072話 開戦
朝の日差しを浴びながら、ノルンは馬に朝の食事を食べさせている。
ヴィクトルは荷馬車についた朝露を丁寧に拭いている。
外に出るつもりがなかった二人は、手持ち無沙汰に馬の世話と荷馬車の手入れをしていた。
女性陣の身支度のため、部屋から追い出されたのだ。
「遅いですね……」
「だな……」
初夏の青臭い風に包み込まれながら、二人はルクレツィアとネリネを待つ。
鶏の鳴き声が何度も響き渡り、ノルンは暇つぶしにその鳴き声の回数を数えていた。
朝の畑仕事に出かけるであろう老人が、二人を訝しげに見ている。
「こういう時、男は楽というべきか、損というべきか……」
「女性の前では言わないようにしましょうね……」
ヴィクトルは、無精髭を触りながらぼそりと呟く。
ノルンは苦笑しながらヴィクトルを窘める。
やがて老人は畑へと歩き去り、鶏は三度鳴いた。
四度目に鶏が鳴いた頃、ようやく宿の扉が開いた。
* * *
「ヴェルザーク家の屋敷はここから二時間ほど先にあります」
村を離れた一行は、ヴェルザーク家に向かって歩を進める。
最初の頃より荷物は随分と軽くなり、進む足取りは軽やかだ。
ノルンは果実を齧りながら、三人に話しかける。
「予定では今日の午前中に王国軍が川に到着します。正午頃に何らかの動きがあると思うので、それに合わせて突入しましょう」
ヴィクトルは干し肉を齧りながら頷く。
ルクレツィアとネリネは果実を片手に持ちながら返事をする。
三人の返事を聞き、ノルンは持っていた果実を馬に食べさせる。
「でも、どうやって交戦に気付くの?」
「残念ながら、確実な方法はないですね。些細な変化を読み取るしかないです」
ルクレツィアからの質問に、ノルンは眉を八の字にして答える。
通信機のようなリアルタイムで情報のやり取りができる機材があれば別だが、この世界にそんなものはない。
「例えばどんなの?」
「例えば……えっと……」
「……鳥が円を描くように飛び立つ。遥か遠くから大きな音が聞こえる。空に不思議な光が見えたり、雲の流れが変わる。空気中の魔力の乱れを感じる。主要道での物資の運搬が多くなる、などがあるな」
「……さすがヴィクトル先生、ありがとうございます。それと、今回で言えば川の様子を見るとかもですね。水嵩が高くなったり、水流が強くなれば、上流の堰が開放されたということになりますから」
ルクレツィアの再びの問いに、ノルンは考え込むように口を閉ざす。
それを見かねたヴィクトルが、ノルンを助けるように自身の考えを述べる。
戦場の経験者であるヴィクトルの知恵に、ノルンは感心しながらも感謝を述べる。
「あと、こういう変化は人間よりも動物のほうが敏感だ。こいつも何かに気づくかもな」
ヴィクトルが荷物を引いている馬の背中をぽんと叩くと、任せてくれと言わんばかりに鼻を鳴らす。
ノルンはそれを微笑ましく眺めているが、やがて目を細めて遠くの空を見つめる。
穏やかな時間ではあるが、決戦の時は刻々と迫っている。
* * *
「殿下、魔力の跡に変化があります」
フェリシエルの隣で馬を駆るエリューゼが小声で話しかけてくる。
それを聞いたフェリシエルは、何かを考えるように一度目を閉じる。
彼女の後ろには大勢の兵士が整然と歩いている。
「ありがとう、エリューゼ。……兄上、進軍の一時停止を具申させてください」
「……フェリシエル、分かった」
フェリシエルは礼を言うと、斜め前で馬を駆っているフェルディナントに声をかける。
話を聞いたフェルディナントは、全軍に向けて停止命令を発する。
兵士たちは乱れることなくその場で停止し、王国軍の士気の高さが伺える。
「これまで風の魔力痕が残されていましたが、それが水の魔力痕に変わりました」
「……兄上、伏兵がいるかもしれません。何名か兵を引き連れて、様子を見てきます」
フェリシエルはそう言うと、数名の兵を引き連れて丘の上に駆け上がる。
ノルンたちが行ったのと同様に、腹ばいになりながら周囲の様子を確認する。
(……水の魔力痕を残したのはそういうことですね。素敵なメッセージをありがとうございます)
壊された橋、広めの川、その奥に広がる森。
そして残された魔力痕について考えながら、フェリシエルは思考を整理する。
やがて、フェリシエルは丘を駆け下り、フェルディナントの元に戻る。
「兄上、橋は情報通り破壊されています。そして、敵は我が軍の渡河を狙って水攻めを行うつもりでしょう。水攻めで兵が分断された後、森の奥に潜ませた伏兵で各個撃破するのが狙いかと」
「なるほど……進軍ルートの変更を検討するべきか。……フェリシエル、何か意見はあるか?」
「いえ、兄上。このまま予定通り橋を直して進軍しましょう」
「ほう……よし、お前の思うままにしろ」
フェリシエルはフェルディナントに、にやりと笑いかける。
それを受けて、フェルディナントも笑い返す。
作戦を任されたフェリシエルは、隣にいるエリューゼに命令する。
「エリューゼ、魔法師団長にここに来るよう伝達を」
その言葉を聞いたエリューゼは、馬を反転させて魔法師団長の元に向かう。
やがて、エリューゼと共に魔法師団長が馬に乗ってやってくる。
「はいは~い、なんでございましょう?」
場の空気にそぐわない、緩い雰囲気が彼女から醸し出される。
妙齢の女性だが、フェリシエルも実際の年齢は知らない。
ただ、彼女が優秀であるがゆえに魔法師団の長を任されている。
フェリシエルにはそれだけで十分だった。
「敵はこの先で水攻めと伏兵の準備をしています。そして、今から作戦を伝えます」
フェリシエルはそう言うと、魔法師団長に作戦の詳細を話す。
彼女はふむふむと頷きながらフェリシエルの話を聞く。
「この作戦の肝はあなたたち魔法師団です。心してかかるように」
「承知しました~」
話し終えたフェリシエルに向かって、魔法師団長は笑顔になって丸を作る。
どこか真剣味のない彼女だが、仕事をしっかりとこなすことを知っているフェリシエルにとって、何も問題はなかった。
* * *
「魔法工作部隊。予定通り橋の修理に取りかかれ!」
フェルディナントの声に従い、百名近い兵士が前進し、橋の修理に取りかかる。
橋は三十分とかからずに修理され、進軍のための編成が行われる。
通常の編成とほとんど変わらないが、隊列の左側には魔法師団のメンバーが等間隔で並んでいる。
「第一陣、進め!」
フェルディナントの号令で、第一陣が橋を渡る。
特に何かが起きることもなく、その後も次々と橋を渡る。
全兵力の四分の一が渡り切ったころ、王国側の丘の上で何かが光る。
魔法師団長が杖から巨大な火の玉を作り出し、空に向けて打ち上げていた。
「第一から第三陣は転進! 魔法師団は左前へ!」
フェルディナントの怒号を受けて、すでに渡河した部隊は作戦通り転進する。
そして、橋の左側面に魔法師団が列を成す。
やがて、何か地面を削るような地響きと共に、巨大な水の塊が龍のように川に流れ込んでくる。
兵士の顔に恐怖が宿るが、それもこの瞬間だけだった。
丘の上で魔法師団長の杖が赤い光を放つ。
それを受けて、魔法師団のメンバーは土魔法で堤防を作り出す。
再度、魔法師団長の杖が赤い光を放つ。
魔法師団のメンバーは交代し、作られた堤防を覆うように新たな堤防を作り出す。
魔法師団長は杖を振るい、何度もメンバーに合図を出す。
その姿はまるで、戦場にいながら音楽を奏でる指揮者のようだった。
やがて、川には高さ五メートルの堤防が作り上げられていた。
そして最後に、氷魔法でダメ押しの補強を行う。
それを見た王国軍の兵士から、感嘆の声が漏れる。
真横から見れば、それは水を堰き止めるだけのただの堤防だろう。
しかし、丘の上にいる魔法師団長からは違う。
王国側の川岸にもその堤防は作られており、カーブをするように堤防が連なっている。
巨大な水の塊が堤防にぶつかる。
堤防は強い衝撃を受けるも、魔法師団のメンバーが補強していく。
そして、堤防にぶつかった水は、堤防に従うように流れを変える。
その行先は──。
「川の近くの森に兵を伏し、その近くで水攻めを行うなど愚策も愚策です。木々が多少の堤防の役割をするでしょうが、無意味です」
水の塊が、森に向かって襲いかかる。
木々にぶつかった水が、悲鳴を上げるように高く打ちあがる。
そして、川の水が森を呑み込むように侵食していく。
「森の多くはその木々が体積を占めています。つまり、森に流れ込んだ水というのは、想像以上の水深になり、あなたたちに襲いかかるでしょう」
まるで森自体が苦しんでいるかのように、森の中からいくつもの悲鳴が聞こえてくる。
やがて、森から水が溢れ出し、何名もの敵兵が流されていく。
その様子を見たフェルディナントは、フェリシエルに向かってにやりと笑う。
そして、腰の剣を抜き、前に掲げて号令を発する。
「全軍! 橋を渡り、突撃せよ! 敵を殲滅し、王国の威光を示せ!」
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