第三十八話 あの日、あなたに会ってから⑦(アシュレイ視点)
それ以降、クラリスはよく笑ってくれるようになった。
花を見て嬉しそうに微笑んだり、領民の話へ真剣に耳を傾けて相談に乗ったり、時には楽しそうに笑い合っている日もあった。
そんな一日一日の積み重ねが、少しずつ彼女の表情を柔らかくしていった。
その笑顔を見られれば、それだけでもう十分だと思っていた。
彼女がもう一度、心から笑えるようになった。
それだけでアシュレイは、自分が領地へ来た意味はあったのだと、そう思った。
……確かに、そう思っていたはずだ。
それなのに、自分は思っていた以上に、欲深い人間だったようで。
笑顔を取り戻していく彼女を見守るうちに、いつしか、その先を求めている自分がいることに気がついた。
もっと近くで、彼女の笑顔を見ていたい。
ずっと、自分の隣で笑っていてほしい。
そんな風に願うようになるまで、時間はかからなかった。
元からこの感情は、自分が気づいてしまわないように、押し隠そうと必死で抑えていただけのものだった。
だから、一度溢れてしまえば、もうどうしようもなかった。
それでも、告白だけはまだ違うと思っていた。
彼女は、ようやく前を向き始めたばかりだ。
まだ婚約破棄によって傷ついた心が完全に癒えたわけでもない。
そんな彼女の弱っている部分につけ込むように、自分の想いを押しつけることだけはしたくなかった。
彼女が本当の意味で自分自身を取り戻す、その日まで待とうと決めていた。
その時が来たなら、しかるべき順を踏むつもりだった。
まずは伯爵へ正式に話をする。そして、もし許しを得ることが出来たら、その後、自分の口でクラリスへ想いを伝える。
自分でも慎重で用心深く、計画的な人間だと思いはするが、彼女を迎えるのなら、誠実に、誰に対しても胸を張れる形で迎えたかった。
だから、領務館へ挨拶に訪れた貴族から、冗談交じりに想い人について尋ねられた時も、アシュレイは冷静を装って穏やかに否定した。
この秘めた想いが噂として広まることだけは避けたかったし、絶対に順序を違えるつもりはなかった。
何より、自分を信頼してクラリスの指導役を任せてくれたエーデルベルク伯爵と、自分を頼りにしてくれているクラリスの期待を裏切りたくなかった。
あの夜、バルコニーでルシアンが、クラリスの腕を乱暴に掴む、その瞬間までは。
拒絶する彼女の言葉を聞こうともせず、自分の思い通りに従わせようとする姿を目にした瞬間、アシュレイがこれまで頭の中で積み重ねていた計画は、跡形もなく消え去った。
そして気づけば、クラリスを庇うように彼女の前に立ち、告げていた。
「彼女は私の恋人です」
それはあまりにも無計画な行動だった。
本来ならば、もっと相応しい順序があったはずだ。
けれど、彼女があの男に、また以前のように傷つけられるかもしれないと思った瞬間、他のことなど考えられなくなってしまった。
自分がこれまで慎重に練ってきた計画なんかより、目の前のクラリスを守ることの方が、アシュレイにとってはずっと大切なことだった。
そして今、月明かりに照らされた中庭で、こうして彼女と二人きりで向き合っている。
自分のこれまで秘め続けてきた本当の気持ちを伝えようとすると、さすがのアシュレイも胸の奥が落ち着かなかった。
これまで何度も、彼女へ想いを伝える日のことを考えてきたはずなのに。
それでも、自分を見つめているクラリスを前にすると、不思議とそんなことはどうでもよくなった。
少し戸惑ったような表情も、潤んだ瞳も、頬に浮かぶ淡い赤みも、そのどれもが愛おしくて仕方がない。
月光に照らされて微笑む彼女が、あまりにも美しくて、まるで夜の庭に迷い込んだ花の妖精なのではないかと、そんなことまで考えてしまった。
けれど、本気でそう思ってしまうほどに、クラリスが可愛くて仕方がなかった。
この、誰よりも何よりも愛しい大切な人を、これから先もずっと自分の隣で守っていきたいと、心からそう思う。
アシュレイは、クラリスへの深い敬意と愛を込めて片膝をついた。
こんなにも緊張するのは、いつ以来だろう。
もし、断られたら。
そんな考えが、一瞬だけ頭をよぎる。
もちろん、彼女を困らせるつもりなどない。
どんな答えであっても受け止めるつもりだった。
それでも、できることなら、どうかこの手を取ってほしい。
これから先も、自分の隣にいてほしい。
そう願いながら、アシュレイはクラリスを見上げた。
そして、これまで胸の奥にしまっていた想いを、一つずつ言葉にしていく。
嬉しい時には一緒に笑いたい。
悲しい時には、誰より近くで支えたい。
彼女がこれから先、もう一人で何かを抱え込まなくて済むように。
自分が隣にいることで、少しでも彼女が幸せになれるように。
そんな願いを込めて、言葉を紡いだ。
そして最後に、ずっと伝えたかった言葉を告げる。
「一生あなたを一番大切にすると誓います。どうか私と結婚していただけませんか」
言葉にした瞬間、胸の奥が大きく震えた。
返事を待つ時間が、ひどく長く感じられる。
それでも、急かすことはできなかった。
クラリスが自分自身の気持ちで答えを出すまで、ただ待とうと思った。
やがて、彼女の頬から、一筋涙が溢れた。
「はい」
その一言を聞いた瞬間、胸を覆っていた緊張が、一気にほどけていった。
クラリスは、綺麗な緑の瞳に涙を浮かべながら、微笑む。
「私も、あなたを一番大切にしたいです」
その言葉が、胸の奥へ深く沁み込んでいく。
この人となら、本当にどんな未来でも歩いていけると、そう思った。
彼女の笑顔を、これからは誰より近くで守っていこう。
嬉しい時には共に笑い、悲しい時には隣で支える。
クラリスがずっと隣で笑っていてくれるのなら、それだけで、もう十分だと思った。




