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心を無くした伯爵令嬢は、新たな土地で本当の自分を取り戻す  作者: 陽ノ下 咲


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第一話 侯爵家の婚約者


 ずっと、憧れているものがある。


 それは、美しいドレスでも、高い地位でもない。

 私はずっと、私が愛せる私になりたかった。


 誰かの期待に応えるために笑って、誰かに嫌われないように言葉を選んで、誰かの理想どおりに振る舞って……。

 そうやって生きていれば、いつか幸せになれるのだと思っていた。


 けれど、気づけば鏡の中には、憧れとは程遠い私が立っていた。

 好きなものは何ですか、と聞かれても答えられない、何をしたいのかも分からない。

 何をしている時が幸せなのかさえ、分からない。

 「私」という人間は、どこにもいない。


 だけど本当は、ずっと願っている。

 自分を偽らなくてもいい場所を。

 ありのままの自分で笑える毎日を。

 そして、そんな自分自身を、好きだと思える未来を。



 伯爵令嬢クラリス・エーデルベルクには、幼い頃から親に決められた許嫁がいる。

 その相手は、ヴァイスハルト侯爵家の嫡男、ルシアン・ヴァイスハルトだった。

 クラリスは、幼い頃から二十歳になった現在に至るまでずっと、両親を初め、周りの人々から、ある言葉を何度も聞かされて育った。


「クラリス、侯爵夫人として恥ずかしくない女性になりなさい」


 礼儀作法にダンス、楽器、刺繍といった侯爵夫人として恥をかかないための教養を、一つずつ身につけていった。

 遊びたい盛りの幼い頃も、友人たちが庭を駆け回っているなか、クラリスは家庭教師の前で背筋を伸ばしていた。


 それを不満に思ったことは一度もなかった。

 未来の夫を支えるというただその一心で、クラリスは努力を続けてきた。


 そんな彼女の婚約者のルシアンは、歳はクラリスと同い年で、茶色の短髪に黒い瞳を持つ、整った容姿の青年であった。

 けれど、彼はいつも高圧的な態度を崩すことがなく、彼の口からクラリスへ優しい言葉が向けられたことは、これまで一度としてなかった。


 侯爵家の庭園でお茶をしていた時のこと。


「おい、何をぼんやりしている」


 低く鋭い声に、クラリスの肩がびくりと跳ねた。


「も、申し訳ありません」

「……謝れば済むと思っているのか?」


 クラリスは慌てて視線を伏せる。

 今日はルシアンへ紅茶を注ぐ役目を任されていた。

 ほんの少し考え事をしてしまっただけだったが、そのわずかな気の緩みさえ、彼は見逃さなかった。


「お前は本当に何も出来ないノロマだな」


 冷たい声が、容赦なくクラリスへ降りかかる。


「はい……」


 否定する気など起きず静かにそう返事をすると、向かいに座るルシアンは、つまらなそうに紅茶へ口をつけた。


「……相変わらず、愚図な女だ」


 その言葉にも、クラリスは何も返せない。


 まだ幼い頃、クラリス好きな花の話をしたこともあったし、読んだ本の感想を楽しそうに語ったこともあった。

 けれど、ルシアンはそのたびに心底つまらなそうにしていた。


『そんな話はつまらん』

『くだらない』

『お前の趣味など興味はない』


 そんなふうに、自分のすることへ否定ばかりされていた。

 そうして過ごすうちに、いつしかクラリスは自分の話をすることも、笑うことも、好きなものを語ることもなくなっていった。


 ただ、ルシアンが嫌がるという、それだけの理由で。


「お前は一人では何も出来ないんだから、黙って俺の言うことだけを聞いて、俺について来ればいいんだ」


 ルシアンは、それが当たり前であるかのように言った。


「どうせそれしか出来ないんだから、余計なことは考えるなよ」

「……はい」


 素直に頷くクラリスに満足したのか、ルシアンは椅子から立ち上がる。


「もういい。今日は終わりだ」

「……はい」


 クラリスも慌てて立ち上がった。

 そして、先に歩き出したルシアンへ向かって、深く頭を下げた。


「失礼いたします」


 ルシアンは一度も振り返ることなく、庭園を後にした。



 帰りの馬車の中、クラリスはぼんやりと窓の外を眺めていた。

 街道脇には、小さな花が色とりどりに咲き、風に揺れている。

 それをクラリスはただぼんやりと、何の感情もなく見つめる。

 その時、胸の奥で何かが小さく引っ掛かり、クラリスの心に無性に寂しさが広がっていった。


(花を見て、美しいと思えなくなったのは、いつからだったかしら)


 そんなことさえ、すぐには思い出せなかった。

 昔は花を見ることが好きだった気がする。

 けれど、ルシアンに、その感情を否定された。


『それに一体何の意味があるというんだ』


 その一言を聞いてからというもの、花に目を向けることは次第になくなっていった。


(私は……何が好きだったのかしら)


 好きな花、好きな景色、好きな色。考えてみても、答えなど見つからなかった。

 何を思い浮かべようとしても、その前に頭をよぎるのは「ルシアン様はどう思われるだろう」ということばかりで、自分の気持ちはいつも後回しになってしまう。


「お嬢様」


 御者の声に、クラリスは我に返った。


「屋敷へ到着いたしました」

「ありがとう」


 馬車を降りて伯爵邸へ戻ると、玄関では母が穏やかな笑みを浮かべて迎えてくれた。


「お帰りなさい、クラリス。今日のお茶会はいかがでしたか?」


 その問いかけに、一瞬だけ言葉が詰まる。

 今日も、いつもと同じだった。

 怒られ、馬鹿にされ、自分の気持ちは何一つ口にできなかった。

 けれど、それを話せば母を心配させてしまう。

 だからクラリスは、いつものように微笑んだ。


「……はい。いつも通りでした」

「そう」


 母はほっとしたように笑う。

 その笑顔を見て、クラリスもまた静かに微笑み返した。


「少し疲れましたので、お部屋へ戻りますね」

「ええ。夕食までゆっくりしていらっしゃい」


 自室へ戻り、そっと扉を閉めると、小さく息を吐いて鏡の前へ立つ。

 そこに映っているのは、亜麻色の髪に緑色の瞳を持つ自分自身。

 けれど、その表情には感情らしい感情はほとんど浮かんでいなかった。


「……これで、いいのよね」


 誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。


侯爵夫人になるためには、感情を表に出しすぎてはいけない。

 婚約者を支え、従い、恥をかかせない妻になる。

 そのために生きてきたのだから、これでいい。

 そう自分に言い聞かせても、胸の奥に残る小さな違和感だけは消えてくれなかった。


 けれどその日の夜、眠りにつく直前にクラリスの胸にふと浮かんだのは、風に揺れる名も知らない小さな花の姿だった。




見つけてくださり、お読みいただき、誠にありがとうございます!

引き続きお読みいただけますと嬉しいです。

どうぞよろしくお願いします!


陽ノ下 咲

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