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霧錆びのクローデル ~滅んだ辺境伯家の嫡男は、王立学園で王国を蝕む真実を暴く~  作者: 上止正
3章:価値の在処編

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084話 渇望漏出

 ぱたん、と扉が音を立てて閉じる。

 我に返ったノルンたちは慌てて《喜ばせ屋》を追いかける。

 蹴破るように扉を開け、玄関ホールに躍り出たが、《喜ばせ屋》の姿はそこにはなかった。


 ──逃げられたか!

 ノルンは悔しさを抑えきれず舌打ちする。

 だが、ヴィクトルたちが庭園を見張っていることに思い至る。

 もし玄関から逃げたのであれば、外から何らかの物音がするはずである。


 ──まだ、屋敷の中にいるのか?

 そう考えを巡らせていたところ、玄関ホールに《喜ばせ屋》の声が響く。


「こちらですよ」


 何か重いものを引きずる音が聞こえる。

 金属が地面を引っ掻くような不快な音が脳内を掻き乱し、ノルンたちは思わず眉を顰める。

 音の出どころと思われる場所に目を向けると、《喜ばせ屋》が落ち着いた足取りで大階段の裏から姿を現した。

 その手には、彼の体格には不釣り合いなほど巨大な戦斧が握られていた。


「相手を喜ばせる方法の一つとして、全力でお相手する、というものがあると耳にしたことがあります」


 《喜ばせ屋》は眼鏡を押し上げながら語りかけてくる。

 引きずられた戦斧が鈍い輝きを発して、ノルンたちを睨みつける。

 床には戦斧が引きずられた跡がくっきりと残っており、相当な重量があることを思わせる。


「この音はいかがですか? 皆様の期待に応える前奏になっていますか?」


 《喜ばせ屋》はまるで楽器を愛でるかのような目つきで戦斧を見る。

 戦斧と床が織りなす不協和音は、彼にとって極上の音楽となっていた。


「私、こちらのほうが得意なのです」


 《喜ばせ屋》は立ち止まると、片手で軽々と戦斧を持ち上げる。

 感触を確かめるように戦斧を振り回し、満足したようにそれを肩に担ぐ。

 そして、血の匂いすら感じさせる柔和な笑みをノルンたちに向ける。


「それでは、皆様への歓待を続けさせていただきます」


 《喜ばせ屋》は姿勢を低くして、肉食獣のように狙いを定める。

 これから始まるであろう最悪の演奏会に、ノルンたちの緊張感が高まる。

 その瞬間、《喜ばせ屋》の姿がぶれる。

 それと同時に、ノルンはルクレツィアに肩を掴まれ、後ろに強く引っ張られる。


「やはり玄関ホールはいいですね。調度品も少ないので、床の張替えだけで済みそうです」


 ノルンの目の前には、戦斧を振り下ろしたままの姿勢で《喜ばせ屋》が立っていた。

 戦斧の行き先を目で追うと、爆発でもしたかのように大きく抉れた床があった。

 そしてそこは、一瞬前までノルンが立っていた場所でもあった。


 それを目にしたノルンは、頬に冷たい汗が流れるのを感じた。

 恐怖を振り払うように強引に頬の汗を拭うが、手の甲に血がついていることに気づく。

 飛散した礫により、頬が切り裂かれていた。

 戦斧による破壊音で耳鳴りがし、平衡感覚まで狂いそうになる。


「人間の戦いにおいて、重要な要素は何でしょう?」


 ノルンとスペルグは、《喜ばせ屋》の言葉を無視して走り出す。

 そして、いまだ戦斧を振り下ろしたままの《喜ばせ屋》に向かって剣を振り下ろす。


「膂力は違います。確かに重要ですが、それは獣の戦いにおける重要な要素です。人間に限定する必要はありません」


 《喜ばせ屋》は、ノルンの剣を戦斧の柄で受け止め、振り下ろしたスペルグの腕を左手で握る。

 想定以上の握力に、スペルグの腕の骨と筋肉は悲鳴を上げる。

 外部からの圧力に屈した筋肉は、主の意思に反するように指を開き始める。

 ──カラン。

 《喜ばせ屋》に握られた手は握力を失い、やがてスペルグの手から剣が零れ落ちる。


「技術も違います。確かに重要ですが、それは万全な状態でこそ真価を発揮するものです。少し傷がついただけで容易に崩れ落ちる、まるで砂のようなもの」


 フェルディナントとフェリシエルが魔法を行使しようとする。

 《喜ばせ屋》は戦斧を雑に振り払ってノルンとスペルグを吹き飛ばす。

 そして、床を削るように戦斧を薙ぎ払い、王族二人に向けて礫を飛散させる。

 その弾丸はフェルディナントとフェリシエルの魔法行使を阻害するのに成功する。


「私は、揺るがない知性こそが最も重要だと考えています。精神性と言い換えてもいいでしょう」


 いつの間に移動したのだろうか、ルクレツィアが《喜ばせ屋》の背後を取っている。

 そして、至近距離で魔法を行使しようとする。

 《喜ばせ屋》は楽しそうな笑顔で振り返りながら彼女に斬撃を放つ。

 それを読んでいたルクレツィアは深く沈み込んで斬撃を回避すると、足元から《喜ばせ屋》の顔に向けて風の刃を繰り出す。

 《喜ばせ屋》は体を後ろに大きく反らして回避し、バク転をして体勢を整える。


「知性により、人間は自身の可能性を最大限に発揮し、多角的な戦闘ができます」


 《喜ばせ屋》の演説は続く。

 ノルンは自身の宿痕を使うことを考えていたが、《喜ばせ屋》の身体能力を見て考えを改める。

 宿痕を使ったとしても、純粋な力の差で敗れる未来しか見えなかった。


「ですが、もしその知性が一つの事柄にのみ執着するものだった場合、人間はどうなるのでしょう?」


「……いい加減うるさい」


 ルクレツィアは大気を固め、《喜ばせ屋》を圧し潰す。

 《喜ばせ屋》は力を抜いて戦斧の先端を床に置いたかと思うと、周囲に風魔法を展開してルクレツィアの魔法を分散させる。

 彼は、笑顔を崩さないままなおも話し続ける。


「私には知性を固定化させる能力があります。それが私の宿痕」


 フェリシエルが氷の弾丸を放つが、《喜ばせ屋》は戦斧をナイフのように軽々と振り回し、全ての弾丸を叩き落とす。

 そして、戦斧を自分の足元に突き立て、楽しそうに口を開く。

 嫌な予感がしたノルンは、剣を持って《喜ばせ屋》を斬りつけようとする。

 だが、間に合わない。


「《渇望漏出》」


 瞬間、玄関ホールの空気が張り詰めたように重くなる。

 それは大したものではない。

 重力が微増した程度で、行動に支障をきたすようなものではなかった。


「何を、した……」


「人の抱える承認欲求とは困ったものです。特定の誰かに認められたい。大勢の誰かに認められたい。それだけのために、法律、道徳、倫理といった人間に定められたルールを無視して行動してしまう」


 ノルンは仲間たちの顔を見る。

 みな、困惑したような表情を浮かべて《喜ばせ屋》の話を聞いている。


「嘘の記憶を作り出し、他者を貶し、自分を特別な人間だと思い込む。それが、自身の行動を他人に委ねる行為だとも気づかず」


 《喜ばせ屋》がゆっくりとノルンに近づいてくる。

 その表情は穏やかだが、彼の目には憐憫の情が映っている。


「たかが承認のために採算の合わない行動を取る。実に非効率で、実に御し易い」


 目の前で講釈を垂れている男は敵だ。

 今この場で戦わなくてはいけない。

 そのはずだ。

 そのはずなのに。

 《喜ばせ屋》はノルンの顔を覗き込みながら口を開く。


「今、あなたの頭の中に、私はいますか?」


 ノルンは父親のことで頭がいっぱいになっている。

 父ならばこの時どうするのだろうか。

 父は今の自分を見て褒めてくれるだろうか。

 父ならば、父ならば、父ならば──。


 答えのない問いが頭の中を駆け巡り、他の思考を堰き止める。

 剣を持つ手が重い。

 目の前にいるはずの男の輪郭がぼやける。

 自分が今まで何をしていたのかが分からなくなる。

 ノルンの思考を無視するように、目の前の男が戦斧を大きく振りかぶる。

 そして──。


「もう、演説は終わった?」


 玄関ホールに朔風のような冷たい声が響く。

 《喜ばせ屋》は、訝しげに声のした方向へ目を向けようとする。

 だが、それは叶わなかった。

 真横から強烈な蹴りを受け、《喜ばせ屋》は壁に叩きつけられる。


「……これだから、あなたのように承認欲求がないにもかかわらず、自己肯定感が高い人間は嫌いなんですよ」


「そう? 私は自分が好きだけど?」


 《喜ばせ屋》は余裕の表情を崩し、憎々しげに自分を蹴り飛ばした相手を睨みつける。

 そこには冷たい目をしたルクレツィアが体に風を纏って立っていた。

ここまで読んでいただきありがとうございました。

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