041話 ルール・オルテンシア
楽しげな表情のネルがノルンを煽る。
能力は凄まじいが、本人に戦闘能力があるとは思えない。
それなのに、不気味なまでの余裕を持っている。
──ガキィン!
何かが壊れたような、しかしながらとても澄んだ音が聞こえる。
ノルンは反射的に音のした方向に目を向ける。
騎士団の足元を覆っていた氷に、大きな亀裂が走っていた。
そして、ひとり、またひとりと、騎士団が氷の足枷から解放されていた。
何度も氷を殴りつけた拳からは血が滴り、折れた指があり得ない方向へ曲がっている。
足は幾度もの打撃と凍傷によって赤紫色に変色し、痛々しい姿をさらしていた。
それでも彼らの表情に苦痛はない。
あるのは、燃え上がるような正義の怒りだけだった。
「殿下! 氷魔法で再度の拘束を!」
「これ以上は彼らに致命的な後遺症を残しかねません!」
ノルンの提案はフェリシエルによって却下される。
敵を守りながら戦うという制約が、ノルンたちの行動を制限する。
ノルン、スペルグ、エリューゼの三人は、フェリシエルを守るように武器を構えた。
騎士たちが一歩踏み出す。
また一歩。
じりじりと包囲が狭まっていく。
どうするべきかを思案していたところ、森が静かにざわめき出す。
鳥たちがその場から逃げ出すように飛び立つ。
木々が恐れるように風に揺られる。
空気が困惑したように震え出す。
──何かが、近づいてくる。
騎士団もネルも空を見上げた。
一陣の風。
「ノルン!」
聞きなれた、頼もしい声が空から降ってきた。
森の妖精──ルクレツィアが森の空を舞っている。
宙を舞いながら風魔法を行使する。
巨大な風の塊が、騎士団を吹き飛ばし、木々へと叩きつける。
「ノルンから離れて!」
ルクレツィアがノルンたちの目の前に着地する。
ルクレツィアの登場にノルンの緊張は一気に弛緩する。
頼りになる相棒。
ここぞというタイミングでの登場が憎らしい。
「エルフさん、いらっしゃ~い」
ネルは嬉しそうに口元を吊り上げた。
その登場を待ちわびていたかのように。
その表情を目にした瞬間、ノルンの脳裏に警鐘が鳴り響く。
──まずい!
ノルンはルクレツィアに向かって声を張り上げる。
「レツィ! 今すぐこの場から離れて!」
「え?」
ノルンの慌てたような声に、ルクレツィアが振り返る。
そして、ノルンの顔を見て固まる。
「もう、おそ~い」
ルクレツィアは面倒見がよく、弱者を助ける。
だが、それは理性による正義、冒険者としての義務感による正義だ。
それでは、彼女の本心からの正義はなんだろうか。
それは、彼女の嫌いなものから逆算すると見えてくる。
「……ノルン?」
ルクレツィアはノルンを見つめている。
だが、その瞳が映しているのはノルンではない。
「……人間……人間……ノルン……人間」
ノルンという存在を包む「人間」という殻──ただそれだけを見つめていた。
「人間、人間、……人間!」
突如、ルクレツィアを中心に風が巻き上がる。
普段感情を見せないルクレツィアの瞳に怒りが宿る。
このままでは、取り返しのつかない事態へと発展する──そんな予感が誰の胸にもよぎった。
「レツィ、ごめん!」
ノルンはルクレツィアを気絶させるべく動き出す。
一歩踏み込み、その腹部へ渾身の一撃を叩き込もうとする。
その拳が届く寸前──
身体がまるで見えない鎖に縛られたようにぴたりと止まった。
「ノルン! 何をしてるのですか!」
フェリシエルからの檄が飛ぶ。
しかし、当のノルン本人も何が起こっているのか理解できていなかった。
その様子を見たネルは、嬉しそうに声を上げた。
「あは! 優しい優しいノルンくん。あなたの正義は女性を傷つけたくないって言ってますよ?」
ネルの言葉に歯噛みする。
フェリシエルがルクレツィアに向かって氷魔法を展開する。
しかし、それをルクレツィアは腕の一振りでかき消してしまう。
「……人間……二百年前……それだけじゃない……私たちは」
ルクレツィアは俯きながら、何事かを独り言のようにつぶやいていた。
やがて顔を上げると、凍えるような敵意を宿した瞳でノルンを睨みつける。
そして、憎しみをぶつけるように風魔法を行使する。
「十年前の冒険者による虐殺を忘れていない!」
風の刃がノルンに襲いかかる。
ノルンは反射的に身を捻り、その攻撃を躱す。
しかし、避け切ったと思った次の瞬間、右側から凄まじい圧力が迫る。
視線を向ける間もなく、見えない壁がノルンを飲み込んだ。
圧縮された空気の壁が全身を容赦なく打ち据える。
凄まじい衝撃に、ノルンの身体は宙へと弾き飛ばされた。
宙を舞うノルンに、ルクレツィアはなおも攻勢の手を緩めない。
着地を許さぬよう、ノルンを中心に激しい風が渦を巻く。
風に包まれた瞬間、重力が失われる。
身体は支えをなくし、ノルンは天地の感覚を見失ったまま、風の檻の中で無力に翻弄された。
「ノルン!」
フェリシエルがノルンを助けようと氷の魔法を展開する。
しかし、それすらもルクレツィアの風は飲み込み、氷点下の空間を作り上げる。
小さな氷の粒子はノルンと共に弄ばれることになった。
ルクレツィアは騎士団を縫い留めていた氷に目をつけると、土魔法を同時に展開して小さく砕く。
雹や霰ほどの大きさになった氷の粒を風の檻に放り込む。
氷の粒は激しくぶつかり合い、電気を帯びる。
やがて限界を超えたそれは、雷となって風の檻の中を暴れ回り、ノルンを蹂躙する。
風の刃による線の攻撃。
空気の壁による面の攻撃。
風の檻による空間の攻撃。
味方だった頃には気づかなかった。
敵に回ると、これほどまでに恐ろしい存在だったのかと、ノルンは戦慄した。
「レ……ツィ……」
風の檻から解放され、息も絶え絶えで立ち上がるノルン。
彼の目の前には、ナイフを持ったルクレツィアが静かに立っていた。
ゆっくりと近づいたかと思えば、流れるような動作でノルンの腹にナイフを突き立てる。
刃を伝い、一滴の血がゆっくりと地面へ落ちた。
ノルンは抵抗しなかった。
いや、抵抗できなかった。
時が止まったかのような静寂が訪れる。
ルクレツィアは無表情のままゆっくりと顔を上げる。
彼女は目を大きく見開くと、目の前にいる人物を認識する。
「ノル……ン……?」
ルクレツィアから声がこぼれる。
ノルンの顔を見て、次いで自身の手を見る。
そこにはノルンに刺さったナイフと、彼の血で汚れた……。
「え……? あ……ノルン……ちが、違うの……、私……、私は……!」
ルクレツィアの目が大きく見開かれる。
呼吸が激しくなり、体を震わせる。
顔から血の気が一切なくなり、今にも倒れそうになる。
血で汚れることも構わず、自身の顔を手で覆う。
「レツィ、分かってる。大丈夫だから……大丈夫だから、ね?」
ノルンは壊れ物を扱うようにルクレツィアをそっと抱き寄せる。
そして、ポーチから革袋を取り出し、それをルクレツィアの口元に当てがう。
やがてルクレツィアは眠るように気を失った。
ノルンはそっとルクレツィアを地面に寝かせると、無表情でネルを見つめる。
「ノルンくん、そんなに見つめられるとボク、照れちゃうよ~」
ネルはからかうような口調でノルンに話しかける。
ノルンは腹から血を流しながらも、ゆっくりとネルへ歩み寄る。
その表情は変わらず無機質なままだった。
しかし、その拳だけは怒りを押し殺すように強く握り締められていた。
「ノルンくん、女の子殴れないでしょ? 大丈夫?」
ネルは余裕の表情を崩さず、ノルンを煽り続ける。
そんな声など耳に入っていないかのように、無言でネルに近づくノルン。
ネルの目の前まで来ると、固く握った拳を振り上げる。
ノルンはネルをじっと見る。
そして次の瞬間、その拳はネルの横面を容赦なく打ち抜いた。
「なん、で……?」
ネルは自分の能力に絶対の自信があったのだろう。
能力によって、ノルンが女性を殴れない正義の持ち主だと分かっていた。
しかし、現実はその予想を裏切った。
地面に倒れ伏したネルは、困惑した表情でノルンを見上げる。
「は? クラックに男も女も関係ないだろ」
その一言で、ネルの表情に恐怖が宿る。
絶対に崩されることがないと信じていた城が簡単に崩されたのだ。
ネルは混乱したかのように周りに視線を巡らせる。
「誰か!」
ネルのその叫びに、意識を回復した騎士団の何名かが駆け出す。
姫を傷つけた者に裁きの鉄槌を、と怒りの表情でノルンに向かって突撃する。
しかし、その突撃は王族の一声によって止められる。
「『ルール・オルテンシア』」
「あなたたちに攻撃する権利を与える。ただし、その場で立ち止まる義務を負う」
鈴のような澄んだ声が響く。
フェリシエルは鋭い目つきで戦場を見渡す。
その一言で、ノルンは一歩も動けなくなる。
それはネルや騎士団も同じだった。
まるで彫刻のように、その場で身動き一つできなくなっていた。
「重ねて命ず。あなたたちに発言する権利を与える。ただし、真実のみを述べる義務を負う」
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