに気づかないふりをするように、ただ静かに耐えていた。
食事を終えると、ルシアンに連れられ、二人は王都の街へ出た。
侯爵家の馬車を降りると、クラリスは一歩後ろを歩きながら、黙ってルシアンの後をついていく。
一歩でも遅れれば叱られるため、歩幅はいつも彼に合わせている。
「おい、もっと早く歩けないのか」
「はい」
返事をすると、慌てて歩幅を広げる。
けれど、今度はそれが気に障ったらしく、チッと舌打ちをした。
「誰がそこまで急げと言った」
「申し訳ありません」
すぐに足を緩める。
何が正解なのか分からない。
それでも怒られないようにと、クラリスは必死でルシアンの後を追った。
その時、明るい声が聞こえ、前方から同年代の青年が数人歩いてきた。
「よう、ルシアン!久しぶりだな!」
そこに居たのは、ルシアンの友人たちだった。
「クラリス嬢も、お久しぶりです」
彼らはクラリスの姿に気づくと、軽く会釈をした。
クラリスもそれに対し、静かに挨拶を返した。
「おい、お前たち、わざわざこいつにまで挨拶などしなくていい」
ルシアンが少し嫌そうに言った。
「いや、流石に無視できないだろ。クラリス嬢と話す機会なんて滅多にないんだから」
そう言う友人に、ルシアンは露骨に不機嫌そうな顔をした。
「やめておけ。話しかけたところで面白くも何ともないぞ」
あっさりとそう言い切るルシアンに、友人たちは苦笑を返した。
「確かにクラリス嬢は、普段から物静かではあるよな」
友人がそう言うと、ルシアンは呆れたように肩をすくめる。
「いや、こいつの場合は物静かというより、何も考えていないだけだ。何を聞いても“はい”か“申し訳ありません”しか返ってこない」
その言葉に、小さな笑いが起こる。
クラリスは何も言わず、小さく頭を下げた。
例え笑われても気にしてはいけない、相手を不快な気持ちにさせてはいけないと、それだけを考えていた。
「こいつの話はもういいだろ」
そう言うと、ルシアンは別の話題に切り替えて、クラリスの知らない話を始めると、あっという間に話題の中心になっていた。
彼の周りに再び笑い声が響き、誰もクラリスのことを気にする者は居なくなった。
クラリスは少し離れたところに立ち、静かにその光景を眺めていた。
また胸の奥が少しだけ苦しくなる。
けれど、その痛みが何という感情なのかは、自分でも分からなかった。
その日の帰り道、馬車に揺られながら、クラリスは今日一日の出来事を静かに思い返していた。
今日はあまり強く怒られなかった。
ルシアンの機嫌も悪くなく、侯爵夫妻の前でも失礼なく振る舞えた。
きっと今日の自分は、侯爵夫人として及第点だったのだろう。
そう思って胸を撫で下ろしかけた、その時だった。
ふと、ルシアンの友人たちの笑い声が耳によみがえる。
ーー何を聞いても“はい”か“申し訳ありません”しか返ってこない。
その言葉が胸の奥に引っ掛かり、クラリスは膝の上で重ねた自分の手へと視線を落とした。
いつから自分の意見を言わなくなったのか、思い出そうとしても、そのきっかけはもう思い出せない。
気づけば、それが当たり前になっていた。
婚約者とは、やがて夫となる人に従うもの。
良い妻とは、夫を立てるもの。
そう教えられ、それを疑うことなく信じてきたから、自分が何を思い、何を望むのかを考える必要などないと思っていた。
窓の外では、夕日に照らされた街並みがゆっくりと後ろへ流れていく。
楽しそうに笑い合う親子や、寄り添いながら歩く恋人たちの姿が目に入るたび、クラリスはどこか遠くを見るような気持ちで、その光景を眺めていた。
(あんなふうに笑ったのは……いつだったかしら)
幼い頃には、きっと笑っていたはずだ。
けれど、その記憶はひどく曖昧で、どれだけ思い返しても答えは見つからなかった。




