054話 夜のカラス
都市の中心部から外れた一角。
とある建物から、大勢の子どもたちの楽しげな声が聞こえる。
かつて教会だった建物は、今ではその役目を孤児院に変えている。
陽は傾き、抜けるような青さだった空は茜色に染まりつつある。
子どもたちの声に混じって、トントンとリズムよく野菜を切る音が建物内に響いている。
老婆──グレイは孤児院の子どもたちの夕飯を作っている。
今は彼女一人だが、普段はクローデルの難民たちが暇を見つけてはグレイを手伝ってくれる。
この孤児院は、クローデルの難民の善意と、グレイの私財によって成り立っている。
私財を自分のことに使わなくていいのか、と問われることも多い。
そんな問いを、老婆は決まってこう返す。
『先の短いババアなんだ。財を腐らせるのも勿体ない。好きに使わせてもらってるよ』
彼女にとって孤児院は、行き場を失った子どもたちの家でもあり、彼女自身の終の棲家でもあった。
口元に笑みを作り、子どもたちの声を聞きながら手際よく料理を作っていく。
「婆ちゃん先生、これ見て~」
厨房に入ってきた幼い少女がグレイに話しかける。
一枚の紙を両手いっぱいに広げてグレイに見せてくる。
そこには子どもらしいタッチで人や建物が描かれている。
「おやおや、上手に描けてるじゃないか。真ん中にいるのは私かい?」
「うん! まだ途中だけどちゃんと描けたよ! 描き終わったらまた見せてあげるね!」
絵を褒められた少女は嬉しそうにその場で飛び跳ねる。
そして、楽しげな様子で絵を描いていた部屋に戻っていった。
グレイは愛おしそうにその後ろ姿を眺めている。
「婆ちゃん先生、お手伝い……するよ?」
入れ替わるように別の少女が現れる。
控えめな様子で老婆に語りかける。
彼女は以前、酔っ払い二人組に絡まれていたところをノルンに助けられた少女だ。
「ありがとう、助かるよ。それじゃあ裏の井戸で手を洗って、お皿とスプーンを出してくれるかい?」
「うん」
そうして少女は手を洗うために裏手の井戸に向かっていった。
それを見送り、グレイは調理に戻る。
火にかけていたスープの味見をしていると、ドタドタと騒がしい足音が聞こえてくる。
すると、わんぱくそうな少年が満面の笑みと共に現れる。
「婆ちゃん先生! 九九の三の段言えるようになったから聞いて! さんいちがさん、さんにがろく、さざんがきゅう……」
「大したもんじゃないか。将来は学校の先生になれんじゃないか?」
得意げな様子の少年に、グレイは笑顔で称賛する。
途中でつっかえながらも、九九を諳んじる少年を微笑ましく眺める。
褒められた少年は嬉しそうに頬を緩めた。
少年はそのままグレイのもとへ近づくと、盛り付け前の料理をつまみ食いしようと手を伸ばす。
だが、それを見咎めたグレイに手を軽くはたかれ、少年はすごすごと部屋へ戻っていった。
しばらくして、手を洗ってきた少女が厨房に再び入ってくる。
少女は食器棚からスプーンを取り出すと、慣れた手つきでテーブルに並べていく。
続いて皿を取り出し、テーブルへ運ぼうとした、そのときだった。
不意に手が滑ったのか、皿は少女の手を離れ、床へと落ちていく。
ガシャン、という音とともに皿は割れ、破片があたりに飛び散る。
「大丈夫かい? 怪我は?」
「ご、ごめんなさい……」
グレイは慌てて少女に駆け寄る。
皿を割ってしまいびっくりした少女は、その場で固まる。
やがて、今にも泣きだしそうな顔でグレイに謝罪する。
「気にしなくていいんだよ。皿なんていつかは割れちまうものさ。この皿はちょっとばかしその時が早かっただけさ」
「……怒らないの?」
グレイは少女の頭を撫でながら優しく語りかける。
少女は顔を伏せたまま、上目遣いでグレイを見上げる。
「わざとやったわけじゃないんだろ? それなら怒る理由もないさ」
「……うん。でも、ごめんなさい……」
「よし、それじゃあ割れた皿の片付けをやってみようか。いい経験になるだろう? 破片で手が切れるから気をつけな」
グレイの言葉に安心した表情を見せる少女。
もう一度グレイに謝罪すると、注意しながら破片を拾い上げる。
その様子を見ながら、老婆はとある少年──ノルンに言われたことを思い出していた。
『なんで陶器の皿なんだ? 木皿を使えば割れることもないだろ?』
ノルンの言っていることはもっともだった。
しかし、それでもグレイは木皿を使わず、そこそこ値の張る陶器の皿を使っている。
それは、子どもたちに失敗の経験や、物を大事に扱うことを覚えさせるためだった。
「お片付け、できたよ?」
「よし、よくやった。それじゃあ、食事にしよう。みんなを呼んできてくれるかい?」
グレイの言葉を聞き、少女は部屋の奥へ向かう。
やがて、部屋の奥から子どもたちが次々と出てくる。
みな、グレイの顔を見ると安心したように笑顔を浮かべる。
子どもたちにとってグレイは、命の恩人であり、先生であり、祖母でもあった。
子どもたちが席に着いたのを確認すると、グレイは食事前の挨拶をしようとした。
そのとき、不意に玄関からノックの音が響く。
グレイは小さくため息をつき、子どもたちへ苦笑いを向けた。
「お客さんが来たみたいだ。あんたたち、先に食べてていいよ」
「はーい」
子どもたちが食事を始めるのを見届け、グレイは玄関へと足を運ぶ。
控えめではあるが、今もなおノックは続いている。
文句の一つでも言ってやろうと、グレイは扉を開ける。
「なんだい、こんな時間に。もう夕食の時間だよ」
「こんばんは。レディ・グレイ」
そこには深くフードを被った小柄な少女が二人立っていた。
その声に聞き覚えがあったグレイは、外の様子を確認すると、二人を静かに中に招き入れた。
「私はお客さんの相手をしてるから、あんたたちは大人しく食事してるんだよ」
子どもたちに声をかけると、グレイは二人を客間へと案内する。
フードを被った少女たちは黙ってグレイの後についていく。
二人が客間に入り、扉を閉めたことを確認すると、グレイは呆れた声で語りかける。
「それで、どのような御用ですか? 王女殿下」
「こんな時間にすみません。あなたに秘密の依頼があるのです。レディ・グレイ」
* * *
「まったく、老人使いが荒い王女様だこと」
グレイは手綱を握り、馬を駆って夜の闇を疾走する。
周囲は静寂に包まれ、響くのは馬の蹄の音だけ。
頼れる灯りは、夜空に浮かぶ月の光のみ。
それでも、彼女が握る手綱に迷いはなかった。
(やれやれ、面倒な依頼を引き受けちまったね)
フェリシエルから受けた依頼を思い返し、ため息をつく。
彼女から受けた依頼は、確かにグレイが適任だった。
腰の両側に差した二本の剣の重さを感じながら、グレイは夜道を進んでいく。
闇夜を駆け始めてから、一時間ほどが過ぎた頃だった。
不意に、馬が周囲を警戒するように耳をぴくりと動かす。
その様子を見たグレイは馬を止め、辺りを注意深く見回した。
やがて、何人もの人の気配が闇の向こうから現れた。
「なんだよ、皮と骨だけのババアかよ。出汁にすらならねぇな」
薄汚れた男たちがグレイの周りを取り囲む。
人数は十人以上。
それぞれが武器を持ち、黄色く濁った歯を見せながらニヤニヤと笑う。
「……夜盗かい。生憎と渡せるものは何もないよ」
「そんなことないさ。いい馬に乗ってるじゃないか。それに、腰の剣も上等そうだ」
グレイの呆れた声に、リーダーらしき男が応える。
グレイが乗っている馬はフェリシエルから借り受けたものだ。
傷をつけたら何を言われるか分からない。
「この馬は借り物でね。後で返さなきゃならないのさ」
「どうせこれから死ぬんだ。返すことまで考えなくていいぜ」
リーダーの言葉に同調するように、周囲の夜盗たちが笑い出す。
どうやら夜盗は生かして返すつもりはないらしい。
グレイはため息をつくと、左腰に差していた剣を抜く。
そこに銀色に輝く光はなかった。
闇に溶け込むような黒い刀身。
それをグレイは左手に持つ。
風に流された雲が月を隠し、闇の帳が降りる。
グレイはゆっくりと馬から降りる。
地面に着地した刹那、グレイの姿が影に沈むように消えた。
「なっ……! どこに消えやがった!」
夜盗のリーダーはキョロキョロと周りを見渡す。
そして、背後の仲間に探索を命じようと振り返る。
「は?」
そこには首から血を噴き出す仲間の姿があった。
おそらく、絶命したことにすら気づいていないのだろう。
呆然とした顔で立ち尽くし、やがて糸が切れたように地面に倒れ込む。
夜盗のリーダーは慌てて他の仲間に命令を出そうと視線を向ける。
しかし、その視線の先にいる仲間も、同様に首から血を噴き出している。
確かに、ほんの数秒前まで彼らは生きていた。
リーダーは弾かれたように別の仲間へと目を向ける。
だが、そこでも同じ光景が広がっていた。
やはり目に映るのは、首から血を噴き出す仲間だった。
リーダーの顔は、徐々に恐怖に染まっていく。
狂ったように周囲を見渡すが、視線の先には血を噴き出す仲間の姿しかない。
一人、また一人と、音もなく倒れていく仲間たち。
やがて、立っている夜盗はリーダーだけとなった。
「冥途の土産に覚えておきな」
耳元で、グレイの声が聞こえてくる。
グレイは夜盗のリーダーと背中合わせで立っている。
彼の首筋には黒い刃が静かに添えられている。
「夜のカラスは闇より暗いのさ」
「た、助けっ……!」
その声が途切れるのと同時に、首筋に添えられていた刃が、音もなく引き抜かれた。
やがて、月が再び顔を出す。
月の光に照らされるのは、一人の老婆の姿だけだった。
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