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霧錆びのクローデル ~滅んだ辺境伯家の嫡男は、王立学園で王国を蝕む真実を暴く~  作者: 上止正
3章:価値の在処編

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086話 共犯者

「いったい、何が……」


 フェリシエルは違和感を覚えながら、ルクレツィアと《喜ばせ屋》の戦闘を見ていた。

 体が僅かに重い。

 だが、戦闘に支障はないと冷静に判断した。

 そして、ルクレツィアを援護すべく、魔法を行使しようと右手を前に出した。


「う……ぐ……」


 フェリシエルの隣から苦しそうな呻き声が聞こえる。

 彼女の兄であるフェルディナントが頭を押さえていた。

 彼は何かを振り払うように、頭を横に振っていた。


「……兄上?」


 フェリシエルが心配そうに語りかけるが、兄からは何の返答もなかった。

 一抹の不安を覚えたフェリシエルは、フェルディナントの傍らに駆け寄る。


「……だめだ……フェリシエル……俺に、近寄るな」


 フェルディナントは頭を押さえながら、フェリシエルが近づくのを右手で制する。

 顔から汗を大量に流し、呼吸は浅い。


「ですが、兄上……っ……!」


 フェリシエルは制止を振り切ってフェルディナントに近寄る。

 兄の肩に触れ、顔を覗き込むフェリシエル。

 すると、フェルディナントは顔を上げ、フェリシエルの首に右手を伸ばす。

 そして、彼女の白く細い首を万力のような強さで絞めつける。


 突然の出来事に、フェリシエルは頭の中が真っ白になった。

 兄が自分の首を絞めている?

 そんなことはあり得ない。

 だが、首に感じる強烈な痛みと圧迫感が、それが現実だとフェリシエルに伝えてくる。


「……違う、違うんだ……フェリシエル」


 フェリシエルは両手で兄の右腕を掴み、苦しみから抜け出そうとする。

 フェルディナントは困惑したように左手で自分の右手を掴む。

 首を絞める力は多少弱まったが、それでもフェリシエルは抜け出せず、もがき続ける。


「ああ、フェリシエル……お前が、誇らしい……妬ましい……愛おしい……恐ろしい……羨ましい……痛ましい……」


 フェルディナントは頭を掻き毟りながら、苦しそうに呟く。

 彼の感情が、制御不能な力としてそのまま手に現れている。


「俺は、お前に認められたいんだ! 俺よりも優秀で、俺よりも冷静で、俺よりも王に相応しい! お前に認められなければ……俺は国を背負えない……」


「う……ぐ……」


 息が苦しい。

 だが、かろうじて呼吸はできる。

 問題なのは首を圧迫されていることで、血流が阻害されていることだ。

 脳内に送られる血液が不足し、酸素が補給されない。

 フェリシエルはその怜悧な思考を纏めることができずにいた。


「だが、お前に認められる未来が見えない……。なあ、俺はどうすればいい? こうするしかないのか?」


 ──ああ、なんだ。そういうことですか……。

 その言葉にフェリシエルは苦しみながらも微笑む。

 やがて、フェルディナントの右肘を両腕で掴み、内側に捻る。

 人体の構造に従ってフェルディナントの右肩が下がり、右手の握る力が僅かに弱まる。

 フェリシエルは右手を首から引きはがし、長い苦しみから解放される。


「ゲホッ、ゲホッ……まったく、兄上は仕方のない人ですね……」


 フェリシエルは床に伏しながら激しく咳き込み、大きく息を吸って体内に酸素を取り込む。

 そして、ゆっくりと立ち上がり、変わらぬ微笑みでフェルディナントに語りかける。


「私に認められたい? 何をおっしゃっているのですか?」


「フェリシエル……」


 フェルディナントは顔をくしゃくしゃにしながらフェリシエルを見上げる。

 まるで泣き出しそうな子どものような顔。

 フェリシエルは諭すような口調で話を続ける。


「私は確かに兄上よりも優秀です。それを誇っています。誇るということは、兄上が優秀だと確信しているからです」


 フェリシエルがフェルディナントの右手を握る。

 フェルディナントは肩を震わせるが、フェリシエルはそれを無視する。


「私は確かに兄上よりも冷静です。兄上の決断力は私には無いものです。決断に至るまでに私が冷静に見定める。それを支えられることが嬉しいのです」


 フェルディナントの右手を両手で包み込む。

 フェルディナントは目を伏せて妹の話に耳を傾ける。


「そう、私はずっと昔から兄上を認めていますよ。だって、あなたは私の兄上なのですから」


「フェリシエル、俺は……」


 フェルディナントは顔を上げ、フェリシエルを見つめる。

 フェリシエルは微笑みを携えたまま、ゆっくりと立ち上がる。

 手を引かれるようにフェルディナントも立ち上がる。


「ああ、なんということでしょう。承認、してしまいましたね?」


 突然、二人の近くから声が聞こえてくる。

 そこには血だらけの《喜ばせ屋》が立っていた。

 彼はにやにやと不快な笑みで二人を見ている。

 フェリシエルは《喜ばせ屋》に向けて魔法を繰り出そうとした。

 しかし──。


「おや? おかしいですね? 魔法がほとんど使えない。……なるほどなるほど、王女殿下はなかなか難儀な承認欲求を抱えていらっしゃるのですね」


 フェリシエルの魔法は小さな氷の粒を生み出すという結果に終わった。

 彼女はいくつもの氷の弾丸を叩きつけるつもりでいた。

 作り出された氷の粒は、音もなく床に落下し、その役目を全うした。

 フェリシエルは目を丸くして、自分の手を見つめる。


「話を戻しましょう。承認欲求のゴールは承認先に認められることにあります。喉から手が出るほど欲しい承認。それを与えられてしまった人はどうなるのでしょう?」


 《喜ばせ屋》は踵を鳴らしながらフェルディナントに近づく。

 その間もフェリシエルは何度も魔法の行使を試みたが、いずれも失敗に終わる。


「無気力になるのです。自分の人生最大の承認欲求が叶ったのです。次の承認を探すことなく、人間は無気力な人形へと変わってしまう。これが私の能力」


 《喜ばせ屋》はフェルディナントの頬を叩きながらフェリシエルに語りかける。

 フェルディナントは心ここに在らずといった様子で、無抵抗にそれを受け入れている。

 《喜ばせ屋》は右手でフェルディナントの頬を掴み、楽しそうに笑う。

 兄を小馬鹿にした《喜ばせ屋》の振る舞いに、フェリシエルは強い怒りを抱く。


「そんな怖い顔をなさらないでください。王女殿下にはさらに強い能力をかけて、その怒りを忘れさせてあげましょう」


 《喜ばせ屋》は不快な笑みを貼り付けたまま、フェリシエルに語りかける。

 そして、戦斧を自分の足元に突き立て、ゆっくりと口を開く。


「《渇望漏出》」


 先ほどよりも明確な重さを感じる。

 フェリシエルの目に、兄の顔が映らなくなる。

 思考が纏まらず、どうすれば承認してもらえるか、ということばかりが思い浮かぶ。


「殿下、あなたの承認欲求を教えていただけますか?」


 《喜ばせ屋》の言葉が蛇のように心に絡みついてくる。

 平時であれば決して口を開くことはないのに、今この瞬間は《喜ばせ屋》の口車に乗ってしまう。

 フェリシエルは、ぼおっとした顔で話し始める。


「私は認められたいのです。私は確かに王族で、特別な存在です。誰よりも努力し、誰よりも優秀で、どんな勝負にも勝ち、みなの期待に応えてきました」


「ええ、あなたのことは私たちもよく知っています」


 フェリシエルの独白に、《喜ばせ屋》が相槌を打つ。

 《喜ばせ屋》はフェルディナントの肩に肘を置いて話を聞いている。


「でも、違う。本当は違うのです!」


「もちろん、分かっていますとも」


 甘い蜜のような同意が、喋りやすいようにフェリシエルの口を濡らす。

 フェリシエルは顔を手で覆いながら、苦しそうに隠してきた思いを吐露する。


「本当は誰かに私を負かしてほしいのです! 負けることで、私もみんなと同じだと認められたいのです! 誰か、誰か私を見てください! 特別ではない、ただ一人の私を……!」


「あはは、とんだマゾヒストですね! 一国の王女がこんな欲求を抱えているなど、国民が可哀想でなりません。聞きましたか、王太子殿下? あなたの妹君はなんて市場価値の低い欲求を持った人間なんでしょう!」


 フェリシエルの承認欲求を聞いた《喜ばせ屋》が腹を抱えて笑い出す。

 フェルディナントの背中をバンバンと叩いて同意を求める。

 《喜ばせ屋》は王族二人を徹底的に虚仮にしている。


 フェリシエルは顔を赤くしながら胸を押さえる。

 目には大粒の涙が溜まっていく。

 恥辱とも屈辱ともつかない感情が心を支配し、満たされたいという欲求が脳を支配する。


 そうしてフェリシエルは気づく。

 さっき魔法が使えなかったのは、自分の内なる欲求が、弱い自分を演じようとしていた結果だと。

 不快な笑い声が玄関ホールに響き渡る。


 しかし、そこに一人の少年が割り込んでくる。


「今の言葉に、何かおかしいところがあったか?」


「……は?」


 深く沈み込んだ状態から放たれた袈裟を、《喜ばせ屋》は戦斧でなんとか防御する。

 しかし、少年の猛攻は止まらない。

 《喜ばせ屋》は右手でフェルディナントを掴みながら、左手一本で迎撃していく。


「ノルン様? おかしいですね、あなたはもう終わった人間のはずですよ? 思考の迷路の中で朽ちるだけの存在だったはず……」


「あんたの嫌いな妖精が、道案内をしてくれただけだよ」


 少年──ノルンは不敵な笑みを浮かべたまま、《喜ばせ屋》と対峙する。

 《喜ばせ屋》は妖精──ルクレツィアに目を向ける。

 血だらけになって床に転がるエルフの少女。

 呼吸が浅く、今にも生を手放しそうなルクレツィアを見ながら、《喜ばせ屋》は舌打ちをする。


「……ノルンさん」


「フェリン。君が『特別』という檻に閉じ込められていることは理解できる」


 普段のフェリシエルからは考えられない、不安の色を含んだ声が聞こえる。

 ──知られてしまった。彼には知られたくなかったのに……

 彼女は顔を覆い、指の隙間からノルンを見ていた。

 そんな彼女の様子を、ノルンは真剣な表情で見ている。


「俺は君の勝ちにも、負けにも興味がない。でも、ただ一つ言えることがある」


「……」


「俺は君と対等でいることを誓おう」


 ノルンは口角を上げてフェリシエルに誓いを立てる。

 それは、フェリシエルが望んだ承認ではない。

 しかし、何か温かいものがフェリシエルの心を満たしていく。


「君の手を取り、一緒に檻の中にいることも、檻の外に連れ出すこともしてやる。だって、君が俺を選んだんだ。俺の手を握った責任を取れ」


 そうだ、私は確かに彼と手を握ったのだ。

 共にクラックを打ち倒す約束をした。

 これまで誰の力も必要としなかった私が、確かに必要とした決意の込められた優しい手。


 指の隙間から、不敵に笑う彼の口元が見える。

 彼が私に向かって手を伸ばしているのが見える。

 指が邪魔で彼の顔がよく見えない。

 そうだ、こんな()、取り払ってしまおう。


「まずは目の前の雑魚を何とかしないとな」


 顔を覆っていた手を振り払う。

 目に溜まった涙を乱暴に拭き取る。

 そして、いつもの勝気な笑顔を取り戻す。

 彼の手を取り、自分の足でしっかりと立ち上がる。

 ああ、視界が澄み渡り、頭が冴えわたり、心が喜びに浸されていく。


「それくらい、あんたなら余裕だろ? 俺の共犯者(フェリン)


「まったく、誰に向かって口を利いているのですか? 私の共犯者(ノルンさん)


 不敵な笑顔を浮かべた二人の共犯者が、《喜ばせ屋》をじっと見据える。

 《喜ばせ屋》は顔を歪ませながら、二人を睨みつける。


(承認先を付け替えられた……!)


 《喜ばせ屋》の顔に焦りが浮かぶ。

 これまで彼は、正しい入力により、正しい式を通して、正しい出力を与えてきた。

 それが、突然現れた変数により、簡単に崩されてしまった。


「だから何だと言うのです! 私の右手が掴んでいるモノが見えないのですか? この国の王太子! 次期国王なんですよ!」


「ええ、見えていますよ。そしてあなたは何も見えていない」


 《喜ばせ屋》は無気力なフェルディナントを抱き寄せ、ノルンたちを挑発する。

 大声で怒鳴りつけ、これまで見せていた余裕の表情は影を潜めている。

 しかし、フェリシエルは落ち着いた様子で《喜ばせ屋》を見つめている。


「あまり、王族を舐めないでいただきたい」


「……は?」


 《喜ばせ屋》が気の抜けたような声を発する。

 やがて、彼の腹は熱を帯び始める。

 彼の腹には一本の剣が刺さっていた。

 《喜ばせ屋》はゆっくりとその剣の出所に視線を移す。

 剣の柄はフェルディナントの腕から伸びていた。


「な、ぜ……? 無気力状態の人間は、何も行動を起こせないはず……」


 《喜ばせ屋》は混乱したように自分の腹に突き刺さった剣を見つめる。

 彼の疑問に、フェルディナントはうわごとのように答えていく。


「気力が湧かなくとも、果たさねば。我々は、王族としての責務を果たさねばならぬ。国土を穢す者を許すな。民を傷つける者を許すな。フェリシエル、お前も責務を果たせ!」

ここまで読んでいただきありがとうございました。

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