第二十八話 恋人
突然のことに理解が追いつかないまま、クラリスは目の前に立つアシュレイの背中を見つめた。
一方、ルシアンは目を見開き、アシュレイを鋭く睨みつける。
「アシュレイ殿……」
驚きと苛立ちが入り混じった声だった。
「これは私とクラリスの問題です。部外者は口を挟まないでいただきたい」
アシュレイは少しも動じることなく、静かな口調で言葉を返した。
「婦女子の腕を無理やり掴み、感情に任せ怒鳴りつける。これがあなたの仰る『二人の問題』ですか」
決して声を荒らげているわけではない。
けれど、その静かな声に込められた鋭さに、空気が一気に張りつめた。
ルシアンは苛立ちを隠そうともせず、吐き捨てるように言う。
「今のやりとりは……少々の行き違いがあっただけに過ぎません」
「少々の行き違い?」
アシュレイはわずかに眉を寄せた。
「ご自身より力の弱い女性を、力で従わせようとする行為を、その一言で済ませるおつもりですか」
その言葉に、ルシアンの表情に険しさが増す。
「クラリスは私の女です。私の物をどう扱おうが、アシュレイ殿には、何の関係もないことでしょう」
その瞬間、アシュレイの瞳が静かに細められた。
「いえ、関係はあります」
きっぱりと言い切ると、アシュレイはそこで一度、クラリスを振り返った。
その眼差しは先ほどまでとは打って変わり、驚くほど穏やかだった。
その優しい視線に、張りつめていたクラリスの肩から少しだけ力が抜ける。
けれど次の瞬間には、再びルシアンへ向き直っていた。
「彼女は私の恋人です」
一拍あけて、アシュレイが続ける。
「それに彼女は物じゃない。あなたの女だという発言、まして物扱いするなど……腹立たしいにも程があります」
静かな声だった。
それなのに、その言葉には誰も口を挟めないほどの重みがあった。
バルコニーの騒ぎに気づき、遠目から様子を窺っていた数名の貴族たちが、その言葉に驚いたように顔を見合わせた。
「恋人……?」
「レインフォードのご嫡男とエーデルベルク伯爵令嬢が?」
「そんな話、聞いたことがないぞ」
驚きの声が、ぽつりぽつりと上がった。
だが、その場にいる誰よりも、クラリス本人が一番、その言葉の意味を理解できていなかった。
“恋人”という文字が、胸の中で何度も繰り返される。
「……それはどういうことですか?そんな話は聞いていませんが」
ルシアンが、怒りを滲ませた声で問いかける。
「ええ、そうでしょうね。まだ正式には発表しておりませんので」
アシュレイは静かに答えた。
その口ぶりはあまりにも自然で、まるで自分たちが本当に恋人であるかのようだった。
自分たちは、そんな風に呼び合える関係ではないはずなのに。
クラリスは戸惑いを隠せないまま、ただその横顔を見つめる。
けれど、ルシアンはしばらくアシュレイを睨みつけたあと、ふっと鼻で笑った。
「……なるほど。正式な発表はまだなのですね。ならば、そんな口だけの言葉に何の力もない」
その声には、わずかな安堵が滲んでいた。
そして、アシュレイの背後にいるクラリスへと語りかける。
「クラリス、こんな男の言葉に惑わされる必要などない。お前の恋人はこの俺だ。早くこちらへ来い」
そう言いながら、ルシアンはアシュレイの脇を回り込むようにして、再びクラリスへと手を伸ばしてきた。




