078話 決着
「『赤の衝動』!!」
ネリネの叫びが庭園に響き渡る。
深紅のバラの花束が熱を持ち、アマルガムに向けられる。
アマルガムは回避しようと足に力を込めるが、冷やされた体は思うように動かない。
ふと、アマルガムは背後に目を向ける。
──炎の、その先。
そこには、自身の主の一人であるスペルグが立っていた。
アマルガムはスペルグを見つめ、静かに目を細めた。
それは一秒にも満たない僅かな時間であった。
アマルガムは再びネリネに目を向ける。
バラの花束は炎に変わり、すべてのものを燃やし尽くす機会を待っていた。
やがて、炎の塊はアマルガムを飲み込まんと、その牙を剥く。
灼熱の死がアマルガムに襲いかかる。
──ああ、あの日も。
あの日も、この熱を前に一歩も引かずに立っていた男がいた。
その場に立ちはだかり、両手を広げて炎の塊を受け止める。
その熱を浴びた庭園の花は一瞬で萎れ、地面の水は蒸発する。
それでもアマルガムはその炎を受け止め続ける。
やがて炎は役目を終え、陽炎を残して消滅しようとする。
その瞬間、アマルガムが見たものは、炎の陰に隠れながらも突撃し、眼前に迫っていたヴィクトルだった。
ヴィクトルの捨て身の突きがアマルガムの腹に吸い込まれていく。
庭園は焼け焦げ、周囲は炎が燻っている。
アマルガムの体はひび割れ、腹に穴が穿たれ、もはや立っているのも不思議なほどボロボロになっている。
しかし、腹の穴の向こう側の景色は何も変わらず、スペルグの無事な姿を映していた。
* * *
アマルガムの右腕が、音を立てて地面に落下する。
そして、アマルガム自身もゆっくりと地面に倒れ伏す。
残されたのは、突きの姿勢のまま、息を切らせて血を流すヴィクトルだった。
「アマルガム!」
スペルグはノルンの腕を振り払い、アマルガムに駆け寄る。
そして、地面に膝をつき、アマルガムの左手を強く握る。
じゅっ、と肉の焼ける音がする。
それでもスペルグは手を放すことなく、アマルガムを見つめ続ける。
「……アマルガム、お疲れ様。苦労をかけたね?」
スペルグは慈しみをもってアマルガムに労いの声をかける。
アマルガムは一度だけスペルグの手をぎゅっと握る。
そして、その左手は力を失い、スペルグの手から滑り落ちる。
アマルガムの体は水のように溶けていき、やがてその場には彼の魔石だけがぽつんと残される。
それをスペルグはゆっくりと手に取り、大事そうに懐に入れる。
その行為を咎める者など、この場には誰一人としていなかった。
沈黙がその場を支配し、炎の燻る音だけが空しく響く。
ノルンとヴィクトルは複雑な表情でスペルグを見つめているが、ネリネは沈痛な表情を浮かべ、目を閉じながら俯いている。
その手は、燃え尽きたバラの茎を、まだ握ったままだった。
しばらくして、庭園の奥からルクレツィアがやってくる。
それを見たスペルグは立ち上がり、観念したように両手を上げる。
火傷をしている手のひらが痛々しく、彼の顔には諦めとも悲しみとも取れない表情が浮かんでいた。
「……俺の負けだ」
その言葉を聞き、ノルンはスペルグの懐から麻痺毒のナイフを抜き取る。
そして、ポーチからポーションを取り出すと、一本はヴィクトルに、もう一本はスペルグに投げて渡した。
ポーションを受け取ったスペルグは、じっと自分の手のひらを見つめた後、丁寧にポーションを振りかける。
「……あのメモは、確かに俺が書いた」
ノルンを見つめ、スペルグは眉尻を下げて語る。
そこには諦めの表情が浮かんでいるが、どこか清々しさも感じられた。
これまで必死に隠してきた心の内を、ようやく少し吐き出せた、そんな表情だった。
「それじゃあ、お前は味方でいいんだよな?」
「いいや、敵だ。それだけは変わらない」
「……そうか」
ノルンは困ったような表情を浮かべ、スペルグを見つめる。
その視線を受けて、スペルグはゆっくりとノルンに近づく。
そして、手に持った杖と腰に佩いた剣を投げ捨て、ノルンに向かって語りかける。
「……負けは認める。だが、俺の気が収まらない。すまないが、俺の最後の悪あがきに付き合ってもらう」
そう言うと、スペルグはポーションの空き瓶を天高く投げ捨て、拳を握り締めて戦いの意思を見せる。
ノルンも剣を投げ捨て、拳を握り、同じような構えを取る。
放り投げられたポーションの空き瓶が落下し、地面に叩きつけられる。
それを合図に二人は同時に殴りかかる。
「どうして妹を閉じ込めたままにしている! どうして逃がしてやらない!」
「妹は大事な家族だ! だがそれと同時にヴェルザーク家の敵だ! 逃がしてしまったら妹は父上に殺される! それなら閉じ込めておくほうが安全だろう!」
ノルンの拳がスペルグの頬に突き刺さる。
スペルグも負けじとノルンの頬を殴りつける。
ノルンは口から血を吐き捨て、スペルグを睨みつける。
「なら、リネットさんは! どうして彼女を傷つけるような真似をした!」
「リネットのことは愛している! 愛しているからこそ今のヴェルザーク家には近づけられない! 彼女まで反乱の疑いをかけられ、後ろ指を差されるのは耐えられない!」
ノルンは左腕でスペルグの腹を穿とうとする。
しかし、瀉血のために切った箇所が痛み、普段の力が発揮できない。
ノルンの拳はスペルグに軽々と受け止められ、代わりに腹を強く抉られる。
「……それは彼女のことを本当に思っての行動か! お前に捨てられる彼女の不安や恐怖を考えなかったのか!」
「考えたに決まっているだろう! だが、今この一瞬の情よりも、この先長い彼女の人生を考えたら、裏切り者の婚約者というレッテルは永遠の呪いでしかない! だから彼女の涙と引き換えに、俺から捨てたという事実を作ったんだ!」
ノルンが腹を押さえている隙を見逃さず、スペルグは猛攻勢をかける。
鋭い拳の連打を、ノルンは防御を固めて受け止める。
スペルグの動きが鈍ったのを確認し、ノルンは膝蹴りを脇腹に当てる。
「学園内でグループを作ったのはなぜだ! もし入学前に反乱を考えていたなら、学園なんか通わなければよかっただろ!」
「王国に忠誠を誓っているからに決まっているだろ! 不穏分子の子息を一纏めに集めれば、悪い影響を広めずに一掃できる!」
スペルグが苦しそうにノルンを睨みつけ、地面に血を吐き捨てる。
お互いが肩で息をしており、疲労困憊となっている。
今度はノルンが攻勢に転じ、スペルグが防御に徹することになる。
「そこまでしているなら、なぜ反乱に与している! 父親を説得することもできただろうが!」
「自分の父親が間違っていることも、勝ち目のない戦いに身を投じていることも、全部分かっている!」
ノルンの渾身の一撃がスペルグの防御を剥がし、彼の胸元をガラ空きにする。
そして、ノルンはスペルグの胸ぐらを掴み、思い切り殴りつけようとする。
しかし、彼の顔を見てその手を止める。
「……それでも俺の父親なんだ」
スペルグは顔をくしゃくしゃにして、振り絞るような声で泣きそうになりながら答える。
「俺が逃げ出したら父上は一人だ。……ただ一人、ヴェルザーク家の歴史に泥を塗ることになる。そんなのは、あんまりだ……」
ノルンの胸がちくりと痛む。
呪いのせいではない。
ただ、彼の本音がノルンの心を掻き乱す。
そんな痛みだった。
「ヴェルザーク家の泥も俺が被る! ヴェルザーク家の過去と未来も俺が守る! それを、誰にも邪魔させはしない!」
スペルグはノルンの手を掴み、睨みながら秘めた決意を叫ぶ。
その言葉を聞き、ノルンは納得する。
──ああ、彼は俺なんだ。
ノルンはまるで鏡を見ているかのようにスペルグを見つめる。
「この想い! お前に分かるものか!」
スペルグはノルンの腕を振り払い、殴りかかってくる。
ノルンはその拳を受け止めると、スペルグに負けないくらいの大声で言い返す。
「分かるに決まってるだろうが!」
ノルンは鏡の中の自分を殴るかのように、スペルグを殴りつけた。
スペルグは地面に倒れ込むと、困惑したようにノルンを見る。
「父を愛しているからこそ認められたい! だから、責任も覚悟もすべて背負い込む!」
ノルンの叫びを、スペルグは口を開けながら聞いている。
目の前の男が、土足でスペルグの心の中に踏み込んでくる。
そんなことにも気づかず、ただ黙ってノルンの言葉を聞く。
「でも、自信がないからどうすればいいか分からない! だから自己を顧みず、それが正しいと信じて我武者羅に前に進むしかない!」
それはスペルグに向けた言葉だけではない。
ノルン自身にも向けた言葉だった。
ノルンは拳を握り締め、それを胸に当てながら苦しそうに叫んだ。
「なあ、俺はどうすればいいんだよ……」
自分でも言葉にできなかった心の靄を、ノルンが言い当てていく。
スペルグは俯きながら、縋るように呟く。
ノルンは一瞬だけ言葉が詰まるが、ゆっくりと深呼吸し、スペルグに語りかける。
「俺は父親に言ってもらったよ。自慢の息子だから、自信を持つのはそれで十分だろって。一人で解決せずに周りを頼れって」
ノルンはスペルグに近づくと、ゆっくりと手を差し伸べる。
──この手を取ってもいいのだろうか。
スペルグは一瞬ためらう。
だが、やがて決意を秘めた表情で、力強くその手を握る。
「まずはお前の妹に会いに行こう。檻の外に連れ出して、お前の思いを伝えるんだ」
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