第二十九話 本当の気持ち
その言葉を聞いた瞬間、クラリスの胸の奥に、言いようのない嫌悪感が湧き上がってきた。
けれど、それ以上に強く心に響いたのは、先ほどアシュレイが口にした言葉だった。
ーー彼女は物じゃない。あなたの女だという発言、まして物扱いするなど……腹立たしいにも程があります。
彼は、そう言ってくれた。
そして、それは、今だけではない。
出会ってからずっと、アシュレイはクラリスの気持ちを何よりも大切にしてくれていた。
クラリスの意思を尊重し、尊厳を守ってくれていた。
そのことを思うと、胸の奥から言葉では言い表せないほどの熱が込み上げてくる。
もう、ルシアンの言葉に、恐怖を感じることは無かった。
自分の中に、再び確かなものが戻ってくるのを感じる。
同時に、クラリスは改めて、強く思った。
もしも叶うことならば、この先ずっと、アシュレイのそばに居続けたいと。
クラリスは、静かに息を吸った。
ルシアンの手が届くよりも早く、アシュレイが何かを言うよりも先に、彼の隣へ一歩踏み出した。
背中を庇うように立ってくれていたアシュレイの腕へ、そっと自分の腕を絡める。
「……嫌です」
ルシアンの目が見開かれる。
クラリスはそのままアシュレイの隣に寄り添い、真っ直ぐにルシアンを見つめた。
「私は、アシュレイ様と一緒に居たいです」
「……クラリス様」
隣から、驚いたような声が聞こえた。
そちらに目線を向けると、アシュレイが目を見開いてクラリスを見ていた。
いつもは穏やかなその瞳が、今だけは明らかに驚きで揺れる。
やがてアシュレイの表情が、ゆっくりとほどけていく。
目元が優しく細められ、口元に、隠しきれないほど幸せそうな笑みが浮かんだ。
その表情を見た瞬間、クラリスの胸が大きく跳ねる。
けれど今は、それよりもまず、伝えなければならないことがあった。
クラリスは再びルシアンへ向き直り、しっかりと見据えて口を開いた。
「ルシアン様。……これまで一度も言ったことがありませんでしたが、私はあなたの傲慢な態度が苦手でした」
その言葉に、ルシアンの顔から表情が完全に消えた。
下ろした手が、強く握りしめられる。
「私が何を言っても聞き入れず、いつもご自分の考えを押し通されるところも、私の気持ちを確かめようともせず、何もかも勝手に決めてしまわれるところも」
それは、婚約者だった頃には決して口にできなかった言葉だった。
嫌だと思っても、言えなかった。
傷ついても、我慢するしかないと思っていた。
けれど、もう違う。
「私は、ずっとあなたの顔色を窺っていました。嫌われないように、怒らせないように、あなたの望む婚約者でいようとしていました」
クラリスは静かに息を吸い、思いを言葉にした。
「でも、もうそんな自分に戻りたくありません。……私は、あなたの元には、絶対に戻りません」
ルシアンは唇をわずかに震わせ、何かを言おうと口を開いた。
しかし、声は出なかった。
やがて力なく俯き、握りしめていた拳からも、少しずつ力が抜けていく。
しばらくして、ルシアンは何も言わないまま踵を返した。
その背中は、これまで見たどんな時よりも小さく見えた。
遠ざかっていく足音を聞きながら、クラリスはその場に立ち尽くしていた。
不思議だった。
もっと胸が痛むのかと思っていた。
もっと何かを感じるのかと思っていた。
けれど、胸の中にあったのは、長い間閉じ込めていた何かが、ようやく終わったような静かな感覚だけだった。
「クラリス様」
その時、斜め上から、どこか甘さを帯びた優しい声で名前を呼ばれた。
「……え?」
クラリスは、はっと顔を上げた。
すぐ目の前に、アシュレイの美しい顔がある。
そこでようやく、自分がまだ彼の腕に手を絡めたままだったことに気づいた。
「……すみませんっ!」
クラリスは慌てて謝りながら手を離す。
すると、アシュレイが少し残念そうに眉を下げた。
その瞬間、頭の中に先ほどの彼の言葉と、自分の言葉が蘇ってきた。
ーー彼女は私の恋人です。
ーー私は、アシュレイ様と一緒に居たいです。
クラリスの顔が、一気に熱くなる。
「……あ……」
私の恋人。
その言葉が、今になってようやく現実味を持ってクラリスの胸へ落ちてきた。




