034話 握手
室内を重い沈黙が支配する。
まるで時が止まったかのように、誰も動かない。
ただ、振り子時計の奏でる音だけが、時間が進んでいることを示していた。
やがて、フェリシエルがゆっくりと口を開く。
「もし、それが本当であれば、相当面倒なことですね」
フェリシエルの言葉には、溜息が混じっていた。
ノルンは頭の中で整理した情報をもとに、自身の推測を述べようとする。
「ああ、これが情報分断を目的とした策略なら、クラックは何かを隠そうとしていたはずだ。おそらく、それは──」
「既に王国内の中枢にまでクラックが入り込んでいる可能性が高い、ということですね」
そんなノルンの言葉を、フェリシエルが引き継ぐ形で口にする。
視察そのものを秘匿するための分断工作であれば大問題だ。
視察命令書の調印には国璽が必要になる。
国璽を扱える人物──つまり、王族や大臣クラスにクラックの魔の手が伸びている可能性があるということになる。
室内は再び沈黙に包まれる。
「殿下はクラックとの邂逅で、クローデル領崩壊の元凶が彼らだと気付いていた。このことは誰かにお話しされましたか?」
「ええ、お父様──陛下にはお伝えしています。そこからすぐに調査隊が編成されました。ただ、当時の調査の焦点はクラックではなく、原因究明と国政への影響に関してでした」
グレイの質問に、フェリシエルは困ったような表情で答える。
国防の要である辺境伯領が崩壊したのだ。
国としては、クラックの捜索よりも先に、何が起きたのか、そして国家運営にどのような影響が及ぶのかを把握する必要があったのだろう。
「なるほど、その後は?」
「クラックの調査は現在も進めていますが、残念ながら成果は芳しくありません。中枢に内通者がいるのであれば、調査内容が筒抜けになっている可能性も考えられますね」
フェリシエルの指摘はもっともだった。
クラックが事前に情報を察知し、調査の網をすり抜けている可能性は十分にある。
それどころか、かく乱のために偽情報を流し、こちらを誘導していることさえ考えられた。
「こんなに後手に回るなんて、自分の無能さが嫌になります……」
フェリシエルは、普段の冷静沈着な才媛らしからぬ弱音をこぼした。
滅多に見られない彼女の様子に、エリューゼはどうしていいか分からず狼狽えている。
「王国の中枢という点について、確認したいことがある。スペルグ・ヴェルザークに関してだ」
「彼がどうしましたか?」
「入学前後で性格の大きな変化が見られるらしい。婚約に関しても破談となっているそうだ」
スペルグのことに引っ掛かりを覚えていたノルン。
今回の件とも無関係ではない気がして、その情報を共有することにした。
その情報を聞いたフェリシエルは考え込むように目を閉じた。
「なるほど、ヴェルザーク家は軍閥に強い影響力があります。もしクラックが関わっているとすれば、かなりの痛手ですね」
「ヴェルザーク家についてだが、王太子殿下が近々訪問されるという情報を手に入れている」
フェリシエルの表情は見る見る曇っていく。
──後で胃薬でも渡しておこう。
そんな呑気なことをノルンが考えていると、グレイから思わぬ情報が飛び出した。
王太子殿下、つまりフェリシエルの兄に関してだ。
「兄上が……。兄上は傑物ではありませんが、愚物でもありません。滅多なことはないと思いますが……」
「直接確認することはできないのか?」
ノルンはフェリシエルの兄に対する評価を聞き、内心で首を傾げた。
フェリシエル自身が傑出した人物だ。
その彼女が愚物ではないと評するのであれば、王太子にも相応の才覚があると思われる。
もしそうであれば、話し合いによって状況の確認ができるのでは、とノルンは考えた。
「王族というのは面倒なものなのですよ。貴族に勝手に派閥を作られ、勝手に勘繰られ、勝手に持ち上げられ、勝手に貶められる。そして何かあれば、まるで世界の終わりのように大騒ぎする。本当に、本当に面倒です……」
一般的に王族といえば華やかなイメージを抱かれがちだが、その実情は想像以上に世知辛い。
ノルンは手元の紅茶へと視線を落とした。
カップの中はなみなみと紅茶で満たされている。
しかし、ほんの少し傾けるだけで、その中身は容易にこぼれ落ちてしまう。
フェリシエルの立場もまた、それと同じなのだろう。
学園では常に余裕を崩さない彼女だが、その実、足を踏み外せばたちまち均衡が崩れかねない緊張の中に身を置いているようだった。
そんな彼女に親近感を覚えたのか、ノルンは自然と笑みを浮かべた。
「あら? 何かおかしなことでもありましたか?」
「いえ、殿下も私と同じなのだな、と思いまして」
ノルンの突拍子もない発言に、フェリシエルはぽかんと口を開けたまま固まった。
愚痴というものは、信頼した相手にこぼすものだ。
これまで多くの人に頼られてきたフェリシエルが、今は自分を頼ろうとしている。
それが妙に嬉しくて、ノルンは思わず頬を緩めた。
「コホン、情報共有もあらかた済んだことですし、二つ目の議題に移りましょう」
フェリシエルは誤魔化すように咳払いをし、話を進めようとする。
だが、その姿は虚勢を張る子猫のように映り、見ているこちらまで微笑ましくなった。
「協力関係についてです。これまでの話から、私たちは一緒に手を取り合うべきだと思いますが、いかがでしょうか?」
フェリシエルはノルンに向かって手を差し出す。
触れれば壊れてしまいそうなほど小さく華奢な手。
そこには未来に対する怯えなどなく、揺るぎない決意が宿っていた。
ノルンは腕を組み、静かに目を閉じた。
答えそのものに迷いはない。
ただ、それをどこへ落とし込むべきか、慎重に思案していた。
やがて、ノルンは静かに息を吐き、フェリシエルに提案する。
「……条件がある」
「まずはお話を伺いましょう」
フェリシエルはノルンに続きを促す。
条件を飲むかどうかは、話を聞いてから決めるようだ。
「事業を起こしたい。融資、場所と設備の提供、そしてフェリシエル王女殿下。あなたの名前を借りたい」
「おや? 随分と欲張りですね?」
「貴族連中に比べれば慎ましいものだろう?」
ノルン自身、それが無茶な要求であることは理解していた。
だが、本命はあくまで一つ。
残りについては、認めてもらえれば儲けもの──その程度に考えていた。
「事業内容は?」
「家庭用ポーションの販売を考えている。既存品よりも効果を落としたものを大量生成するつもりだ」
ポーションには、肉体の損傷や疲労、魔力を即座に回復する効果がある。
軽傷であれば、たちどころに治癒できるほどの代物だ。
だが、その需要は軍人や冒険者といった危険と隣り合わせの職業に限られている。
理由は単純──非常に高価なのだ。
ポーション一本の値段は銀貨十枚と、一般家庭の半月分の収入に相当する。
命が懸かっている場面ならともかく、普段使いできるような品ではなかった。
それをノルンは薬ではなく、清涼飲料水として売り出そうと考えていた。
いわゆる栄養ドリンクだ。
ポーションを原液として使い、疲労回復効果のある飲み物として広く売り出すつもりだった。
「融資額は?」
「金貨百枚」
「却下です」
フェリシエルには当然断られる。
元々運転資金はヴァルトモルの報奨金で賄う予定だったので、ノルンにとって融資は通れば幸い程度のものだった。
融資の相談は交渉を有利に進めるための撒き餌の役割でしかなかった。
ノルンは薬学の授業でのネルとの役割を思い出しながら、交渉を進める。
「では、金貨八十枚。王族用の予算があるだろ? それでどうにかならないか?」
「どうにかならないですね。事業計画は不透明ですし、資金の使途も明確ではありません。これでは融資は難しいですね」
フェリシエルは笑顔のまま、その提案をばっさりと切り捨てる。
ノルンはなんとか融資を引き出そうと、考える振りをする。
しかし、フェリシエルはそんな彼を一瞥すると、融資の話は終わりだと言わんばかりに、次の条件について語り始めた。
「融資は却下です。そして、設備の提供も難しいです。ですが、場所はご用意できます」
「本当か?」
「ええ、郊外に私が持つ土地があります。月に金貨一枚でお貸ししますよ?」
「どうせ遊ばせてる土地だろ? 高すぎる。管理費用込みで銀貨十枚にしてくれ」
「そんな土地とはいえ、王族の所有物です。銀貨五十枚」
「銀貨十五枚。その代わり、数年分の前払いとして金貨三枚を頭金で支払う。まとまった現金に化けるんだ、悪い話じゃないだろう? これでどうだ?」
「……まあ、いいでしょう。ただし、事業計画書の提出は必須ですよ」
交渉は成立した。
相場よりも安く話をまとめられたため、ノルンとしては満足だ。
もっとも、フェリシエルにとって重要だったのは金額そのものではなく、ノルンの交渉姿勢を見極めることだったのかもしれない。
交渉の過程そのものを楽しんでいたかのように、どこか嬉しそうな表情を浮かべていた。
「最後に、私の名前を借りたいとは?」
「事業の人員としてクローデル領民を雇いたいと考えている。だが、クローデル領民が関わっている商品を買いたいという住民は少ないのが現状だ。そこで住民たちの不安を和らげ、商品の信頼性を示すためにも、王族のお墨付きを得たい」
「なるほど」
「クローデル領崩壊により、王国内の治安悪化や雇用摩擦が発生しているだろ? その解決の一助になるはずだ」
クローデル領民が関わっているとなれば、住民は拒絶反応を起こす可能性がある。
それを軽減するために、フェリシエルの名前を使って住民感情を抑えようというのが目的だ。
王族が関わっているとなれば、表立って批判する住民も少なくなるだろう。
また、国内で抱えている問題を解決することに繋がるかもしれない。
ノルンの話を聞いたフェリシエルは、小さなおとがいに手を添え、しばし考え込んだ。
「そしてこれは殿下にとって悪い話ではないと思う。今、クローデル領民は王国に不満を持っている。そんな彼らからの支持を得ることができる。名前を貸すだけで何よりも強固な支持基盤を手に入れることができるんだ」
ノルンは畳みかけるように話し続ける。
風見鶏のような貴族たちの支持ではなく、恩義と忠誠で形作られた支持基盤が得られる。
裏切る可能性が少ない支持者は、今のフェリシエルには必要な存在だと感じられた。
「話は分かりました。名前を貸すにあたって、二つ条件があります。あなたの事業の最終品質管理と監査に私の関係者を置いてください」
やがて、考えをまとめたフェリシエルが静かに口を開く。
ノルンとしても、彼女がすんなりと名前を貸してくれるとは思っていなかったため、その反応は予想の範囲内だった。
ただ、監査権を求めてくることは想定していたものの、品質管理にまで関与しようとしてくるとは思っておらず、その点はノルンにとっても予想外だった。
「殿下もなかなか欲張りですね……」
「当然でしょう? 名前を貸すということは、何か問題が発生したときには、私に責任が及ぶのですよ?」
至極もっともな指摘だった。
だが、それでも彼女が自ら泥をかぶる覚悟を持って協力してくれていることは、ノルンにとって素直に嬉しかった。
「名義の使用料は固定額でいただきます。そして、監査費用と品質管理費用については、売上から徴収します。もっとも、流通経路まで握られないだけマシだと思ってください」
そこまで話すと、フェリシエルはゆっくりと立ち上がる。
そして、ノルンに向かって右手を差し出すと、天使とも悪魔ともつかぬ微笑みを浮かべる。
「それでは、ノルヴェイン・クローデル? 私の手を取っていただけますか?」
ノルンは大きなため息をつき、降参したかのように立ち上がる。
そして、フェリシエルの手を力強く握りしめる。
「ああ、これからよろしく。フェリシエル王女殿下」
「ええ。あなたとは末永くお付き合いをしたいものです」
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