第十五話 ありがとう
領地へ来てから、二ヶ月ほどが過ぎた頃のこと。
その日の視察を終えたクラリスは、アシュレイと並んで馬車へと戻る道を歩いていた。
その時、道端で野菜を売っていた初老の女性が二人に気づき、にこやかに声を掛けてきた。
「あら、クラリス様。アシュレイ様も」
「こんにちは」
クラリスとアシュレイが笑顔で会釈すると、女性は嬉しそうに目を細めた。
「お二人とも、この前はどうもありがとうございました」
「え?」
一瞬、何のことか分からず、クラリスは小さく首を傾げた。
「ほら、以前お世話になった、道のぬかるみの件ですよ。あれから荷車が通りやすくなって、本当に助かってるんですよ」
その言葉に、クラリスは思わず隣のアシュレイを見た。
あの時、砂利を敷いてはどうかと提案したのは自分だった。けれど、それを実際に形にしてくれたのはアシュレイだ。
「いえ、そんな……。私は別に……」
クラリスは戸惑ったように首を振る。
「あの時、私はこうしたらどうかと申し上げただけです。実際に必要なことを考えて、手配してくださったのはアシュレイ様ですから……」
その言葉に、アシュレイが僅かに眉を寄せ、何か言いかけた。
けれど、それよりも早く、女性が首を横に振って口を開く。
「そんなことありませんよ。クラリス様は、私達が困っていることに気づいて、率先して動いてくださいました。……とても嬉しかったですよ」
そう言って、女性は籠の中から採れたての林檎を二つ取り出し、クラリスへ差し出した。
「よければ、アシュレイ様とお召し上がりくださいな」
「ですが……」
「いえいえ、いいんですよ。これは感謝の気持ちですから」
穏やかな笑顔に促され、クラリスは戸惑いながらも両手で林檎を受け取った。
「……ありがとうございます」
隣で二人のやり取りを見守っていたアシュレイがふっと微笑み、女性に向けて頭を下げる。
「ありがとうございます。ありがたく頂戴します」
「ふふ。どういたしまして」
女性は嬉しそうに笑った。
*
馬車に戻った後も、クラリスは貰った林檎を大切そうに抱えていた。
その林檎を見つめていると、自然とこの村で出会った人たちの顔が思い浮かんでくる。
道のぬかるみに困っていた農夫、畑で働きながら気さくに声を掛けてくれる村上たち、そして、今日出会った女性。
いつの間にか、自分はこんなにも多くの人と出会っていたのだと、クラリスは気づいた。
最初にこの村へ来た頃は、誰も自分のことを知らなかったし、自分もまた、ここで暮らす人たちのことを何も知らなかった。
けれど、少しずつ言葉を交わし、一緒に過ごす時間が増えるにつれて、村の人たちの顔や声を覚えていった。
今では、道を歩いているだけで声を掛けてもらえる。
困ったことがあればそれを相談してもらい、アシュレイや村の人たちとともに、解決の糸口を見つけていけるし、そして今日は、こんなにも嬉しい林檎までいただいた。
そんな日々が、たまらなく嬉しかった。
「クラリス様、嬉しそうですね」
向かいに座るアシュレイが、楽しそうに言った。
クラリスは照れくさそうにしながらも、素直に頷くと、静かに口を開いた。
「領民の皆さんのことを、考えていました」
「皆さんのことを?」
「はい。私は、皆さんに何かをして差し上げたつもりはなかったんです。でも……こうして喜んでもらえたり、頼ってもらえたりすると、とても嬉しくて」
そしてもう一度、手元の林檎に目をやる。
「もっと皆さんのことを知りたいと思うようになりました。どんなことで困っているのか、何を必要としているのか……」
言葉にしてから、自分でも少し驚いた。
以前の自分なら、領地の人々の暮らしについて、こんなふうに考えることなどなかっただろう。
ただ命じられた仕事をこなし、間違えないようにすることだけを考えていた。
けれど今は、目の前にいる人たちの暮らしを、もっと知りたいし、少しでも役に立てることがあるのなら、自分も力になりたいと思っている。
そんな気持ちが、自然と胸の中に生まれていた。
アシュレイは、そんなクラリスをしばらく静かに見つめ、口を開いた。
「クラリス様は、この村で過ごす中で、いろいろなものを受け取られているのですね」
クラリスは一度瞬きをしてから、大きく頷いた。
「……はい、そう思います」
その返事に、アシュレイは微笑む。
「けれど、それはクラリス様が一方的に受け取っているだけではありませんよ。これまで村の皆さんが掛けてくださった言葉も、クラリス様がご自身の力で得られたものだと思います」
その一言に、クラリスは目を瞬かせた。
「私自身の……?」
「ええ」
アシュレイは静かに頷く。
「クラリス様が皆さんの話に耳を傾け、知ろうとして、できることを考えてきた。その積み重ねが、今日のこの林檎や、皆さんの言葉に繋がっているのだと思います」
その言葉に、クラリスの胸の奥がじんわりと熱くなった。
「……私、もっと頑張りたいです」
飾ることなく、自然に言葉が溢れた。
アシュレイが静かに頷く。
「ええ。そのお気持ちがあれば、きっと大丈夫ですよ」
クラリスは改めて強く思った。
この場所で出会った人たちの笑顔を、これからも大切にしたい。
そしていつか、自分もこの人たちにとって、何かを与えられる人になりたい。
失ったものばかりを見つめていたあの日には気づけなかっただけで、自分には、こんなにも大切なものが待っていたのだ。
自分の人生は、ここからようやく始まったのだ。
胸の奥から、自然と言葉がこぼれた。
「……私、ここに来れて、本当に良かったです」
誰かに聞かせるための言葉ではない。
ただ、胸の奥から溢れた、偽りのない本心だった。
アシュレイは少し驚いたように目を瞬かせると、やがて穏やかに微笑む。
「その言葉を聞けて、私も嬉しいです」
どこまでも優しい声音だった。
クラリスは照れくさそうに笑うと、小さく頭を下げた。
「アシュレイ様、ありがとうございます」
「こちらこそ。クラリス様がこの村でたくさんのことを学び、前を向いていかれる姿を見ることが出来て、私も嬉しく思っています」
アシュレイのその言葉に、クラリスははにかむように微笑んだ。
仕事を教えてくれること、頑張りを認めてくれること、そして、ありのままの自分を受け入れてくれたこと。
言葉では伝えきれないほどの感謝が、その一言に込められていた。




