079話 人形の兄
「ノルン、すまないが俺は少し休ませてもらう」
ヴィクトルが無表情のままノルンに切り出す。
表情だけ見るなら平気そうにも見えるが、その体は傷だらけで、特に腹と肩の傷はひどい有様だった。
いまだ流れ落ちる血を手で押さえながらも、ヴィクトルは心配をかけまいと両の足で立っている。
「ヴィクトル先生、ありがとうございました。さっき渡した分じゃ足りないでしょう? ポーションをいくつか置いていきますね?」
「助かる。……それと、ネリネも休ませたい」
ヴィクトルの言葉を受けて、ノルンはネリネに目を向ける。
ネリネは顔を青くし、苦しそうに呼吸をしている。
そんな彼女の背中を、ヴィクトルが優しくさすっている。
その光景を見て、ノルンは胸をきゅっと締め付けられるような思いがした。
「……ええ、もちろんです。ネリネもつらい中、手伝ってくれてありがとう」
「あとは任せて」
ルクレツィアがネリネに近づき、優しげに微笑みながら彼女の頭を優しく撫で、ウインクをする。
ネリネはバラの茎を握ったまま、申し訳なさそうに頭を下げる。
「よし、行こうか」
ノルンはスペルグに視線を移し、話しかける。
スペルグは一度だけヴィクトルとネリネのほうを見ると、何も言わずに背を向けた。
そして、スペルグに先導されて、ノルンとルクレツィアは屋敷へと向かう。
やがて、庭園にはヴィクトルとネリネだけが残される。
* * *
ヴィクトルはゆっくりと座り込むと、その隣にネリネも腰を下ろす。
彼はノルンから受け取ったポーションを傷口にかけると、残った分を一気に飲み干そうとした。
だが、ネリネの様子を見て、やめた。
ネリネはバラの茎を握りしめたままで、その手は小刻みに震えている。
よく見ると、バラの棘がネリネの手のひらに食い込んでおり、彼女の手のひらは血が滲んでいた。
ヴィクトルはそっと彼女の手に触れる。
ネリネはびくっと肩を震わせ、ヴィクトルの目を見る。
「ヴィクトル、ごめんね。手が、離れないの。ごめんね……」
何に対して謝っているのかは分からない。
それでも彼女はうわごとのように謝罪の言葉を述べる。
ヴィクトルは優しく彼女の手を撫でて、ゆっくりとバラの茎から彼女の手を離していく。
そして、ネリネの手のひらに、残ったポーションを丁寧にかけていく。
「……頑張ったな」
「でも、私、あんまりヴィクトルの役に立てなかった。もっと私が頑張ってれば、ヴィクトルがこんなに怪我することはなかった」
ネリネはヴィクトルの怪我を見ながら、消え入りそうな声で呟く。
ヴィクトルはネリネの頭を乱暴に撫でる。
「この怪我は、相手の強さへの称賛だ。お前は確かに頑張った。戦闘で役に立ったことだけじゃない。トラウマを前にしても立っていた。俺はそれを褒めたい」
ネリネは顔を歪めながらヴィクトルの目を見る。
焦げた花の匂いが、風に乗って鼻をつく。
甘さの抜けた、命が終わるときの乾いた匂い。
ネリネはその匂いを知っている。
「お前の宿痕はどうしたって昔のことを思い出す。最後に炎を使ったとき、家族のことを思い出したんだよな?」
ネリネは小さく頷く。
彼女にとって赤の炎は、幸福の終わりと悪夢の始まりだった。
彼女はそれを使ってスペルグにとって大切な人を手にかけてしまった。
その事実が、彼女を今苦しめている。
「俺は、頭が悪いから、正しいことが言えるか分からない。一つ言えることは、お前が抱えているものは、あの頃の俺にはなかった尊いものだ。そんなお前がトラウマを前にしても、立ち止まらずに決断したことが誇らしい」
ヴィクトルの言葉を聞き、ネリネの感情が決壊する。
泣き顔を見せまいとヴィクトルの胸に顔をうずめ、流れる涙を隠す。
庭園にはヴィクトルの痛がる声と、ネリネの押し殺した泣き声だけが響いていた。
* * *
「我が屋敷にようこそ、とでも言うべきかな?」
スペルグは玄関の扉に手をかけ、ゆっくりと開く。
玄関ホールは吹き抜けとなっており、中央には二階に続く大階段がある。
華美ではあるが嫌らしさがなく、歴史を感じさせる内装となっていた。
「使用人は?」
「必要最低限だけ残して、後は家令が暇を出した」
屋敷から人の気配が感じられなかったため、ノルンはスペルグに問いかける。
スペルグは先を歩きながらも端的に答える。
玄関ホールには三人の足音だけが虚しく響き渡る。
「こっちだ」
スペルグは大階段の裏にある扉を開く。
そこにはワインや蒸留酒が置かれており、ひんやりとした空気がノルンたちを包み込む。
スペルグはさらに奥へと足を進めると、何もない石壁の前に立つ。
「ここが地下へと通じる階段だ」
石壁にはでっぱりがあり、それをスペルグが押し込む。
石壁は低く鈍い音を立てながら、横に動き出す。
やがて、音が止み、地下へと続く階段が姿を現した。
「貴族の人って何でこういう仕掛けが好きなの?」
「それは俺も知りたい」
ルクレツィアの何気ない質問に、意外にもスペルグが苦笑いしながら答える。
だが、本人もその答えを知らず、ルクレツィアの疑問は再び闇の中へと消えていった。
「エルメルダは地下の一室に閉じ込めている。入学前は顔を合わせていたが、最近はずっとベッドの中にいるらしく、ここ一週間は俺とも会話してくれない状態だ。まったく、情けない兄貴だよ」
スペルグは寂しそうに自嘲する。
彼の無力感を表すように、地下への階段を下りる足音が響く。
階段を下りると、一本の長い廊下がノルンたちの目の前に現れる。
壁にはランプが備え付けられているが、全体的に暗く、寂しい雰囲気を纏っていた。
廊下の両側にはいくつもの扉が並んでおり、多くの部屋があることが窺える。
スペルグは迷うことなく歩き出すと、やがて一つの扉の前で足を止める。
「エルメルダ。俺だ。話したいことがある」
部屋の中から返事はなかった。
扉には覗き窓のようなものが備えられており、外側から中の様子が見えるようになっていた。
部屋の中は薄暗く、詳細な様子までは分からない。
スペルグはため息をつくと、扉の取っ手に手をかけて中に入ろうとする。
「……しまった。この部屋の鍵は家令が持っているんだった」
スペルグはバツが悪そうにノルンたちを見る。
それを見たルクレツィアが、スペルグをどかして扉の前に立つ。
そして、扉の隙間に手を翳すと、風の魔法を行使する。
地下に大きな破壊音が響き渡る。
「大丈夫。鍵なんか最初からついてなかった。そういうことにしよう」
ギィ、と音を立てて開く扉を前にルクレツィアが得意げに振り返る。
突然の魔法の行使でノルンの胸が痛んだが、彼女の顔を見ていると、そんなことを気にする気も失せた。
ノルンとスペルグは顔を見合わせ、冷や汗をかきながら苦笑する。
部屋の中は砂埃が舞っており、ノルンたちは思わず目を細め、咳き込む。
スペルグも咳き込みながら、ベッドにゆっくりと近づいていく。
部屋の中には机があり、そこには書きかけの手紙が何枚も置かれていた。
スペルグはベッドの隣で片膝をついて、エルメルダに優しく話しかける。
「……エルメルダ。ごめんね? 起きているかい?」
エルメルダはスペルグの声に反応しない。
その光景に違和感を覚えたノルンは、これまでのことを思い返す。
やがて、何かに思い至ったノルンは、大股でベッドに近づいていく。
「な、何をするんだ!」
鍵は家令が持っている。
魔法による破壊音に無反応。
部屋の中の砂埃に咳き込まない。
ノルンはスペルグを押しのけて、毛布に手をかける。
スペルグの制止の声を無視して、ノルンは思い切り毛布を引き剥がす。
「なっ……!」
スペルグが絶句したように声を上げる。
ルクレツィアも目を見開き、黙り込んでいる。
ノルンだけは、最悪の予想が当たっていたことに苦い表情を浮かべている。
ベッドの中には、エルメルダを模した人形が一体、横たわっていた。
「どういう……俺は、いったい今まで……何のために……?」
予想だにしていなかった光景を目にしたスペルグは、魂が抜けたように座り込む。
毛布を取り払った際の風に吹かれて、机から手紙が一枚、ひらひらと舞い落ちる。
やがてそれは、スペルグの足元にゆっくりと着地する。
スペルグは手紙を拾い上げて、中身に目を通す。
それはリネットに宛てようとした手紙であり、家族や家令に対する不信が綴られていた。
初夏の挨拶が書かれていることから、最近まで部屋の中にいたことが窺える。
ノルンは他の手紙にも目を通す。
エルメルダ自身、手紙が届けられないことを理解していたはずだ。
しかし、どうしても想いだけは書き綴っておきたかったのだろう。
机の上の手紙の山が、彼女の苦しみを物語っていた。
「……スペルグ、家令は戦場か?」
「……いや、この屋敷の中にいる」
一瞬の沈黙の後、ノルンは人形を見たままスペルグに質問する。
スペルグは、手紙を握り締めながら、怒りを押し殺した声で答える。
ノルンは顔を上げると、鋭い目つきで宣言する。
「家令に会いに行く。奴に目的を洗いざらい吐いてもらうぞ」
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