第二十七話 離してください
「いい加減にしろ……!そんなことを、許せる訳がないだろう」
ルシアンが、クラリスの言葉をねじ伏せるように怒鳴った。
その威圧的な声音を聞いた瞬間、クラリスの胸の奥に、忘れたはずの恐怖が蘇ってきた。
自分の意思など聞き入れてもらえず、ただルシアンの言葉に従うしかなかった日々が、鮮明に脳裏へ浮かぶ。
胸の奥がひやりと冷え、クラリスの細い肩が、微かに震えた。
その小さな怯えを、ルシアンは見逃さなかった。
ルシアンが鋭い瞳でクラリスを見据え、一歩近づく。
そして、クラリスの右腕を掴むと、頬を寄せるようにして、彼女の耳元へ直接囁きかけた。
「お前は昔から、他人から何か吹き込まれると、すぐそれに影響されていた。……今だって、どうせ誰かに妙なことを言われて、そうなっているだけなんだろう?」
その言葉を、クラリスは否定しようとした。
自分で考え、自分で選ぶことができる、そんな自分に変わることが出来たのだと、そう言いたかった。
けれど、声が出なかった。
先ほどまでクラリスの胸にあった確かな思いが、ルシアンの言葉によって、少しずつ揺らいでいく。
アシュレイや、リンデ村で出会った人々の顔が脳裏に浮かぶ。
彼らと過ごした日々があったからこそ、自分は変わることができたのだと、そう信じていた。
けれど、それは本当に、自分自身が変わったということなのだろうか。
もしかしたら、自分はただ、周囲の人々に影響されて、変われたと思い込んでいただけなのではないか。
その疑念が生まれた瞬間、先ほどまで胸の中にあった確信が、足元から崩れていくように揺らいだ。
ルシアンの言葉が、まるで呪いのように、心の奥へ入り込んでくる。
――どうせ誰かに妙なことを言われて、そうなっているだけなんだろう?
否定したい。けれど、そのための言葉が、どうしても浮かんでこなかった。
そんなクラリスを見て、ルシアンが、にやりと笑った。
「ほら、やっぱり言った通りだ。お前は中身のない女なんだ。変な勘違いはやめて、お前は俺だけを見て、俺の言うことだけを聞いていればいいんだ」
ルシアンの言葉に、クラリスの身体が強張った。
頭では、もう恐れる必要などないと分かっている。
自分はもう、昔の自分ではない。
ルシアンの言葉に従う必要も、彼の機嫌を窺う必要もない。
それなのに、身体が硬直して、思うように動かない。
かつて何度も浴びせられた、クラリス自身を否定するような冷たい声。
その声を聞いているうちに、頭では分かっていたはずのことが、少しずつ遠ざかっていく。
何を言っても聞き入れてもらえず、自分の気持ちを伝えようとしても、すべて否定された。
何かを望んでも、それを口にすることさえ許されなかった。
逆らえば、さらに強い言葉を浴びせられ、ただ黙って耐えるしかなかった。
あの頃の虚無感が、蘇ってくる。
(……私は一体、何を勘違いしていたのかしら。私には、何もないというのに……)
まるで頭の中に、濃い靄がかかったようだった。
何を言っても、この人には届かない。
どれだけ拒んでも、どれだけ自分の意思を伝えても、結局は無駄なのだ。
自分で考えることも、自分で選ぶことも、自分の気持ちを持つことさえも、すべて何の意味もない。
そう思った瞬間、胸の奥から、力が抜けていく。
さっきまで確かにあったはずの強い意志が、音を立てて崩れ落ちていった。
その変化に気づいたルシアンが、ふっと口元を緩めた。
先ほどまでの険しい表情とは違う、どこか勝ち誇ったような笑みだった。
「……そうだ。それでいい」
ルシアンは怯えたクラリスを見つめながら、ゆっくりと言葉を続ける。
「クラリス……お前は俺の物だと認めるんだ」
その言葉に、クラリスはもう、答える気すら起きなかった。
ただ、ルシアンの手に握られた腕が、小さく震えていた。
ルシアンがクラリスの身体を引き寄せようとした、その時だった。
「ルシアン殿、彼女の腕を離してください」
低く静かな声が響いた。
同時に、突然背後から伸びてきた腕が、ルシアンの手首を有無を言わせぬ力で掴む。
その手によって、クラリスの腕が解放された。
何が起きたのか理解するより早く、誰かがクラリスの肩を抱き寄せる。
ふわりと鼻先をかすめたのは、どこか懐かしく、心を落ち着かせてくれる香りだった。
その瞬間、先ほどまで心を覆っていた恐怖も虚無感も、まるで霧が晴れるように、一気に消えていった。
導かれるように、クラリスは顔を上げる。
そこには、少し息を切らせたアシュレイがいた。
けれど、その美しい顔には、リンデ村にいた時の穏やかな表情はなかった。
彼の淡い青の瞳は、これまで見たことがないほど冷たい鋭さを帯びて、ルシアンを捉えていた。
アシュレイはクラリスを背中へ庇うように静かに立ち位置を変えると、ルシアンを真っ直ぐ見据えた。




