047話 色街
「いてて……」
頬を押さえながら、ノルンは裏通りを歩いていた。
すれ違う人は、一度は彼に振り返る。
「あんなに強く殴ることないじゃん……」
少し腫れた赤い頬。
ぼさぼさに乱れた髪。
強い力で引っ張られたような跡が残る服。
ルクレツィアとフェリシエルによる仕置きの跡である。
『ノルン、さいてー』
『女性の前ではそのような話はしないようにしてくださいね、ゴミ……失礼、ノルンさん』
ノルンが色街に行くことを宣言した後のやり取りである。
ギルドを出るとき、受付嬢は軽蔑したような視線を向けてきた。
冒険者の相手をしているから、こういった事情は慣れていると思っていたが、それとこれとは別問題なのだろう。
一人で行動するためとはいえ、女性の前ではこういった話題は避けようと、ノルンは心に固く誓った。
裏通りを進んでいくと、徐々に空気が変わってくる。
まず感じるのは音だ。
無音に近かった世界を、楽しげな人の声やリュート、笛の音が包み込んでくる。
次に匂い。
埃っぽくアルコールの匂いが漂っていた空気が、やがてお香の甘く退廃的な香りへと変わっていく。
そして、最後に色。
モノトーンに影が落ちていたような通りが、紫やピンクの怪しげな色を纏い始める。
やがて、ノルンの目の前に色街がその姿を現す。
世の男性に享楽を与える魔性の街。
されど表通りにはない独自の活気を見せる別世界。
通りの両脇に、漆喰の壁でできた店が並んでいる。
店の入り口を灯すランプは色褪せており、この色街の歴史を感じさせる。
外には大勢の男たちがふらふらと歩きながら、一夜の共を探している。
顔はだらしなく緩んでいるが、目だけは獲物を見定めるように真剣そのものだ。
店の二階部分に目をやると、着飾った美しい女性が窓枠にしなだれかかりながら気だるげに手を振っている。
屋台のようなものもあるが、そこに置かれているのは食べ物ではない。
赤、青、緑と様々な色をした効果不明な怪しげな薬が置かれている。
それを男性客が真剣な眼差しで見ている。
いわゆる勝負の一発を決めたいのだろう。
ノルンはふらふらと歩く男性たちをかき分けながら進む。
そして、とある店の前に立つと、特に気負った様子もなく店の中に入る。
店の中は暗めの照明が灯されており、甘ったるい香りがノルンの鼻腔を刺激する。
やがて、店主らしき年齢不詳の女性がノルンに気づき、声をかける。
「ようこそお越しくださいました、旦那様。……おや? ノルンさんじゃないか。ってどうしたんだいその顔?」
「あはは、ちょっと猫に引っ掛かれまして……」
「どうやら可愛らしい子猫ちゃんだったみたいね」
ノルンと女主人は顔見知りである。
より厳密にはグレイが女主人とノルンを引き合わせて以来の付き合いだ。
ノルンの様子を見て、からかい混じりの笑顔で応対してくれる。
「いつもの用事で来ました。それで、皆さんの調子はいかがですか?」
「特に変わりはないさね。ちょっと待ってな。うちの娘らを呼んでくるから」
女主人はそう言うと、店の奥に向かって大声で呼びかける。
「ほら、あんたたち! ノルンさんが来たよ!」
すると、奥からドタドタと何人もの人間が走り回る音が聞こえてくる。
やがて、着飾った女性たちが店の奥から姿を現した。
「ご無沙汰じゃない? とうとう私を買いたくなった?」
「私に会いたかったの? ノルンちゃんならいつでも抱いてあげるのに」
女性たちは口々にノルンを誘惑し始める。
だが、これはからかっているだけだということを彼は知っている。
女性たちの怒涛の勢いにノルンは押され気味である。
「皆さん、今日も薬を渡しに来ただけですから……後で、一人ずつ体の調子を教えてくださいね」
女性たちは「はーい」と口を揃えて返事をする。
そして、ノルンに抱きついたり、頬にキスをしながら各々の持ち場に戻っていく。
嵐が一瞬で過ぎ去ったことを確認し、女主人がノルンに話しかける。
「ノルンさん、いつもすまないね」
「いえ、こちらにはクローデル出身の女性が多くいますから。同じクローデル出身者としては放っておけなくて」
色街にはクローデル領の出身者が多い。
難民は仕事が得られにくいため、金を稼ぐ手段としてやむを得ず体を売ることが多い。
そういった仕事に従事していると、どうしても病気というのは多くなる。
そのため、ノルンは定期的に店を訪れて、自身の薬を卸している。
「私も離れてから随分経つとはいえ、元クローデルの人間だからね。こうやってあの娘たちを気にかけてくれる存在がいるのはありがたいことさ」
女主人は昔を思い出しているかのように遠くを見ている。
そして、独り言のようにぽつりと言葉を漏らす。
「あの娘たちを哀れに思うかい?」
「強い、と思います。仕事というものはどんな形であれ、突き詰めると人間の欲求を受け止めることになると思っています。その中でもこの仕事は、人間の欲求を直接受け止める大変なものです」
ノルンにとって仕事とは、欲望の終着点だと考えている。
何かを食べたいから、飲食店が存在する。
安心したいから、兵士の仕事がある。
苦痛を減らしたいから、薬師の仕事がある。
その欲望を満たすために、誰かがその仕事をやっている。
ただし、欲望と仕事は単純な一本の線で繋がっているわけではない。
複数の欲望が複雑に絡み合い、オブラートに包まれた形で成り立っている。
その中でも性風俗のような仕事は特殊で、欲望と仕事が一本の太い線だけで繋がっている。
他人から欲望を直接ぶつけられるということは、人間にとって強いストレスになる。
「彼女たちは他人を通して自分に価値を見出し、充足している。僕にはそれが、ただ眩しい」
そんな過酷な仕事の中で、彼女たちは自己を確立している。
他人の欲望に潰されず、自分を表現している。
それはノルンにとって尊いものだと感じられた。
「そうかい、そうかい……」
女主人は目を閉じながら、ノルンの話を静かに聞いている。
彼女がどのような思いを抱いているのか、ノルンにはその心の内を知る術はない。
「まだまだ薬師としては半人前にもなっていないですが、皆様の助けになっていれば嬉しい限りです」
「ノルンさんはちゃんと私たちの助けになっているよ。もっと自信を持ちな」
「ははは……ありがとうございます」
自信なさげなノルンに、女主人は発破をかける。
優しげな喝を入れられて、ノルンは困ったように苦笑する。
すると突然、店の外から何かが壊れる音がし、次第に騒ぎが大きくなっていく。
何事かとノルンは思ったが、女主人は至って冷静だ。
「色街ではよくある騒ぎさ。大方男同士の見栄の張り合いだろう」
「そういうものですか……」
「そうさ。さ、あの娘たちのこと、頼んだよ」
* * *
「ノルン、次は私の番かしら?」
店の女性たちが次々にノルンのもとに訪れる。
いたずらな笑みを浮かべる者もいれば、深刻そうな表情を浮かべる者もいる。
悩みというのは人それぞれ存在する。
「はい、そうですよ。体におかしなところはないですか?」
「今のところは大丈夫だわ。あ、強いて言うなら、虫を連れてくるお客さんに困ってて……」
「あー、じゃあこのお香を焚いてみてください。虫が苦手な成分が出ます」
ノルンはポーチから粉末を取り出す。
ギルドの依頼にて採取した植物を乾燥させて、粉末状にしたものだ。
この植物を燻すことで、小さな虫への殺虫効果を発揮する。
「あとは、患部がかぶれた時の軟膏。剃刀で切った時の止血用軟膏。羊の腸と無毒スライム溶液。最後に清潔な当て布。ちゃんと使い捨てにしてくださいね?」
「いつもありがとね?」
そしてノルンは必要そうなものを店の女性に渡していく。
感染症予防や避妊用として有用なものだ。
「いいんですよ。僕が渡せるのは緩和用の薬だけですから、もし体調が悪くなったら教会や治療院に行ってくださいね?」
ノルンにはまだ専門の知識がないため、治療薬は作れない。
作れるのは、症状を緩和させるための対処療法用の薬だけである。
専門的な治療となると、教会や治療院の助けが必要になる。
「ところで、最近お客さんから変わった話ってあります? 僕も商売人を目指しているので、そういった話は聞いておきたくて」
色街では、様々な噂話が聞けることがある。
こういう場所では、見栄のために男は口が軽くなることが多い。
ノルンは思考を切り替え、色街でのもう一つの目的のため、知恵を働かせることにした。
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