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霧錆びのクローデル ~滅んだ辺境伯家の嫡男は、王立学園で王国を蝕む真実を暴く~  作者: 上止正
3章:価値の在処編

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055話 ヴィクトルとネル

「ふふ、まさかノルン様からデートのお誘いがあるなんて。ボク、とっても嬉しいです!」


 週末、ノルンはネルを連れてとある場所に向かっている。

 目的地を知っているのはノルンだけだった。

 ネルは鼻歌を口ずさみながら楽しそうについてくる。


「ノルン様、どちらに向かわれるのですか?」


「とってもドキドキする場所だよ」


「ドキドキする場所……ボク、聞いたことがあります! ドキドキを共有することで恋に落ちることがあるって!」


 ネルは妙な勘違いをして、頬をだらしなく緩めている。

 ノルンは否定しようかと思ったが、面白いからそのまま放置することにした。

 子犬のような可愛らしい様子を見ていると、ついつい意地悪したくなってしまう。


「あ、あそこだよ」


 そう言ってノルンは一軒の家を指差す。

 ノルンは家の前まで来ると、玄関の扉をノックする。

 ネルはそわそわしながら、そんなノルンを見ている。

 やがて、扉がゆっくりと開く。


「おう、来たか」


「ぴぃ……!!」


 扉から無精髭の男──ヴィクトルが酒の匂いと共に顔を覗かせてくる。

 彼の顔を見たネルは、驚きのあまり奇声を上げて、その場で固まってしまう。

 以前の実地研修の際、ある程度外部講師の情報は頭に入れて臨んでいたのだろう。

 ネルの幸福の表情は、恐怖に上書かれていく。


「ノ、ノルンさまぁ……?」


「こんにちは、ヴィクトル先生。約束通り来ましたよ。彼女はネル。内容次第では、彼女も必要かと思いまして」


 どうすればいいのか分からないネルは、縋るようにノルンを見る。

 ノルンはヴィクトルにネルのことを紹介した。

 もし、今日の用事がクラックに関することなら、ネルの存在はヴィクトルに共有したほうがいいとノルンは考えた。


「……なるほど、入れ。それにしても、ノルン……同年代の女子に様付けさせるとは、なかなかいい趣味してるな」


「その誤解は後で解かせてください……」


 そう言って、ノルンとネルは家の中に招き入れられた。



 * * *



 家の中は以前と同様、お香の良い匂いがする。

 しかし、それとは別に粘土のような、それでいて微かに甘い匂いが漂っている。

 ヴィクトルは気にした様子もなく、部屋に入っていく。


「あ、ノルンさん。いらっしゃい」


「お邪魔します、ネリネ」


 部屋からネリネの挨拶の声が聞こえる。

 ネリネは専用のテーブルに水彩紙を広げて、絵を描いている。

 微かに漂う甘い匂いは、絵の具の匂いだったようだ。


 水を含んだ筆を持ち、パレット上の青色の絵の具を選ぶ。

 彼女は迷うことなく水彩紙に筆を走らせる。

 薄青のラインが引かれ、遅れて色が滲んでいく。

 筆が水彩紙を撫でる音が心地よい。


「へぇ、凄い上手だね」


 彼女の絵は、素人目に見ても上手だった。

 淡い色彩で描かれた水彩画は、彼女が淹れるハーブティーのような爽やかさを思い出させる。

 繊細なようでいて、必要なところは大胆。

 まるで彼女自身を表しているようでもあった。


「絵を描くの、好きなの?」


「ううん。大嫌い」


 絵が趣味なのだろうと思い、ノルンはネリネに尋ねてみる。

 しかし、返ってきた答えは予想外だった。

 どう返答すればよいのかノルンが迷っていると、ネリネが申し訳なさそうに言葉を続ける。


「大嫌いなことを忘れないために絵を描いてるの」


「え、それは……」


「あはは……さて、折角いらっしゃったお客様だもの。おもてなしの準備をしなきゃ」


 ノルンはネリネの答えを聞き返そうとする。

 しかし、彼女は笑顔を見せると、打ち切るように話題を変える。

 その時のネリネの寂しそうな、そして苦しそうな笑顔がノルンの心に引っかかる。

 ヴィクトルに客の相手をするよう言い残し、彼女は奥に引っ込みお茶を淹れ始めた。


「週末にわざわざすまんな」


「いえ、構いませんよ。それで、どういったご用件でしょう?」


 ヴィクトルからの社交辞令めいた謝罪を受け入れ、ノルンは用件を確認する。

 その言葉に、ヴィクトルはネルのほうをちらっと見る。

 彼の鋭い眼光に射抜かれ、ネルは今にも泣きそうだ。

 この小娘を巻き込んでもいいのか、というヴィクトルなりの優しさではあったが、結果はネルを怯えさせることになった。


「まずはこちらから話したほうがよさそうですね」


 怯えるネルを慰めながら、ノルンは話を続ける。

 ヴィクトルはノルンの言葉を受け、小さく頷く。


「彼女は、元クラックです」


 その瞬間、部屋の中を濃密な殺意が支配する。

 肌が粟立ち、胸の奥を圧迫するような感覚がノルンに押し寄せる。

 殺意の出所であるヴィクトルは、剣呑な目つきでノルンとネルを睨みつける。

 ノルンは努めて平気な顔をするが、ネルは今にも泡を吹いて倒れそうだ。


「元クラックだと……? この小娘は信用できるのか? …………殺すか?」


「信用できないならそれでいい。ただ、僕が彼女を信じると決めた。それだけです」


 ノルンとヴィクトルの睨み合いが続く。

 ネルはノルンの服の裾をぎゅっと掴みながら、恐怖を押し殺してヴィクトルの目を見ている。

 ヴィクトルが剣を抜いて襲いかかる様子が容易に想像できる。

 部屋の中の緊張感は限界に達し、今にも破裂しそうだった。

 すると、部屋の中にお茶を持ってきたネリネが入ってくる。


「もう、話くらい聞いたらどうなの? そんなに睨んだら可哀想でしょ」


 その一言で、部屋の空気が僅かに弛緩する。

 ノルンたちの前にお茶を置くと、ネリネはネルの頭を撫でながらヴィクトルを窘める。

 彼はばつが悪そうに視線を泳がせ、言葉を詰まらせる。


「ネリネちゃん、ありがとう~。ボクのことはネルちゃんって呼んでね」


「年上の女性にちゃん付けで呼ぶのは抵抗が……はぁ、ネルちゃん、よしよし」


 ネルのうるんだ視線を見て、諦めたように頭を撫で続けるネリネ。

 その会話を聞き、完全に毒気が抜かれてしまうノルンとヴィクトル。

 とりあえず、二人は目の前に置かれたお茶を飲むことにした。


「それで、話を続けますね。彼女は実地研修時まで敵でしたが、今は味方です」


「はい、ノルン様の忠実な犬です!」


「……気にしないでください。クラックでは《泣き屋》を担当していたので、僕らの知らない組織の内部情報を知っているかもしれません」


 一呼吸置いて、ノルンは話を続ける。

 ネルがおかしなことを言うため、若干話のテンポが崩れる。

 ノルンは頭痛を我慢するように頭を押さえながら、要点だけをヴィクトルに話す。


「……聖教国について、何か聞いているか?」


「ボクは《演出家》とちょっとだけ一緒にいたけど、聖教国には行ったことがない。ただ、聖教国らしき人物から支援を受けていたのを覚えてる」


 どうやらクラックの資金源は聖教国のようだ。

 もしかしたら他にも資金源はあるのかもしれない、とノルンは考える。


「《再演屋》という人物について、どの程度知ってる?」


「会ったことはないけど、存在は知ってる。六十年以上前から聖教国にいる人だって聞いた」


「六十年以上……?」


 六十年以上、という言葉にヴィクトルが反応する。

 どうやら何か引っかかるものがあるらしい。

 ノルンはヴィクトルにその疑問を聞いてみることにした。


「ヴィクトル先生、何か気になることがあるんですか?」


「《再演屋》は見た目だけなら三十代くらいだ。年齢が合わない」


「ボク、嘘はついてないよ!」


 ネルが慌てて弁明する。

 ネルが嘘をついていないのは事実だろう。

 ただ、確かに実物と伝聞の年齢の違いは気になるところである。


「他には?」


「聖教国近くの失陥領域に拠点があるかもしれない。ただ、話の内容からの推測だけど……」


「ほう……」


 《再演屋》の拠点情報を聞き、ヴィクトルの目が怪しく光る。

 まだ推測の域は出ないが、彼にとっては十分な収穫だったようだ。


「他には特にないかな」


「なるほど、感謝する。他に思い出したことがあったら教えてほしい」


「うん」


 ヴィクトルの感謝の言葉で質問の時間は終わりを迎える。

 ネルはほっとした表情を浮かべ、目の前に出されたお茶を飲む。

 そして、「怖かった~」と傍に立っているネリネに抱き着く。

 どっちが年上なのやら、とノルンは温かい眼差しを二人に送る。


「さて、ノルン。今日呼んだ用件だが……」


 ヴィクトルがノルンに向き直ると、本日の本題に入ろうとする。

 何が飛び出てくるのかと、ノルンは緊張の面持ちで話の続きを待つ。


「お前は確か薬師志望だったよな? それなら、素材のことも色々知ってるよな?」


「ええ、まあ」


 薬師のことを聞かれるということは、薬に関することだろうか。

 ノルンはごくりと生唾を飲み込む。

 そして、ヴィクトルはゆっくりと口を開く。


「ノルン、絵の具って作れるか?」

ここまで読んでいただきありがとうございました。

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