第十六話 頑張りすぎです
それからというもの、クラリスの毎日は、以前にも増して慌ただしくなっていた。
朝からアシュレイとともに領内を巡り、領務館へ戻れば、すぐにその日の視察内容を報告書へまとめる。
一息つく間もなく過去の記録へ目を通し、気になったことを手帳へ書き留め、アシュレイに相談する。
夜になって別邸へ戻った後も、一日は終わらない。
その日学んだことや気になったことを再度確認し、その日やり残した仕事に手をつけて、気づけば夜更けになっていることも珍しくなかった。
疲れていないわけではない。
それでも、その努力が誰かの役に立つのだと思うと、不思議と苦にはならなかった。
(もっと皆さんのお役に立ちたい。私に出来ることなんて、まだまだ少ないけれど、少しでも何かしたいもの)
その思いだけが、クラリスを前へ進ませていた。
*
その日も一行は村を訪れ、用水路や畑の様子を見て回っていた。
農夫から話を聞き、クラリスは手帳へ次々と書き留めていく。
「去年は下流側の修繕を優先しましたから、今年は上流側も確認しておきましょう」
アシュレイの言葉に、農夫は安心したように頭を下げた。
その表情を見ていると、クラリスは嬉しい気持ちになった。
領務館へ戻った後も、クラリスは机へ向かい続けた。
用水路の件、収穫状況、村人たちから聞いた要望……、忘れないうちに書き留めようと、羽根ペンを走らせ続ける。
「クラリス様、少し休憩なさってください」
侍女が紅茶を運んできた。
「ありがとう。このページだけ終わったらいただくわ」
だが、その一ページを書き終える頃には、さらに気になることが浮かび、気づけば紅茶はすっかり冷めてしまっていた。
夕方になり、仕事を終えたアシュレイが静かに机の前へ立つ。
「クラリス様、今日はここまでにしましょう」
「もう少しだけ、まとめたい資料がありまして」
「明日でも間に合います」
クラリスが困ったように笑うと、アシュレイは穏やかな表情のまま続けた。
「クラリス様は、本当によく頑張ってくださっています。提案も以前よりずっと的確になりました」
「ありがとうございます」
「ですが、少し頑張りすぎです」
少し力の宿った声でアシュレイにそう言われ、クラリスは目を瞬かせた。
そんなクラリスを見ながら、アシュレイは続ける。
「あなたが休憩している姿を、このところほとんど見ていません。夜も遅くまで勉強を続けていると聞いています」
「まだまだ知らないことばかりですから。皆さんのお役に立てるようになりたくて」
その言葉に、アシュレイは優しく目を細めた。
「そのお気持ちは、とても素晴らしいと思います」
そして、すぐにその表情を心配そうなものに変えた。
「ですが、無理だけはなさらないでください」
クラリスは小さく笑った。
「ありがとうございます。でも、本当に大丈夫ですから」
その笑顔に、アシュレイは小さく息をつく。
「……どうか、ご自身のお身体も大切になさってください」
*
翌朝、目を覚ましたクラリスは、身体の重さに眉をひそめた。
手足は鉛のように重く、立ち上がるだけで視界が揺れる。
(少し疲れが残っているだけね)
そう自分に言い聞かせ、身支度を整えて領務館へ向かった。
顔を合わせたアシュレイは、一目見るなり静かに眉を寄せた。
けれど、何も言わなかった。
昨夜あれだけ伝えたのだから、これ以上は本人を信じるしかないと、そう思ったのだった。
午前の視察が始まってしばらくすると、身体の異変は少しずつ大きくなっていった。
視界が霞み、文字が滲む。
熱を帯びた身体は思うように動かず、息をするだけでも苦しい。
(あと少しだけ……)
そう思って前を向いた瞬間、景色がぐらりと揺れ、足元から力が抜けた。
「あっ……」
倒れ込むより早く、力強い腕に身体が支えられる。
「クラリス様!」
今まで聞いたこともないほど切迫した声だった。
アシュレイはすぐ額へ手を当て、その熱に表情を変える。
「熱い……」
眉間に皺を寄せ、焦りを滲ませた表情で告げる。
「クラリス様、馬車まで移動します。少し揺れますよ」
そう言うと、アシュレイはクラリスの身体をそっと横抱きにした。
ふわりと身体が浮き上がり、クラリスは驚いたように彼の胸元へ手を添える。
けれど、力を入れることさえできず、そのまま身を預けた。
「申し訳……ありません……」
かすれた声でそう呟くと、アシュレイはすぐに答えた。
「今は話さなくて結構です」
その声はどこまでも優しかった。けれど、その奥には悔しさが滲んでいる。
「……やはり、無理にでも休んでいただくべきでした」
そう呟きながら、アシュレイはクラリスを抱いたまま、馬車へ向かって歩き出した。
遠のいていく意識の中で、クラリスが最後まで感じていたのは、自分を包み込むように支える腕の温もりだった。




