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霧錆びのクローデル ~滅んだ辺境伯家の嫡男は、王立学園で王国を蝕む真実を暴く~  作者: 上止正
3章:価値の在処編

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088話 非合理な人間

「スペルグ! お前が決めろ!」


 ノルンの声がスペルグの耳を打つ。

 ノルンと《喜ばせ屋》を取り囲んだ魔力の檻を目にしてから、スペルグを包み込んでいた不思議な焦燥感や罪悪感は消え去っていた。

 スペルグは床を踏み締め、《喜ばせ屋》に向かって駆け出す。


 一歩踏み締めるたびにヴェルザーク家での思い出が蘇る。

 泥だらけで帰ったとき、困った顔をしながら笑う使用人たちの声。

 今日あった出来事を話すとき、編み物をしながら嬉しそうに聞く母の手。

 使用人に内緒で外に出たとき、緊張しながらも楽しそうに笑う妹の顔。

 初めて魔法が成功したとき、誇らしそうな笑みと共に力強く頭を撫でる父の手の感触。

 婚約者として紹介されて初めて会ったとき、はにかんだ笑顔で挨拶する麗しの──。


「スペルグ様! あなたが裏切っていることなど、初めから分かっていたんですよ!」


 《喜ばせ屋》は動かない体で魔法を放つ。

 風の刃がスペルグの肌を切り裂く。

 それでもスペルグの足は止まらない。

 《喜ばせ屋》は舌打ちをしながら、土の魔法に切り替える。

 土の槍がスペルグの腹を貫く。

 口から血を吐き、空中に放り出されても、スペルグの目は《喜ばせ屋》を捉え続ける。


「『ルール・オルテンシア』」


 敬愛する王女殿下の声が響く。

 右手はスペルグに向けられ、紫の瞳は彼を力強く見つめている。

 これは王族から臣下への勅命だ。


「スペルグ・ヴェルザークにクラックを打ち負かす権利を与える! ただし、オルテンシア王国の貴族としての義務を負う!」


 ──我が命に代えましても、必ずや果たしてご覧に入れます。


 着地したスペルグは、《喜ばせ屋》を睨みつけ、再度駆け出す。

 フェリシエルがスペルグに向けた宿痕に、大きな意味はない。

 だが、それを受けたスペルグは、怪我の痛みを忘れ、体に力が漲る。

 目の前にいる王国の敵を、自分たちヴェルザーク家の敵を誅罰するために走り続ける。


 《喜ばせ屋》は顔を歪ませながら自分とスペルグの間に土の壁を作り出す。

 スペルグは垂直な土の壁に、魔法で足場を作り出す。

 その足場を使って土の壁を一気に駆け上がり、飛び越える。

 そのまま《喜ばせ屋》に向けて飛びかかり、願うように大きく叫ぶ。


「俺と共に在れ! アマルガム!」


 その声に呼応するように、スペルグの胸が輝き出す。

 いや、輝き出したのは、スペルグの胸元に入れられたアマルガムの魔石だ。

 アマルガムの魔石は金属の液体に変化すると、スペルグの胸から右腕に巻き付くように伝っていく。


 やがて、彼の手に収まると、魔石は突如金属の剣に形を変える。

 スペルグはそれが分かっていたかのようにしっかりと握り締める。

 そして、《喜ばせ屋》の首にめがけて、剣を振り下ろす。


 《喜ばせ屋》はにやりと笑うと、自分に向かって土の魔法を使用する。

 小さな土の壁が、床に寝転んだ《喜ばせ屋》を押し上げる。

 こうして《喜ばせ屋》は、動けない体を強制的に動かして見せた。

 そして、至近距離まで近づいてきた、空中のスペルグに向かって、魔法で作った土の槍を突き出してくる。


「お前が避けることなど分かっていた。俺がどれだけお前のやり口を目にしていたと思っている? だが──」


 スペルグは土の槍を斬りつけて両断する。

 槍を両断した姿勢のままでは《喜ばせ屋》への追撃に時間がかかる。

 しかし、スペルグは焦るようなことはなく、《喜ばせ屋》を睨みつけると大声で叫ぶ。


「ヴェルザークを舐めるな!」


 その言葉と共に、アマルガムの剣は意志を持ったように形状を変える。

 それは刹那の出来事だった。

 剣は大鎌の形になると、スペルグの意思と呼応するように《喜ばせ屋》を斬りつける。


 《喜ばせ屋》の右腕が宙を舞う。

 それを《喜ばせ屋》は驚愕の表情で見ていた。

 やがて、宙に舞っていた右腕が、鈍い音を立てて落下する。

 それを最後まで見ていた《喜ばせ屋》は、諦めたように目を閉じる。



 * * *



「ノ……ン、…………て」


 暗闇の奥から声が聞こえる。

 それは水の中から聞いているようにくぐもっている。


「ノ…………、……きて!」


 ノルンはその声に応えようとした。

 しかし、ノルンの体は泥の海に囚われたように動かない。

 あまりの煩わしさに怒りを覚える。


「ノルン、起きて!」


 今度はしっかりと聞こえる。

 無視しようと思ったけど、あまりにもしつこい。

 ノルンは仕方なく、ゆっくりと目を開ける。


 泥に浮かぶ月のような綿あめが、ノルンを必死に揺すっている。

 闇の血を溶かした紫色の氷菓子も、近くで心配そうに見つめている。

 その奥には、黄金色に焦げている枯草のような焼き菓子が、背中を向けて立っている。

 ああ、なんて美味しそう。


「ノルン?」


 綿あめが不思議そうに見つめている。

 美味しそう、美味しそう。

 綿あめを食べようと手を伸ばすが、その手はぴくりとも動かない。

 こんなにも美味しそうなのに、お預けを食らうなんて。

 ノルンは八つ当たりをするように睨みつける。

 美味しそう、美味しそう。

 食べたい、食べたい。

 ──美味しそう?


 ノルンは意識を覚醒させる。

 彼の目に映るのは、ノルンを覗き込むルクレツィアと、心配そうに見つめるフェリシエルだった。

 今まで見えていたのは一体何だったのか、それに──。


(俺は今、何を考えていた……?)


「……! ノルンさん、その目……」


 フェリシエルの指摘にノルンは困惑する。

 フェリシエルは迷いながらも懐から手鏡を取り出し、ノルンの顔を映す。

 手鏡に映る自分を見て、ノルンは驚愕の表情を浮かべる。


「赤い、目……?」


 ノルンの目は、暗く輝く赤い色に染まっていた。

 ノルンはそれに見覚えがある。

 ネルが暴走して必要以上の力の魔法を使ったとき。

 クローデルの住民が魔物に変貌する直前のとき。

 つまりこれは──。


「魔物化の、兆候か……」


 ノルンはしばらく自分の顔を鏡越しに見る。

 やがて、瞳は元の色に戻っていった。


「ノルンさん、これは私見です。ノルンさんの宿痕を初めて拝見しましたが、あれはもう使わないほうが良いと思います」


 フェリシエルが心配そうな声でノルンに話しかける。

 彼女の私見は、ノルンも薄々感じていたことだ。

 ノルンの宿痕は一時的に魔力をゼロにする。

 それはノルンの中に巣食う呪いに、活動の場を提供するようなものだった。

 ノルンは小さくため息をついた。


「やっと目を覚ましたか」


 スペルグが、血だらけの腹をさすりながらゆっくりと歩み寄ってくる。

 彼の右腕には銀色の腕輪が輝いていた。

 ノルンのもとまで辿り着いたスペルグは、懐から小瓶を取り出すと、ノルンに無理やり飲ませる。

 ぴりっとした苦みが口内を駆け巡り、ノルンは渋い顔をする。


「解毒薬だ。それとお前のポーチからポーションを勝手に拝借したぞ」


 解毒薬がゆっくりと体内を駆け巡り、麻痺を少しずつ緩和していく。

 そして、戦闘中の怪我を思い出したように、全身を痛みが駆け巡る。

 ノルンは麻痺が残る体をゆっくりと起こし、周囲を観察する。


 右腕を失った《喜ばせ屋》が床に倒れ込んでおり、それをフェルディナントが見張っている。

 スペルグは呆れた表情をノルンに向けると、《喜ばせ屋》の監視に戻っていく。

 フェリシエルは手鏡を片手に、困った顔でノルンを見ている。

 ルクレツィアは──。


「レツィ!」


 ノルンは焦りながらルクレツィアに目を向ける。

 そこには普段通りの彼女がきょとんとした顔で座り込んでいた。


「ノルン、どうしたの?」


「いや……怪我の様子は? 無事なの?」


「エルフは体の作りが少し違うから、あの程度なら大丈夫」


 ルクレツィアはそう言いながら、力なく笑いかける。

 ノルンはほっと息をつくが、ルクレツィアの様子に少し違和感を覚えていた。

 何か隠し事をしているような、そんな様子だ。

 ルクレツィアをじっと見るノルンを、彼女は不思議そうに見つめ返す。


「本当に大丈夫?」


「私はノルンみたいに痩せ我慢はしない。それより《喜ばせ屋》について」


 ルクレツィアは話を切り上げるように立ち上がる。

 これ以上の詮索は逆効果になると判断し、ノルンもゆっくりと立ち上がる。


「《喜ばせ屋》は?」


「まだ生きています。とはいえ、ご注意ください」


 ノルンの問いにフェリシエルが簡潔に答える。

 感謝の言葉を述べようとしたが、フェリシエルは慌ててノルンから顔を逸らす。

 ノルンは不思議そうに首をかしげるが、やがて《喜ばせ屋》のもとへ向かうことに決めた。


 《喜ばせ屋》は右腕から血を流しながら目を閉じている。

 一見すると死体のようだが、上下する胸がそれを否定する。

 ノルンは《喜ばせ屋》の様子を確認しながら、呆れたように口を開く。


「寝たふりはもう十分だろ?」


「……おや? 気づいておられましたか」


 《喜ばせ屋》は突然目を開け、言葉を発する。

 それに驚いたフェルディナントとスペルグは、警戒心を高めて身構える。


「もう戦う気力はないですよ。……右腕を切られました。私が処断したあの男と同じように」


 《喜ばせ屋》はもう存在しない右腕に目を向けながらぽつりと呟く。

 《呼び込み屋》のことを考えているのだろうが、何を思っているのかまでは、ノルンにも読み取れなかった。


「私は、負けたのですね……」


「ああ、人間を理解していないお前が、人間の価値を語った。それが敗因かもな」


 ノルンの語る言葉に、《喜ばせ屋》は不思議そうな顔をする。


「……人間。経済社会における意思を持つ資源。他者への承認欲に従う愚かで怠惰な生き物。ほかに、何の価値があるのですか?」


「お前の言葉を借りるなら、お前は自分の知性を固定化させていた。誰かに認められようと試行錯誤するのも人間の価値だ。そして、自己愛、誇り、責務といった非合理な情熱もまた、人間の価値だ」


 ノルンは周囲の仲間たちを見回しながら《喜ばせ屋》に告げる。

 その言葉に《喜ばせ屋》は恥じ入るように苦笑する。

 だが彼は、今自分が感じている感情が分からないようで、その表情は困惑へと変化していく。


「合理的な計算式に、私の知らない非合理的な変数が紛れ込んだわけですか……」


 《喜ばせ屋》は大きなため息をつく。

 これまで自分の中で作り上げていた計算モデルを作り直そうと考えたが、諦めたように目を閉じる。


「承認欲求を怠惰の証として語っているけど、お前も誰かから認められたかったんだろ?」


 ノルンの言葉を聞いて、《喜ばせ屋》は再び目を開ける。

 そして、目だけを動かしてノルンを見つめる。


「お前は俺が箱を開けたとき、本気で俺の顔を見ていた。喜ばなかった俺に、本気で落胆した。報酬にならない他人の反応を、お前は欲しがっていたんだ。お前は誰かに認められることで何かを得ようとした。違うか?」


「……そう、なのかもしれません。私には感情というものがよく分からない」


 当たり前のことを当たり前に行えばよい。

 なぜ、他人の評価が気になるのか。

 なぜ、目の前の利益よりも感情を優先するのか。

 他人の評価や感情は利益よりも大事なものなのか。


「それが知りたくて私は承認欲求というものに興味を持った。他者から認められることで、人は良くも悪くも大きな感情を得る。それが分かれば私も……」


 《喜ばせ屋》はそこまで喋るが、やがて自分の中で答えを得たように、微笑みながら沈黙する。

 そして、大きく息を吐き、ノルンたちへと語りかける。


「……もう、十分です」


「こっちは全然十分じゃない! エルメルダはどこにやった?」


 満足したように眠りにつこうとする《喜ばせ屋》に、スペルグが詰め寄る。

 怒りの形相のスペルグを見ながら、《喜ばせ屋》はいつもの調子を崩さず話しかける。


「スペルグ様ですか。言ったでしょう? いずれ分かると。私は確かに仕事を失敗しましたが、それでも自分の仕事内容を語るようなことはしませんよ」


 《喜ばせ屋》は呆れたように笑いながらスペルグに語りかける。

 ノルンも彼が口を割ることを期待していたが、彼の決心は固いようだった。

 やがて、思い出したように《喜ばせ屋》は口を開く。


「……ああ、《呼び込み屋》にもそうしたように、仕事の不始末はつけないといけませんね」


 そう言うと、《喜ばせ屋》は突然魔法を行使する。

 その動きはあまりにも素早く、誰にも止めることができなかった。

 だが、ノルンたちに魔法が襲ってくるようなことはない。


 魔法の行使先は、彼が武器として使っていた戦斧だった。

 土の魔法により押し上げられ、くるくると回転しながら《喜ばせ屋》のもとに飛んでくる。

 それを《喜ばせ屋》は笑顔で見ていた。


「それでは皆様、御機嫌よう」


 回転しながら飛来する戦斧は、狙い違わず《喜ばせ屋》の首を切断した。

ここまで読んでいただきありがとうございました。

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