第二十一話 本当の恋
村の外れにある公園へアシュレイと出かけた日から、クラリスの胸には小さな変化が生まれていた。
それは、自分でもまだ名前をつけられない、今まで知らなかった感情だった。
アシュレイを見ると、なぜか胸の奥がくすぐったくなり、鼓動が少し速くなる。
気づけば彼に視線を向けてしまっていることも増えた。
そのくせ、彼と目が合いそうになると、見ていたことを知られたくなくて、慌てて視線を逸らしてしまう。
以前なら、そんなことを気にしたことなどなかった。
それなのに今は、アシュレイが近くにいるだけで、どうしても気になってしまう。そんな自分に戸惑っていた。
そんなある日の午後のこと。
その日は領務館へ、近隣の伯爵家の当主がアシュレイへ挨拶に訪れていた。
クラリスも同席し、静かに話を聞いていた。
話題は自然と領地経営についてのものとなり、伯爵はアシュレイの手腕について感心した様子で語っていた。
「いやはや、さすがはアシュレイ殿ですな」
伯爵が感心したように笑う。
「アシュレイ殿ほどお若くして、これほど領地経営に精通されている方はそうおりません」
「身に余るお言葉です」
アシュレイは穏やかに微笑んだ。
「いやいや、お噂は王都でもよく耳にしておりますぞ。ご令嬢方からの人気も大変なものだとか」
その言葉に、クラリスは思わず顔を上げた。
伯爵はそんな様子には気づかないまま、楽しそうに笑い続ける。
「公爵家の嫡男で、お人柄も良い。縁談が絶えないそうですなぁ」
クラリスは隣に座るアシュレイへ、そっと視線を向けた。
本人は少し困ったように苦笑している。
「そういった話は、お断りしておりますから」
「ははは、それではご令嬢方が泣いてしまいますな。それともアシュレイ殿には、もう心に決めた令嬢がいるのですかな?」
伯爵はそう言って、意味ありげにクラリスの方へ視線を向けた。
それに対し、アシュレイはほんの一瞬、気まずそうに顔を歪めた。
けれど、すぐにいつもの穏やかな笑みを浮かべると、静かに首を横へ振る。
「いえ、まさか。残念ながら、私にそんな相手はおりませんよ」
普段と変わらない落ち着いた口調で返されたその言葉に、伯爵は頷く。
「そうでしたか、いや、これは失礼しました」
そう言って伯爵は穏やかに笑った。
クラリスはその笑い声をどこか遠くに聞いていた。
*
その日の仕事を終えたクラリスは別邸へ戻ると、自室の窓辺へ腰を下ろし、ぼんやりと外を眺めていた。
(当然のことよね……)
彼が人気なのは、当たり前のことだ。
アシュレイはレインフォード公爵家の嫡男。
次期公爵として、多くの人から期待される立場にある。
そんな彼の婚約者となる女性もまた、公爵家に相応しい令嬢なのだろう。
一方、自分は伯爵令嬢だ。
家格だけ見ても、釣り合わないことはどう見ても明らかだ。
そもそも、自分にはそんなことを考える資格自体ない。
アシュレイはただ、領主としての仕事を教えてくれているだけで、自分はその教えを受けているだけの存在だ。ただ、それだけの関係なのだから。
けれど……。
クラリスは静かに夜空を見上げた。
(私、おかしいわ)
彼が他の女性と幸せそうに話している姿を想像すると、それだけで胸が痛くなった。
いつからか、花を見ても、美しい景色を見ても、美味しいお菓子を食べても、真っ先にアシュレイへ話したいと思ってしまうようになっていた。
彼に褒められることが、他の誰よりも嬉しくて、あの穏やかな笑顔を見ると、安心する自分がいる。
明日も彼に会えると思うだけで、自然と笑顔になってしまう。
そこまで思い至った時、クラリスはゆっくりと目を閉じた。
もう、誤魔化すことはできなかった。
「……アシュレイ様が、好き」
ぽつりと零れた小さな声が、夜の静けさへ溶けていく。
一人の男性として、アシュレイが好き。
その事実を認めた瞬間、不思議と胸の奥が切なくなり、そっと胸元へ手を当てた。
本当の恋というものが、こんなにも切ないものだなんて知らなかった。
嬉しくて、幸せで、それなのに苦しい。
胸が張り裂けそうなほど痛いのに、不思議と後悔はなかった。
(……この感情を知ることができて、良かった)
アシュレイを好きになったことで、誰かを大切に想う気持ちを知ることができた。
誰かの幸せを願うこと、その人が笑っているだけで、自分まで幸せになれること。
そんな温かな感情が、自分の中にも存在していたのだと知った。
その時ふと、先ほど伯爵に「心に決めた令嬢がいるのか」と問われた時の、アシュレイの気まずそうな表情が脳裏をよぎり、また胸がチクリと痛んだ。
この想いが彼に届く日はこない。
けれど、たとえ届くかなかったとしても、いつか彼が、自分ではない誰かを選ぶ日が来ても。
この気持ちを知れたことだけは、ずっと忘れない。
「……だから、これでいいの」
クラリスは自分に言い聞かせるように小さく呟くと、静かに微笑みを浮かべた。
アシュレイが優しいのは、自分だけではない。
誰に対しても誠実で、親切な人だ。
決して、勘違いなどしてはいけないと、そう分かっている。
自分を救ってくれた大切な人だからこそ、彼を困らせたくない。だから、この想いは胸の奥にしまっておく。
それでも、明日もまた彼に会えることが嬉しくて、この半年が終われば、もう会えなくなってしまうことが切ない。
その気持ちだけは、どうしても隠しきれる自信がなかった。




