062話 在りし日のヴェルザーク
教室から、一人の少女が姿を現した。
肩を落とし、少し背中を丸めて歩く彼女の後ろ姿。
太陽のように溌溂とした彼女。
月のように淑やかな彼女。
(リネット……)
少年──スペルグは、その背中をじっと見つめる。
これは、スペルグが望んで行ったことだ。
しかし、喉がきゅっと締め付けられ、心は今にも張り裂けそうだった。
一年前、父が一人の男を連れてきた。
他貴族との社交の場で偶然出会い、意気投合したとのことだ。
父は彼の見識に惹かれ、家令補佐として迎え入れた。
スペルグは男の名前を何度も聞いたが、決まってこのような回答が返ってくる。
「私に名前など不要です。ただ、役職でだけ私をお呼びください」
男は無表情で感情表現が乏しい人間だったが、優秀だった。
ヴェルザーク家の資金の流れを洗い出し、領民に課す税や屋敷の固定費の見直しを行った。
これまで行われてこなかった在庫の棚卸を行い、不良在庫や過剰在庫を現金化した。
属人化していた作業の手順書が整備され、無駄な作業はなくなり、特定の人物に依存した作業はなくなった。
ヴェルザーク家の資産は、僅か半年ほどで目を見張るほど増えていった。
その過程で、元々いた家令は徐々にやせ細っていった。
目のクマは濃くなり、書類を持つ手は震えている。
明け方になっても部屋の明かりはついており、食事を残すことが多くなった。
心配したスペルグは、家令に労りの声をかけることにした。
しかし、家令は疲れたような笑みを浮かべ、申し訳なさそうにするばかりだった。
「私が無能なばかりに申し訳ございません。私は全力で仕事に打ち込めていなかったようです。申し訳ございません。申し訳ございません」
ある日、家令は普段と違って憑き物が取れたように明るかった。
スペルグが幼少のころのように、元気で優しく、そして力強い彼だった。
スペルグはそのことが嬉しく、いつも以上に彼とのお喋りに興じ、昔話を楽しんだ。
その翌日、家令は首を吊った。
スペルグの父は新しく来た家令補佐を家令に据えた。
長年一緒にいた家令が亡くなってしまい、スペルグは悲しかった。
しかし、屋敷では悲嘆の雰囲気はなく、ただ淡々と日々の仕事のみが流れていった。
スペルグは、屋敷が徐々におかしくなるのを感じていった。
そして、それは妹も同じだった。
「……お兄様。私、なんだか怖いです……」
妹は病弱だったが、優しく健気で、少しわがままなところもあり、使用人からの人気も高かった。
屋敷の使用人たちは実の娘のようにスペルグの妹を扱っていた。
しかし、今は違う。
決まった時間に食事と薬が届けられる。
食事の内容は栄養だけが重視され、そこには味の楽しみも、ともに食事をする喜びもない。
以前なら、妹がたまにわがままを言い、使用人が甘いお菓子を作ってくれる。
そして、それを使用人と一緒に食べて笑い合う時間があった。
妹の行動は厳しく管理され、周囲の笑顔は制限されたようにかき消された。
「最近、リネットお姉様からの手紙が来ないんです……」
スペルグもそれには薄々勘付いていた。
スペルグの婚約者であるリネットは、理由もなく手紙を寄こさないことなどありえない。
疑問に思ったスペルグは手紙の動向を探ることにしたが、どうやら手紙は検閲されているらしい。
ヴェルザーク家にとってよろしくない内容や、家人の精神に影響を及ぼすものは焼却されているようだ。
そして、父はそれを良しとしている。
「…………」
母は窓の外をぼんやり眺める日が多くなった。
元々口数の多いほうではなかったが、柔らかい笑顔でスペルグたちや使用人たちの悩みを優しく聞いてくれる。
手先が器用で、元公爵令嬢にもかかわらず、使用人たちの服のほつれやカバンの修理を得意としていた。
しかし今では、その手はただ静かに膝の上に置かれ、何かを懐かしむように遠くの空を眺めているだけだった。
「これ以上税を上げられたら死んじまうよ!」
領民たちの不満は日に日に募っていった。
年に二回だった税の取り立ては、月に一回になった。
一回の徴収量は少ないが、合計にすると遥かに多いものだった。
真面目に働けば働くほど、多くの税を徴収され、働かなければ罰が与えられる。
領外へと逃亡する領民は少しずつ増えていった。
「坊ちゃま……最後までお供できない不義理をお許しください……」
長年仕えていた使用人たちは次々と辞めていった。
彼らは最後までスペルグと妹の身を案じていた。
そしてスペルグも、彼らに怒りをぶつけるようなことはなく、彼らの行く末をただただ案じていた。
新しく入ってくる使用人は優秀な人が多かった。
しかし、優秀なだけだった。
スペルグたちが真に求めている昔日の光景は、二度と戻ってこなかった。
「さすがは我が家の家令。素晴らしい成果じゃないか」
父は家の変化を喜んだ。
我が家の影響力が増す、我が家を軽く見ている王国を見返すことができる、というのが口癖になっていた。
父の王国への不満の声は、増えていった。
そして、領民や家のことを顧みることが減っていった。
今は書類に記されたただの数字を、毎日愛おしそうに見ていた。
スペルグはこの屋敷から少しずつ『人間』が消えていくような錯覚を覚えていた。
父は日に日に暴力的になっていった。
仕事で粗相をした使用人がいれば、厳しく殴打し、すぐにクビにした。
領内で小さな犯罪があった場合、容赦なく死罪になった。
父の周りの人間は、父の意見に同意する人形だけになっていた。
例え嫡男であるスペルグであっても、意見をしただけで殺されてしまうという確信があった。
「これまでの私を見ていれば分かるでしょう? 私があなたを喜ばせるだけの甘言を言うとでも?」
その中で、家令だけは異例であった。
家令だけは正面を切って父に意見をする。
最初のほうこそ父は怒りを露わにしたが、家令の話を聞くことで、意見を変えることがあった。
たまに、父の考えに家令が賛成の意を示すだけで、父は大喜びをした。
あの家令に認められたのだ、と。
──そして、あの日。
スペルグが学園に入学する一ヶ月前のことだった。
父が広間に家族と主要な使用人を集めた。
家族で集まる時間が極端に減ったヴェルザーク家では珍しいことだった。
「今のオルテンシア王国は弱腰すぎる。今こそ我々が国の新たな盟主として国を導く時ではないか?」
父の堂々とした叛意に周囲の人間はざわめく。
家令一人だけが満足そうに頷いていた。
長年、王家に忠誠を尽くしていたヴェルザーク家。
その歴史までも否定するような発言に、スペルグは耳を疑った。
「父上、お待ちください! 我々はこれまで王家に忠誠を尽くしてきた歴史ある一族です! あなたは偉大なる先祖の皆様の顔に泥を塗る気ですか!」
妹のエルメルダが立ち上がり、父に抗議する。
それを父は不愉快そうに見ると、視線を私兵に移す。
私兵たちは腰にある剣の柄に手をかける。
父が妹を殺そうとしていることは誰の目から見ても明らかだった。
──このままでは妹が殺されてしまう。
スペルグの思考は加速する。
時間が止まったかと錯覚するように、世界がゆっくりと動く。
父の手の動きと妹の表情がゆっくりと切り替わっていく。
──俺が! 俺が何とかしなければ!
スペルグは椅子を蹴り上げんばかりの勢いで立ち上がる。
靴の音を鳴らしながら、ゆっくりと妹に近づいていく。
そして、妹の頬を左手ではたく。
突然の兄の暴挙に、エルメルダは呆然とする。
「父上の意向に背くとは何事だ! こんな妹がヴェルザーク家の末席に名を連ねているなど、恥でしかない!」
スペルグの大声に広間は静まり返る。
エルメルダは兄の形相を見て、小さな悲鳴を上げる。
ランプの灯を背景に立つスペルグの表情は、強い怒りで満ちていた。
「父上! 私も以前より同じ考えを持っておりました。王国は我が家を軽く見ている。王国が今の安寧を享受できているのは、我が家の働きがあってこそ。奴らには国を統べるに足る度量が不足しています!」
「さすがは我が息子。分かっているではないか」
スペルグは父であるヴェルザーク侯に振り返ると、同調の意を示す。
その言葉に、父は満足そうな顔で頷く。
家令は表情を変えることなく、じっとスペルグを見ている。
「エルメルダの処遇は私にお任せを。あんな若輩者でも、我らの勝利の暁には有用な駒となり得ましょう」
「分かった。エルメルダの件はお前に一任しよう」
「はっ、ありがとうございます! おい、そこのお前! エルメルダを地下の座敷牢に閉じ込めておけ! 俺も後で行く」
スペルグの声を聞き、私兵二人がエルメルダに近づくと、彼女の両脇を抱えて広間から出ていこうとする。
エルメルダは大声で叫びながら、父とスペルグを睨みつける。
やがて、扉が閉まると、広間は静けさを取り戻した。
「父上、一つ提案がございます」
「ほう、なんだ?」
「私の婚約者であるリネットの実家、ロシュモンド家についてです。かの家は穏健派で、忠誠心も高く、王族と強い繋がりを持っています」
スペルグはロシュモンド家について言及する。
──今、彼女を我が家に近づけてはならない。
スペルグは意を決し、笑顔を作って父に提案する。
「このまま繋がりを持ち続けると、我らにとって足枷になるどころか、裏切りに遭う可能性もあります。そのため、ロシュモンド家を切るためにも婚約破棄を行うのがよろしいかと」
「……なるほど、スペルグの言うことももっともだ。家令よ、ロシュモンド家への連絡を頼む」
「承知しました」
父は一瞬だけ考え込んだが、すぐに満足そうに微笑むと、家令に指示を出す。
家令はゆっくりと頷き、命令を承諾する。
スペルグは笑顔を貼り付けたまま、父の目を見る。
リネットの悲しむ顔が脳裏によぎる。
気が狂いそうなほど胸が苦しくなるが、表情には決して出さない。
これからの自分はリネットにとっての雲となる。
スペルグは、自分と同い年の王族の才媛を思い出す。
スペルグには彼女のようなカリスマも、知性も持っていない。
これが最適なこととは到底思えない。
妹を傷つけることで、妹を生かした。
そして、その妹はヴェルザーク家に敵対する立ち位置であることを知らしめた。
これで戦いに敗れても、妹は罪に問われず、ヴェルザーク家は取り潰しになる可能性を減らせる。
我が婚約者、リネット。
いつも明るい笑顔で私に話しかけ、優しい笑顔で私の話を聞く君。
彼女との婚約を破棄することで、彼女の家は反乱の疑いをかけられなくなるだろう。
ただ、彼女の名誉だけは守りたかった。
俺はどうなってもいい。
歴史に悪名を残すことなど知ったことか。
この選択が正しいことなのかも分からない。
左手に残る妹を打った感触も、喉に張り付いた嘘の感触も、まだ消えない。
それでも、自分の手が届く範囲の者は守って見せる。
今のヴェルザーク家に、誰も近づけさせない。
──俺が、家族を、ヴェルザークを守る!
「さあ、ヴェルザーク家の千年の繁栄のために、王国と袂を分かちましょう!」
ここまで読んでいただきありがとうございました。
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