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霧錆びのクローデル ~滅んだ辺境伯家の嫡男は、王立学園で王国を蝕む真実を暴く~  作者: 上止正
2章:正義のミカタ編

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030話 黒衣の剣士

 黒衣の男は微動だにせず、ただじっとノルンを見据えている。


 夜の闇が二人を包み込み、その表情までは窺えない。

 深くフードを被っているため、実際に視線を向けられているのかどうかも分からない。

 それでもノルンは、自分が狙われていることを疑わなかった。

 そんな確信に視覚など必要ない。

 男から放たれる肌を刺すような濃密な殺気が、何よりも雄弁に物語っていた。


(こいつが噂の辻斬りか?)


 ノルンは冷静に目の前の状況を分析する。

 黒衣の男が目の前にいる。

 闇に溶けるように、しかし確かにそこにいるという存在感を示すように。

 猫背気味に立っているため、落ちぶれた流浪の剣士のように見えるが、それが彼の臨戦態勢だと思えた。

 これ以上先に進めば男の間合いに入るだろう。


 だが、ノルンは逃げようなどとは考えていなかった。

 いや、それは正確ではない。

 背を向けた瞬間に殺される。

 そう本能が警鐘を鳴らしていた。


(なぜ、俺が狙われる……?)


 元冒険者。

 パン屋。

 商人。

 ──そして、自分。

 共通点が見つからない。


 静寂が場を支配する。

 それはせいぜい数秒程度のことだったのだろう。

 しかし、ノルンには永遠にも等しい時間に感じられた。


 知らず、体が強張っていたのだろう。

 ノルンの靴底が石畳を擦り、乾いた音が鳴った。

 ──瞬間、闇がノルンに襲い掛かってきた。


 闇を纏った男が滑るようにノルンに迫る。

 音もなく地面を這うような動きは、獲物に飛びかかる狼を思わせた。

 鈍色の刃を牙のように閃かせながら、ノルンに致命の一撃を繰り出してくる。

 ノルンは咄嗟に剣を構える。

 甲高い音が夜を裂き、暗い夜道に小さな花火が咲いた。


「ぐっ……!」


 重い。

 単純な腕力ではない。

 無駄のない体捌きと卓越した技量が、斬撃に凄まじい重さを与えているのだ。

 一合打ち合っただけで理解する。

 目の前の男は、圧倒的な格上だった。

 ノルンの背筋に冷たい汗が流れる。

 少しでも気を抜けば首が飛ぶ。

 そんな未来が容易に見えた。


 男は流れるような動きで間断なく刃を繰り出す。

 ノルンはその猛攻を、かろうじて捌き続けていた。


(魔法を使う、暇さえ……ない!)


 互いの剣が激しくぶつかり合い、火花が舞い散る。

 遠くから見れば、それはさぞ美しい光景なのだろう。

 しかし当人たちにとっては、命を削る死闘の輝きにほかならない。


 男は地面を、壁を、宙を自在に駆けながらノルンに襲い掛かる。

 すべての攻撃を躱すことができず、ノルンには小さな切り傷が増えていく。

 だが、ノルンにはそんな傷のことなど些細なことだった。

 ──息が苦しい。

 男の猛攻は文字通り、ノルンに息つく暇さえ与えなかった。


 体力を確実に削る重い一撃。

 呼吸を許さぬ猛追。

 ノルンを逃がすまいと絡みつく殺気。

 まるで水の中で戦っているかのようだった。


 やがて、男が横薙ぎの一撃を繰り出そうとする。

 ノルンはその一撃を利用し、大きく距離を取ることに成功する。

 地面に片膝をつき、荒くなった呼吸を整えながら、改めて男へ向き直る。


「……なぜ、俺を狙う?」


「…………」


 ノルンは相手に問いかける。

 男は横薙ぎを繰り出した姿勢のまま、ノルンを見据えていた。

 返答はない。

 しかし、殺気は未だノルンを捉えて離さない。


 再び、静寂が場を支配する。

 男から言葉を引き出すのは無理だと判断し、ノルンはこの場を切り抜ける方法へと思考を巡らせた。

 ──だが。


「……なぜ、お前がそれを持っている?」


 不意に男が口を開いた。

 それ、というのが何を指しているのかが分からない。

 ノルンが答えに窮していると、男はさらに言葉を紡いだ。


「そのペンダントは、クラックのものだ」


 その瞬間、強い風が吹き抜け、男のフードがめくれ上がった。

 見覚えのあるぼさぼさの髪と、無精髭。

 そして、心が擦り切れてしまったかのように澱んだ瞳。

 ──その顔を見て、ノルンは目を見開いた。


「……ヴィクトル先生?」



 * * *



 ノルンを襲った男──ヴィクトルは剣の切っ先をノルンに向け、低い声で尚も問いかける。


「答えろ。なぜお前がクラックのペンダントを持っている」


 あまりの出来事にフリーズしていた思考をフル回転させる。

 《呼び込み屋》のペンダントの確認。

 もはや問題は、ヴィクトルが辻斬りかどうかではない。


(味方か? それとも敵か?)


 仲間の持ち物をなぜ持っている、というクラックの味方側の質問。

 それを持っているお前はクラックの一員か、というクラックの敵側の質問。

 そのどちらとも取れる質問だった。


「クラックの《呼び込み屋》と遭遇した」


 質問には直接答えず、遭遇した事実だけを伝えて、ヴィクトルの出方を伺うことにした。

 それを聞いたヴィクトルは、怪訝な顔をしながらも問いを続ける。


「《呼び込み屋》は知らん。どういう関係だ?」


 どうやらヴィクトルはクラックのことを知っているが、《呼び込み屋》のことは知らないらしい。

 まだ敵か味方かの確証は取れない。

 だが、《呼び込み屋》の存在を知らないという反応は演技には見えず、ノルンの天秤はわずかに味方側へ傾いた。

 ──どうせこのまま黙っていても、殺されるだけだ。

 ノルンは覚悟を決め、一か八かの賭けに出ることにした。


「《呼び込み屋》に襲撃された。迎撃したが取り逃した。俺はクラックを追ってる」


 ノルンは端的に情報だけを伝えた。

 ヴィクトルは沈黙を保ったまま、ノルンを見据えながら話を聞いていた。

 空気が張り詰め、今にも音を立てて爆発しそうだった。

 ──そして。


「……敵じゃないのか」


 殺気が一気にほどかれる。

 ヴィクトルは大きくため息をつき、剣を鞘に納める。

 しかし、ノルンはまだ警戒を緩めない。

 確かにヴィクトルはクラックの人間ではなさそうだ。

 だが、それと辻斬り事件の犯人かどうかは別の話である。


「悪かったな。クラック側の人間かと思った」


 そう言ってヴィクトルは手を差し出してくる。

 ノルンはその手を掴まず、まっすぐにヴィクトルの目を見て尋ねる。


「クラックは俺の敵です。先生は一連の辻斬り事件の犯人ですか?」


「辻斬り? なんだそれは?」


 それを聞いて、ノルンは力が抜けるのを感じた。

 ヴァルトモルや《呼び込み屋》すら上回る濃厚な死の気配から解放され、思わず安堵のため息が漏れる。

 そして、ノルンは差し出された手を掴み、立ち上がった。


「なんで俺を襲ったんですか?」


「剣術の授業の後、お前とルクレツィア嬢がこそこそしてただろ? その時にお前がクラックのペンダントを受け取ってるのが見えてな」


 ノルンの質問にヴィクトルが答える。

 どうやら、剣術の授業後の様子を見られていたようだ。

 周囲に人の気配はなかったはずだとノルンは思ったが、ヴィクトルの実力の一端を目の当たりにすると、気配を消して近づくことなど容易いのだろうと感じられた。


「ルクレツィアにも襲撃を?」


「いや、さすがに生半可な準備じゃ、こっちがやられる可能性があるからな。先に与しやすいほうを狙わせてもらった」


 そのことを聞いて、ノルンは胸を撫で下ろした。

 ルクレツィアのことだから心配はしていなかったが、それでも無事だと知って安堵する。

 だが、彼女よりも自分のほうが容易いと言われ、ノルンは複雑な気分になった。


「クラックとはどういう関係ですか?」


「……話せば長くなる。いいか?」


 そうしてヴィクトルがクラックとの関連性を話そうとしたところ、表通りがにわかに騒がしくなる。

 どうやら騒ぎを聞きつけた何者かが衛兵に通報したのだろう。

 辻斬り事件の影響で街全体が神経質になっている以上、仕方のないことではある。

 だが、タイミングが悪かった。


「いったん、ここを離れるぞ」


「ええ、続きは授業の後にでも」


 そう言って、二人は闇夜に紛れることにした。

 その場に残ったのは、慌ただしく駆け回る衛兵たちの足音と、揺れるランタンの灯だけ。

 こうして、夜の突然の邂逅は静かに幕を閉じた。

 しかしそれは同時に、クラックへと続く新たな扉が開かれた瞬間でもあった。

ここまで読んでいただきありがとうございました。

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