055話 ヴィクトルとネル
「ふふ、まさかノルン様からデートのお誘いがあるなんて。ボク、とっても嬉しいです!」
週末、ノルンはネルを連れてとある場所に向かっている。
目的地を知っているのはノルンだけだった。
ネルは鼻歌を口ずさみながら楽しそうについてくる。
「ノルン様、どちらに向かわれるのですか?」
「とってもドキドキする場所だよ」
「ドキドキする場所……ボク、聞いたことがあります! ドキドキを共有することで恋に落ちることがあるって!」
ネルは妙な勘違いをして、頬をだらしなく緩めている。
ノルンは否定しようかと思ったが、面白いからそのまま放置することにした。
子犬のような可愛らしい様子を見ていると、ついつい意地悪したくなってしまう。
「あ、あそこだよ」
そう言ってノルンは一軒の家を指差す。
ノルンは家の前まで来ると、玄関の扉をノックする。
ネルはそわそわしながら、そんなノルンを見ている。
やがて、扉がゆっくりと開く。
「おう、来たか」
「ぴぃ……!!」
扉から無精髭の男──ヴィクトルが酒の匂いと共に顔を覗かせてくる。
彼の顔を見たネルは、驚きのあまり奇声を上げて、その場で固まってしまう。
以前の実地研修の際、ある程度外部講師の情報は頭に入れて臨んでいたのだろう。
ネルの幸福の表情は、恐怖に上書かれていく。
「ノ、ノルンさまぁ……?」
「こんにちは、ヴィクトル先生。約束通り来ましたよ。彼女はネル。内容次第では、彼女も必要かと思いまして」
どうすればいいのか分からないネルは、縋るようにノルンを見る。
ノルンはヴィクトルにネルのことを紹介した。
もし、今日の用事がクラックに関することなら、ネルの存在はヴィクトルに共有したほうがいいとノルンは考えた。
「……なるほど、入れ。それにしても、ノルン……同年代の女子に様付けさせるとは、なかなかいい趣味してるな」
「その誤解は後で解かせてください……」
そう言って、ノルンとネルは家の中に招き入れられた。
* * *
家の中は以前と同様、お香の良い匂いがする。
しかし、それとは別に粘土のような、それでいて微かに甘い匂いが漂っている。
ヴィクトルは気にした様子もなく、部屋に入っていく。
「あ、ノルンさん。いらっしゃい」
「お邪魔します、ネリネ」
部屋からネリネの挨拶の声が聞こえる。
ネリネは専用のテーブルに水彩紙を広げて、絵を描いている。
微かに漂う甘い匂いは、絵の具の匂いだったようだ。
水を含んだ筆を持ち、パレット上の青色の絵の具を選ぶ。
彼女は迷うことなく水彩紙に筆を走らせる。
薄青のラインが引かれ、遅れて色が滲んでいく。
筆が水彩紙を撫でる音が心地よい。
「へぇ、凄い上手だね」
彼女の絵は、素人目に見ても上手だった。
淡い色彩で描かれた水彩画は、彼女が淹れるハーブティーのような爽やかさを思い出させる。
繊細なようでいて、必要なところは大胆。
まるで彼女自身を表しているようでもあった。
「絵を描くの、好きなの?」
「ううん。大嫌い」
絵が趣味なのだろうと思い、ノルンはネリネに尋ねてみる。
しかし、返ってきた答えは予想外だった。
どう返答すればよいのかノルンが迷っていると、ネリネが申し訳なさそうに言葉を続ける。
「大嫌いなことを忘れないために絵を描いてるの」
「え、それは……」
「あはは……さて、折角いらっしゃったお客様だもの。おもてなしの準備をしなきゃ」
ノルンはネリネの答えを聞き返そうとする。
しかし、彼女は笑顔を見せると、打ち切るように話題を変える。
その時のネリネの寂しそうな、そして苦しそうな笑顔がノルンの心に引っかかる。
ヴィクトルに客の相手をするよう言い残し、彼女は奥に引っ込みお茶を淹れ始めた。
「週末にわざわざすまんな」
「いえ、構いませんよ。それで、どういったご用件でしょう?」
ヴィクトルからの社交辞令めいた謝罪を受け入れ、ノルンは用件を確認する。
その言葉に、ヴィクトルはネルのほうをちらっと見る。
彼の鋭い眼光に射抜かれ、ネルは今にも泣きそうだ。
この小娘を巻き込んでもいいのか、というヴィクトルなりの優しさではあったが、結果はネルを怯えさせることになった。
「まずはこちらから話したほうがよさそうですね」
怯えるネルを慰めながら、ノルンは話を続ける。
ヴィクトルはノルンの言葉を受け、小さく頷く。
「彼女は、元クラックです」
その瞬間、部屋の中を濃密な殺意が支配する。
肌が粟立ち、胸の奥を圧迫するような感覚がノルンに押し寄せる。
殺意の出所であるヴィクトルは、剣呑な目つきでノルンとネルを睨みつける。
ノルンは努めて平気な顔をするが、ネルは今にも泡を吹いて倒れそうだ。
「元クラックだと……? この小娘は信用できるのか? …………殺すか?」
「信用できないならそれでいい。ただ、僕が彼女を信じると決めた。それだけです」
ノルンとヴィクトルの睨み合いが続く。
ネルはノルンの服の裾をぎゅっと掴みながら、恐怖を押し殺してヴィクトルの目を見ている。
ヴィクトルが剣を抜いて襲いかかる様子が容易に想像できる。
部屋の中の緊張感は限界に達し、今にも破裂しそうだった。
すると、部屋の中にお茶を持ってきたネリネが入ってくる。
「もう、話くらい聞いたらどうなの? そんなに睨んだら可哀想でしょ」
その一言で、部屋の空気が僅かに弛緩する。
ノルンたちの前にお茶を置くと、ネリネはネルの頭を撫でながらヴィクトルを窘める。
彼はばつが悪そうに視線を泳がせ、言葉を詰まらせる。
「ネリネちゃん、ありがとう~。ボクのことはネルちゃんって呼んでね」
「年上の女性にちゃん付けで呼ぶのは抵抗が……はぁ、ネルちゃん、よしよし」
ネルのうるんだ視線を見て、諦めたように頭を撫で続けるネリネ。
その会話を聞き、完全に毒気が抜かれてしまうノルンとヴィクトル。
とりあえず、二人は目の前に置かれたお茶を飲むことにした。
「それで、話を続けますね。彼女は実地研修時まで敵でしたが、今は味方です」
「はい、ノルン様の忠実な犬です!」
「……気にしないでください。クラックでは《泣き屋》を担当していたので、僕らの知らない組織の内部情報を知っているかもしれません」
一呼吸置いて、ノルンは話を続ける。
ネルがおかしなことを言うため、若干話のテンポが崩れる。
ノルンは頭痛を我慢するように頭を押さえながら、要点だけをヴィクトルに話す。
「……聖教国について、何か聞いているか?」
「ボクは《演出家》とちょっとだけ一緒にいたけど、聖教国には行ったことがない。ただ、聖教国らしき人物から支援を受けていたのを覚えてる」
どうやらクラックの資金源は聖教国のようだ。
もしかしたら他にも資金源はあるのかもしれない、とノルンは考える。
「《再演屋》という人物について、どの程度知ってる?」
「会ったことはないけど、存在は知ってる。六十年以上前から聖教国にいる人だって聞いた」
「六十年以上……?」
六十年以上、という言葉にヴィクトルが反応する。
どうやら何か引っかかるものがあるらしい。
ノルンはヴィクトルにその疑問を聞いてみることにした。
「ヴィクトル先生、何か気になることがあるんですか?」
「《再演屋》は見た目だけなら三十代くらいだ。年齢が合わない」
「ボク、嘘はついてないよ!」
ネルが慌てて弁明する。
ネルが嘘をついていないのは事実だろう。
ただ、確かに実物と伝聞の年齢の違いは気になるところである。
「他には?」
「聖教国近くの失陥領域に拠点があるかもしれない。ただ、話の内容からの推測だけど……」
「ほう……」
《再演屋》の拠点情報を聞き、ヴィクトルの目が怪しく光る。
まだ推測の域は出ないが、彼にとっては十分な収穫だったようだ。
「他には特にないかな」
「なるほど、感謝する。他に思い出したことがあったら教えてほしい」
「うん」
ヴィクトルの感謝の言葉で質問の時間は終わりを迎える。
ネルはほっとした表情を浮かべ、目の前に出されたお茶を飲む。
そして、「怖かった~」と傍に立っているネリネに抱き着く。
どっちが年上なのやら、とノルンは温かい眼差しを二人に送る。
「さて、ノルン。今日呼んだ用件だが……」
ヴィクトルがノルンに向き直ると、本日の本題に入ろうとする。
何が飛び出てくるのかと、ノルンは緊張の面持ちで話の続きを待つ。
「お前は確か薬師志望だったよな? それなら、素材のことも色々知ってるよな?」
「ええ、まあ」
薬師のことを聞かれるということは、薬に関することだろうか。
ノルンはごくりと生唾を飲み込む。
そして、ヴィクトルはゆっくりと口を開く。
「ノルン、絵の具って作れるか?」
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