第一話 侯爵家の婚約者
*
ずっと、憧れているものがある。
それは、美しいドレスでも、高い地位でもない。
私はずっと、私が愛せる私になりたかった。
誰かの期待に応えるために笑って、誰かに嫌われないように言葉を選んで、誰かの理想どおりに振る舞って……。
そうやって生きていれば、いつか幸せになれるのだと思っていた。
けれど、気づけば鏡の中には、憧れとは程遠い私が立っていた。
好きなものは何ですか、と聞かれても答えられない、何をしたいのかも分からない。
何をしている時が幸せなのかさえ、分からない。
「私」という人間は、どこにもいない。
だけど本当は、ずっと願っている。
自分を偽らなくてもいい場所を。
ありのままの自分で笑える毎日を。
そして、そんな自分自身を、好きだと思える未来を。
*
伯爵令嬢クラリス・エーデルベルクには、幼い頃から親に決められた許嫁がいる。
その相手は、ヴァイスハルト侯爵家の嫡男、ルシアン・ヴァイスハルトだった。
クラリスは、幼い頃から二十歳になった現在に至るまでずっと、両親を初め、周りの人々から、ある言葉を何度も聞かされて育った。
「クラリス、侯爵夫人として恥ずかしくない女性になりなさい」
礼儀作法にダンス、楽器、刺繍といった侯爵夫人として恥をかかないための教養を、一つずつ身につけていった。
遊びたい盛りの幼い頃も、友人たちが庭を駆け回っているなか、クラリスは家庭教師の前で背筋を伸ばしていた。
それを不満に思ったことは一度もなかった。
未来の夫を支えるというただその一心で、クラリスは努力を続けてきた。
そんな彼女の婚約者のルシアンは、歳はクラリスと同い年で、茶色の短髪に黒い瞳を持つ、整った容姿の青年であった。
けれど、彼はいつも高圧的な態度を崩すことがなく、彼の口からクラリスへ優しい言葉が向けられたことは、これまで一度としてなかった。
侯爵家の庭園でお茶をしていた時のこと。
「おい、何をぼんやりしている」
低く鋭い声に、クラリスの肩がびくりと跳ねた。
「も、申し訳ありません」
「……謝れば済むと思っているのか?」
クラリスは慌てて視線を伏せる。
今日はルシアンへ紅茶を注ぐ役目を任されていた。
ほんの少し考え事をしてしまっただけだったが、そのわずかな気の緩みさえ、彼は見逃さなかった。
「お前は本当に何も出来ないノロマだな」
冷たい声が、容赦なくクラリスへ降りかかる。
「はい……」
否定する気など起きず静かにそう返事をすると、向かいに座るルシアンは、つまらなそうに紅茶へ口をつけた。
「……相変わらず、愚図な女だ」
その言葉にも、クラリスは何も返せない。
まだ幼い頃、クラリス好きな花の話をしたこともあったし、読んだ本の感想を楽しそうに語ったこともあった。
けれど、ルシアンはそのたびに心底つまらなそうにしていた。
『そんな話はつまらん』
『くだらない』
『お前の趣味など興味はない』
そんなふうに、自分のすることへ否定ばかりされていた。
そうして過ごすうちに、いつしかクラリスは自分の話をすることも、笑うことも、好きなものを語ることもなくなっていった。
ただ、ルシアンが嫌がるという、それだけの理由で。
「お前は一人では何も出来ないんだから、黙って俺の言うことだけを聞いて、俺について来ればいいんだ」
ルシアンは、それが当たり前であるかのように言った。
「どうせそれしか出来ないんだから、余計なことは考えるなよ」
「……はい」
素直に頷くクラリスに満足したのか、ルシアンは椅子から立ち上がる。
「もういい。今日は終わりだ」
「……はい」
クラリスも慌てて立ち上がった。
そして、先に歩き出したルシアンへ向かって、深く頭を下げた。
「失礼いたします」
ルシアンは一度も振り返ることなく、庭園を後にした。
帰りの馬車の中、クラリスはぼんやりと窓の外を眺めていた。
街道脇には、小さな花が色とりどりに咲き、風に揺れている。
それをクラリスはただぼんやりと、何の感情もなく見つめる。
その時、胸の奥で何かが小さく引っ掛かり、クラリスの心に無性に寂しさが広がっていった。
(花を見て、美しいと思えなくなったのは、いつからだったかしら)
そんなことさえ、すぐには思い出せなかった。
昔は花を見ることが好きだった気がする。
けれど、ルシアンに、その感情を否定された。
『それに一体何の意味があるというんだ』
その一言を聞いてからというもの、花に目を向けることは次第になくなっていった。
(私は……何が好きだったのかしら)
好きな花、好きな景色、好きな色。考えてみても、答えなど見つからなかった。
何を思い浮かべようとしても、その前に頭をよぎるのは「ルシアン様はどう思われるだろう」ということばかりで、自分の気持ちはいつも後回しになってしまう。
「お嬢様」
御者の声に、クラリスは我に返った。
「屋敷へ到着いたしました」
「ありがとう」
馬車を降りて伯爵邸へ戻ると、玄関では母が穏やかな笑みを浮かべて迎えてくれた。
「お帰りなさい、クラリス。今日のお茶会はいかがでしたか?」
その問いかけに、一瞬だけ言葉が詰まる。
今日も、いつもと同じだった。
怒られ、馬鹿にされ、自分の気持ちは何一つ口にできなかった。
けれど、それを話せば母を心配させてしまう。
だからクラリスは、いつものように微笑んだ。
「……はい。いつも通りでした」
「そう」
母はほっとしたように笑う。
その笑顔を見て、クラリスもまた静かに微笑み返した。
「少し疲れましたので、お部屋へ戻りますね」
「ええ。夕食までゆっくりしていらっしゃい」
自室へ戻り、そっと扉を閉めると、小さく息を吐いて鏡の前へ立つ。
そこに映っているのは、亜麻色の髪に緑色の瞳を持つ自分自身。
けれど、その表情には感情らしい感情はほとんど浮かんでいなかった。
「……これで、いいのよね」
誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。
侯爵夫人になるためには、感情を表に出しすぎてはいけない。
婚約者を支え、従い、恥をかかせない妻になる。
そのために生きてきたのだから、これでいい。
そう自分に言い聞かせても、胸の奥に残る小さな違和感だけは消えてくれなかった。
けれどその日の夜、眠りにつく直前にクラリスの胸にふと浮かんだのは、風に揺れる名も知らない小さな花の姿だった。
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陽ノ下 咲




