第二十五話 以前のように
ルシアンは周囲へ視線を巡らせると、人目を避けるように小さく顎をしゃくった。
「クラリス、少し話がある」
その声音は、以前と何も変わっていなかった。
まるでクラリスが断ることなど、初めから考えていないような口調だった。
一瞬だけ迷ったものの、クラリスは静かに頷く。
「……分かりました」
そして、先に歩き出したルシアンの後を追い、クラリスもバルコニーへと向かった。
夜風が頬を撫で、王宮の庭園に灯された無数の明かりが、遠くまで続いている。
背後からは舞踏会の音楽がかすかに聞こえ、華やかな空気だけが二人の間に流れていた。
ルシアンはクラリスへ向き直る。
その視線を受け、クラリスは静かに彼を見返す。
目の前にいるのは、かつて自分が誰よりも認められたいと願った相手だ。
それなのに、不思議なほど心は穏やかだった。
もう自分は、以前のように彼の一言に期待したり傷ついたりすることはないのだと思うと、それがとても嬉しかった。
クラリスは、ただ彼の言葉を待った。
「……お前がいなくなってから、散々だった」
ルシアンが、ぽつりと言った。
そして、ちらとクラリスに視線を向ける。
「お前、今の俺の状況を内心馬鹿にしてるだろ」
突然向けられた予想外の言葉に、クラリスは瞬きをした。
「え?いえ、全くそのようなことは……。そもそも、あなたの今の状況を、私は知りません」
正直にそう告げると、ルシアンは一瞬、唖然とした。
「……知らないだと?」
「はい」
クラリスが頷くと、ルシアンが苛立ちを含んだ声で言った。
「……あれだけ噂になったというのに、お前は何も知らないのか?」
そう問われ、クラリスは彼がどうして自分が知っていると思っていたのかが、不思議だった。
ルシアンと婚約破棄してから、彼がどうしているのかなど、気にしたことすらなかったから。
ルシアンは何かを考えるようにしばらく黙り込んでいたが、やがて口を開いた。
「お前と婚約破棄した後、俺はエスメラルダと正式に婚約を結び直した」
クラリスは何も言わず、彼の話に耳を傾ける。
「最初は、あの女との関係も悪くなかった。明るく華やかな女だった。……父上も、侯爵家にとって良い縁談だと言っていた」
ルシアンは視線を伏せた。
「だが、一緒に過ごしてみると、全く合わないことが分かった。あの女は態度も考え方も、自分勝手な上に、我が強過ぎる」
一度息をつき、苦々しげに続ける。
「それでも婚約した以上は仕方ないと思っていた。……だが、二ヶ月ほど経った頃、あの女に別の男がいることを知った」
クラリスは何も言わず、ただ黙って聞いていた。
「問い詰めたら、俺より条件のいい男が見つかったから婚約を解消すると、あっさり言われた」
ルシアンは吐き捨てるように息を吐いた。
「そのせいで父上には叱責されるし、周囲からも散々な目で見られた」
眉間に深い皺を刻みながら、言葉を続ける。
「お前がいなくなってから、何もかも上手くいかない。……それで俺はようやく気づいたんだ。俺には、お前のような女が合っていたんだと」
そこまで言って、ルシアンはふと口をつぐんだ。
「……考えてみれば、俺は最初から、お前を完全に手放すつもりなんてなかったのかもしれない」
そして先程まであった苛立ちの表情が消え、どこか苦しげなものへと変わる。
「婚約を破棄するとお前に伝えた時だって、本当はお前が嫌だと縋ってくれば、取り消してやろうと思っていたんだ」
そして一度静かに息を吐くと、ルシアンは低く、確信めいた口調でクラリスに言った。
「戻ってこい、クラリス。……以前のように、俺のそばにいろ」




