080話 人間の基準
フェルディナントの眼前に広がる光景をどのように評すべきか。
森の奥の隠れた湖のような静けさ。
しかしそんな湖も、目を凝らすと波がさざめいており、独特の騒がしさを持っている。
明け方の湖面に立つ霧のように、乾いた土煙が静かに舞い上がる。
「壮観だな」
フェルディナントはぽつりと呟く。
遮るものがない一面の荒野に広がる、万に届く軍勢。
王国軍と反乱軍はここを決戦の地とし、互いに睨み合っていた。
両軍、息を殺しながら、されど自身の存在を誇示するかのように殺気立っている。
「兄上、もっと緊張感を持ってください」
目を細めて戦場を見るフェルディナントを、フェリシエルが窘める。
彼女は忙しなく報告に目を通し、兵に命令を出している。
兄であるフェルディナントは、腕を組みながら泰然自若としている。
「この戦争、どう見る?」
兄の問いかけに、フェリシエルは手を止める。
顔を上げてフェルディナントの目を見ると、自信ありげな表情で答える。
「九割方、我々の勝利です。ノルンさんたちのおかげで、道中余計な被害を出さずに済みました」
「北の山嶺を守りし賢狼、クローデルはいまだ健在か……」
フェルディナントはティールームで邂逅した少年──ノルンの顔を思い出す。
北方軍事に強い影響力を持っていたクローデル辺境伯。
温厚篤実かつ英邁な男で、王国にはなくてはならない人物だった。
クローデル領の滅亡と共にその血脈は途絶えてしまった、とフェルディナントは絶望していた。
そんな男の忘れ形見が突然フェルディナントの目の前に現れたのだ。
最初は素性の知れない少年に、フェルディナントは警戒していた。
しかしそれと同時に、彼の妹であるフェリシエルが親しげに話していることで興味が湧いた。
フェリシエルがあれほど親しげに会話をしている者など、彼女の付き人であるエリューゼ以外に見たことがなかった。
その後、フェリシエルの機転により少年の正体に気づくことができたが、フェルディナントはどうしても疑いを捨てきれずにいた。
だが、妹の言動が、その疑念を払拭することになる。
他の貴族の意見には耳を傾けず、ただ己の道が正しいと信じて突き進む妹。
そんな彼女が他者に意見を求めている。
その事実に、フェルディナントは心が躍った。
「……して、残りの一割は?」
知らず、口元が緩んでいたフェルディナントは、口を一文字に結ぶ。
そして、フェリシエルの見解に対して質問を投げかける。
「家令の存在ですね。今のヴェルザーク家の実権は家令が握っているようなもの。彼の存在が、この戦場の鍵になると思います」
眉尻を下げて答えるフェリシエル。
彼女と同じ不安を、フェルディナントも抱いている。
ヴェルザーク家の家令はクラックのメンバーである可能性が高い。
そんな男が、勝算もなく反乱を起こさせるなど考えられなかった。
フェリシエルは顎に手を当て、目を閉じながら考え込んでいる。
その口元には僅かに笑みが浮かんでいた。
余人が見れば、策を脳内で巡らせているように見える。
しかし、フェルディナントには昔を思い出し、懐かしんでいるように見えた。
「なんだか楽しそうだな?」
「急にどうされたのですか、兄上?」
フェルディナントは微笑みながらフェリシエルに語りかける。
彼からの場にそぐわない問いかけに、彼女は驚いたように目を見開く。
「普段はほとんど会話できないんだ。こういう時くらい構わないだろう? 何を思い出していた?」
フェルディナントとフェリシエルの兄妹仲は決して悪くない。
ただ、彼らを取り巻く貴族たちが派閥を作って牽制し合っているため、気軽に会話することもできない状況である。
嫡男であるがゆえに周囲に推されるフェルディナントと、兄よりも優秀であるがゆえに周囲に担ぎ上げられるフェリシエル。
その事実が、二人の間に見えない壁を作らせてしまっている。
「いえ、ノルンさんと初めて会話した時のことを思い出していました」
「ほう、興味があるな。聞いても構わんか?」
フェルディナントが楽しそうに問い返す。
フェリシエルは困ったように微笑みながら、兄に思い出を語る。
「彼と初めて会話をしたのは、学園での軍略の授業の後でした。今のこの状況が、彼と交わした議論によく似ているな、と思いまして」
「どんな内容だったんだ?」
「教官の教えは兵の数、兵の士気、裏切らない味方が必要というものでした。しかし、私たちはそこに指揮官という要素を見出していました」
フェリシエルはまるで物語を思い出すように語り出す。
そして、二人は目の前に広がる戦場へ視線を向ける。
敵軍よりも遥かに多く、意気軒高な兵士たち。
敵軍に紛れ込み、素知らぬ顔で陣取っている内通者たち。
「この三要素に加え、我が軍の指揮官は兄上。そして、その横には私がいます。これがこの戦争における我々の答えになります」
フェリシエルはフェルディナントに顔を向けると、不敵な笑みを浮かべる。
妹の頼もしい様子に、フェルディナントも口角を上げる。
「だが、この戦争が終わったら『反乱を鎮めたのは王太子殿下だ』『いや、王女殿下だ』みたいなことを喧伝する貴族が増えるんだろうな」
「それだけは頭痛の種ですね……」
互いに笑い合っていた二人だが、少し先の未来を想像し、ため息をついた。
* * *
「ヴェルザーク侯、準備が整ったとのことです」
天幕の中で一人の兵士が片膝をつき、頭を下げて報告をしている。
報告を受けた男──ヴェルザーク侯は、椅子に深く腰掛けて聞いていた。
「よし、合図があり次第、魔法により砲撃を行え。王国軍には魔法師団がいる。魔法戦の間は密集陣形ではなく、散開陣形を取れ。防衛は塹壕ではなく土塁にて行え。塹壕では魔法師団の水魔法による水攻めを受ける」
「は!」
ヴェルザーク侯は兵士に作戦を伝える。
兵士は頭を上げて、ヴェルザーク侯の命令を聞いている。
「魔法戦後、側面に配置した傭兵連中を敵の両翼に突撃させろ。その後は敵本陣の背後を取って包囲し、王太子と王女を捕縛しろ。復唱!」
「緒戦は散開陣形による魔法戦! 防衛は土塁にて実施! 側面に配置した傭兵部隊にて敵両翼を撃破後、包囲戦により王太子と王女を捕縛!」
「よし、行け!」
天幕の中に兵士の声が響き渡る。
復唱を命じられた兵士の言葉を聞き、ヴェルザーク侯は満足そうに頷く。
兵士は敬礼をすると、天幕の外へ駆け出していく。
兵士が出て行ったことを確認すると、ヴェルザーク侯は目を閉じて天を仰ぎ、大きく息を吐く。
腕は震えており、力強く握られた拳は白くなっている。
そしてゆっくりと瞼を開ける。
そこには、決意に満ちた瞳が鈍く輝いていた。
「クローデル辺境伯が死んだ今、王国の軍事の要は我がヴェルザーク家のはずだ。なのに、なぜ陛下は我々を頼らない。そんなにも我らは頼りないか」
天幕の中でヴェルザーク侯の独白が空しく響く。
その声色は、怒りと寂しさに満ちていた。
ふと、視線を隣に移す。
普段であれば隣には家令が控えているが、彼は今、屋敷にいる。
ヴェルザーク侯は家令との出会いを思い出す。
家令との出会いは、諸侯が集う社交の場であった。
彼は非常に聞き上手で、聡明な人物だった。
気持ちよく話をさせてくれる彼に酒を勧められ、ヴェルザーク侯はつい深酒をしてしまった。
本来は本音を隠すべき社交の場だが、酒の力もあって、王国への不満を漏らしてしまった。
『侯爵のご不満、よく分かります。ですが、今のままでは陛下のお気持ちは変わらないでしょう』
貴様に何が分かる、とヴェルザーク侯は怒鳴ろうとした。
しかし、彼の真剣な瞳に見つめられ、ヴェルザーク侯は毒気を抜かれてしまった。
『ヴェルザーク家は歴史ある大家ではありますが、それは名ばかりのことです。実が伴ってこそ、ヴェルザーク家の影響力は真に王国に轟くでしょう』
家令の言葉を聞き、ヴェルザーク侯は酔った頭で考える。
ヴェルザーク家は王国でも豊かな家ではあったが、無駄が多いと感じていた。
だが、それは微々たるものだと考え、これまでは放置していた。
『今のヴェルザーク家は、体の動かし方を分かっておらず、能力を十全に発揮できていない戦士のような状態です。本来であれば百の成果を上げられるのに、三十程度の成果しか上げられていません』
家令の例え話は、ヴェルザーク侯も共感できるものだった。
ヴェルザーク侯の困ったような唸り声を聞いた家令は、追い打ちをかけるように現在の経済状況を説明する。
そして、領地の広さや領民の数、土地に対応する収穫量や産出量をもとに、想定される経済状況を具体的な数値で説明する。
ヴェルザーク侯の唸り声は大きくなるが、それを聞いた家令は笑顔になって口を開く。
『私には秘策があります。ヴェルザーク家の費用を減らし、利益を上げることができます。しかし、この策は誰が運用するかで効果が変わってきます。侯爵、私をヴェルザーク家で雇ってみませんか? 十全な効果を発揮させることをお約束します』
その言葉を聞き、ヴェルザーク侯は試しに家令補佐として家で働かせてみることにした。
疑い混じりの雇用ではあったが、効果はてきめんだった。
家令は短期から長期の計画をヴェルザーク侯に説明し、その通りに実行していった。
短い期間で不要な支出を抑えて財政を健全化した。
浮いた金で雇った人物は優秀な者が多く、計画を実行する推進力となった。
そして、数字に基づいた税を領民から徴収し、ヴェルザーク家の収入を増やしてみせた。
家令の働きにヴェルザーク侯は満足したが、同時に彼と他人を比較するようになった。
なぜ、使用人は効率よく真面目に働かないのか。
なぜ、領民は文句ばかり言って無茶な要求ばかりしてくるのか。
このままでは王国は魔族に侵略されて滅茶苦茶になる。
ヴェルザーク侯は周囲の人間の不甲斐なさに、日に日に怒りを募らせていった。
家令は厳しい人間だったが、彼の言葉こそ王国を救う糸口になる。
自分の考えが家令に認められるたびに、王国を救う自信に繋がっていった。
こうして、ヴェルザーク侯にとっての人間の基準は、いつの間にか家令へと変化していった。
これまでのことを思い返していたヴェルザーク侯はゆっくりと立ち上がり、天幕の外へ出る。
そして、目の前に広がる自軍を眺めながら、唸るように口を開く。
「今のままでは、魔族の侵攻は防ぎきれない。この戦争をもって、我がヴェルザーク家こそが王国を守護するに足る存在だと知らしめてやる」
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