第十七話 休むことも
目を覚ました時、最初に感じたのは静かな安心感だった。
柔らかな布団に身体を預け、少し開いた窓からは穏やかな風が吹き込んでくる。
クラリスはぼんやりとした意識のまま、ゆっくりと目を開けた。
「……ここは……」
しばらく天井を見つめていたが、やがてそこが別邸の自室であることに気付いた。
「目が覚めましたか」
声のした方へ視線を向けると、窓際の椅子で書類に目を通していたアシュレイが、静かに顔を上げた。
「……アシュレイ様?」
「はい」
いつもの穏やかな笑顔で返事をくれる彼を見た時、倒れた時のことが、一気によみがえった。
「私……」
途端に申し訳なさが胸いっぱいに込み上げ、クラリスは反射的に頭を下げた。
「申し訳ありません」
その言葉に、アシュレイは少しだけ眉を下げた。
「……どうして謝るのですか?」
「……ご迷惑をおかけしてしまいましたから……」
「クラリス様」
クラリスの言葉を遮るように、アシュレイの静かな声が響いた。
怒っているわけではない。それでも、いつもより少しだけ強い響きを帯びたその声音に、クラリスは思わず口を閉ざす。
「あなたが倒れたことを、私は迷惑だとは思っていませんよ」
クラリスは目を瞬かせた。
「ですが……」
「むしろ、もっと早く止めるべきだったと後悔しています」
アシュレイはわずかに視線を伏せる。
「……あなたが無理をしていることは分かっていたのに。こちらこそ、すみません」
「そんな……!」
クラリスは慌てて首を振った。
「アシュレイ様が謝ることはありません。悪いのは、私ですから……」
その言葉を聞いて、アシュレイはふっと小さく笑った。
穏やかな眼差しをクラリスへ向ける。
「……でしたら、あなたが申し訳なく思う必要もありませんよね」
思いもよらない返しに、クラリスはきょとんと目を瞬かせた。
「……あ」
そう言われてしまうと、もう「申し訳ありません」とは言えなかった。
心の奥に、じんわりと温かなものが広がっていく。
その優しさを噛みしめるように、クラリスは口元に微笑みを浮かべ、小さく頷いた。
*
医師の診察によると、過労による発熱であり、数日しっかり休めば問題はないとのことだった。
診察を終えて医師が部屋を出た後、アシュレイが念を押すように言った。
「クラリス様、数日間はご自分の体調のことだけを考えて、しっかりと休んでくださいね」
「数日……ですか?」
「はい」
「ですが、少しだけでも仕事を……」
そう口にした瞬間、アシュレイが静かに首を横へ振った。
「駄目です」
迷いのない言葉に、クラリスは思わず目を丸くする。
「ですが、何もせずに休んでいたら、仕事は溜まる一方ですし……」
「いいえ、駄目です」
そう言うと、今度は少しだけ優しく、けれど決して譲らない声音でアシュレイは続ける。
「クラリス様。あなたは、休むことを悪いことだと思っていませんか」
気持ちを的確に言い当てたその言葉に何も答えられず、クラリスはうつむく。
「あなたを見ていると、仕事をしていない時間は、何もしていないのと同じだと思っているように見えます。……違いますか?」
その問いも、否定することができなかった。
幼い頃から、ルシアンの役に立つこと、期待に応えることだけが自分の価値なのだと思って生きてきたのだから。
「私は……」
小さく漏れた声は、自分でも驚くほど弱々しかった。
「何もしないでいると、不安になるんです」
アシュレイは何も言わず、その言葉を受け止めている。
「昔から、失敗しないようにしなければと思っていました。誰かに認めてもらえるように、必要とされるように……」
布団の上で握り締めた手に、自然と力が入る。
「だから、休んでいると……置いていかれるような気がして」
部屋にはしばらく静かな時間が流れた。
やがてアシュレイが穏やかに口を開く。
「クラリス様」
その声に顔を上げると、真っ直ぐな青い瞳が自分を見つめていた。
「あなたは、何かを成し遂げなければ価値がない人間などではありません」
その一言に、クラリスは息を呑む。
「あなたが頑張っていることを、私は知っています。ですが、頑張れない時のあなたに価値がなくなるわけではありません」
言葉が一つひとつ、胸の奥へ静かに染み込んでいく。
「休むことも仕事です」
穏やかな声だった。
けれど、その言葉には迷いがなく、静かでありながら真っ直ぐクラリスの胸へ届いた。
「自分の身体を大切にすることも、支える者の大切な責任ですよ」
そう言ったあと、アシュレイは少しだけ視線を逸らした。
「……それに」
珍しく言葉を選ぶように間を置き、少し照れたように微笑む。
「私が、心配なので」
その一言は、先ほどまでの穏やかな口調とは少し違っていた。
飾り気のないその言葉に、クラリスはなぜだか涙が出そうになった。
怒られるものだと思っていた。
また迷惑をかけてしまったと責められるのだと、どこかで覚悟していた。
けれど、アシュレイは責めるどころか、ただ自分の身体を案じてくれていた。
「……ありがとう……ございます」
クラリスは小さく呟いた。
「まだ、すぐには慣れないかもしれません。休むことも、自分を大切にすることも」
そう言って少しだけ照れたように笑う。
「ですが……少しずつ、慣れていきたいです」
その言葉に、アシュレイは穏やかに微笑んだ。
そんな彼のことを、クラリスはどこか不思議な気持ちで見た。
何もしなくても、誰かの役に立てなくても、ただそこにいるだけで心配してくれる人がいる。
そんなことがあるなんて、今まで思ってもみなかった。
何かとても温かいものが、ゆっくりと胸の奥へ染み渡っていくのを感じていた。




