第三十六話 あの日、あなたに会ってから⑤(アシュレイ視点)
それは、王都で開かれた夜会でのことだった。
華やかな音楽が流れ、色とりどりのドレスを纏った令嬢たちが談笑する、煌びやかな会場。
その人混みの中に、クラリスの姿を見つけた瞬間、アシュレイは、思わず足を止めた。
彼女の前に自信を持って立てるようになったなら、一目だけでも、彼女が婚約者の隣で幸せそうに笑っている姿を見たいと、ずっと思っていた。
その姿を見ても、多分、素直に応援する気持ちにはならないだろうし、祝福することも、今はまだ、できそうにない。
けれど、彼女の幸せな姿を見ることが出来れば、このどうしようもなく拗らせてしまった想いを、時間はかかるかもしれないが、少しずつ手放していける気がしていた。
そうして見つけた彼女は、あの日の少女と同じ、ウェーブがかった亜麻色の髪と澄んだ緑の瞳をしていた。美しい顔立ちにも、かつての面影が残っている。
けれど、その佇まいは、記憶の中にある彼女とは、随分と違っていた。
周囲の人々へ向けている笑顔はぎこちなく、話しかけられるたび、相手の顔色を窺うようにほんの少し視線を揺らすその姿は、どこか怯えているようにすら見えた。
アシュレイは、愕然としたまま、彼女を見つめた。
(……彼女に、一体何があった)
心配で堪らず、声をかけに行こうかと思ったその時、彼女の婚約者である、ルシアン・ヴァイスハルトが姿を現した。
婚約者といる彼女に対し、気安く声をかける訳にもいかず、足を止めて、少し離れた場所から様子を見る。
するとルシアンは周囲の視線など意に介さず、クラリスの尊厳を踏みにじるような言葉を、彼女に浴びせた。
そして彼女は小さく肩を震わせながら頭を下げて、謝罪の言葉を伝えていた。
やがてルシアンは苛立ったように背を向け、彼女は慌ててその後を追いかけていった。
その光景を目にした瞬間、胸の奥から静かな怒りが込み上げた。
(……何故だ)
あんなふうに怯えながら隣に立つことが、本当に婚約者なのだろうか。
幼い頃、あんなにも穏やかな笑顔を浮かべていた少女が、どうしてここまで自分を押し殺さなければならないのか、どうしても理解できなかった。
それから夜会で二人を見かけるたび、同じ光景を目にした。
様子を見ていると、ルシアンはとりわけ彼女が他人から褒められた後に、辛く当たっていることに気がついた。
感情を押し殺すようになってからも、クラリスの美しさは隠しきれず、婚約者がいる身でありながら、夜会ではたびたび男性たちの噂に上るほど、その存在は人の目を惹きつけている。
ルシアンは、そのことが気に入らないのだろう。
全く理解はできないが、ルシアンは酷く子どもじみた支配欲をぶつけるような、歪んだ愛し方でしか彼女と向き合えない人間なのだろうと思った。
彼女の一番の魅力を、よりにもよって、誰より彼女の隣にいることを許された男が奪っている。
そして自分は、それをただ見ていることしかできない。
その事実が、堪らなく悔しかった。
やがて、婚約破棄の知らせが王都を駆け巡った。
人々は驚き、好き勝手に噂を交わしあっていた。
けれど、アシュレイの胸に浮かんだのは別の感情だった。
(……良かった。やっと解放されたのか)
それは、安堵の気持ちだった。
もちろん、婚約を失った悲しみまで消えるわけではないだろう。
それでも、あの男の隣で自分を偽り続ける日々は終わった。
もうあんな風に、悲しげに微笑む必要もない。
そう思うと、張りつめていた胸の内が、ほんの少しだけ軽くなった。
そんなある日、アシュレイは、クラリスの父親である、エーデルベルク伯爵と話をする機会があった。
その際、彼女が領地運営について学び始めていること、そして近く予定している領地視察で経験を積ませるため、指導役を探していることを知った。
表向きは、領主としての経験を積ませるための視察。
だが、その言葉の端々から、傷ついた娘にもう一度笑ってほしいという父親の願いが滲んでいるように感じられた。
アシュレイは、自らその役目を引き受けたいと申し出た。
それに対し、伯爵は嬉しそうに笑みを浮かべた。
「領政の才に長け、領民や貴族たちからも厚い信頼を寄せられているアシュレイ殿にお任せできるのであれば、これほど心強いことはありません。是非ともお願い致します」
そう言って、伯爵は丁寧に頭を下げた。
こうしてクラリスの領地視察に同行し、指導役を務めることになったのだった。
リンデ村へ向かう馬車の中で、アシュレイは願った。
彼女に、もう一度笑ってほしい。
幼い日に花を見つめていた、あの頃のような笑顔でもう一度笑えるようになって欲しい。
そして、そのために自分ができることなら、何でもしようと、強く決意を固めるのだった。




