003話 霧錆びの日
──これは夢だ。
ノルンはぼんやりとした意識の中で、それを悟る。
霞んでいた景色がゆっくりと輪郭を結び、モノクロームの世界に彩りが戻っていく。
くぐもっていた音が次第に澄み渡り、失われていた感覚がひとつ、またひとつと蘇っていく。
やがて世界が鮮明になっていく。
見覚えのある街並み。
見覚えのある人々。
ここはノルンの故郷──懐かしのクローデル。
街の大通りは様々な露店が立ち並び、商人の景気の良い声が響き渡る。
街を行き交う人々の顔には、笑顔があふれている。
そのはずだった。
しかし、人々からいつもの笑顔は消え、そこには恐怖と困惑だけが浮かんでいた。
少し前までは雲一つない快晴だった。
大通りには気持ちの良い風が吹き抜けていた。
しかし今は、白い霧が一面を覆っている。
これまでの世界を、これからの世界で塗りつぶすように。
「なに、これ?」
「霧?」
人々は困惑の声を上げる。
恐慌状態にこそ陥っていないが、戸惑いの波は確実に街へ広がっていた。
路地裏から、一人の男が現れた。
覚束ない足取りで大通りの中央に向けて歩き出す。
男は昼間から酒をあおり、そのまま酔った状態で夜の仕事へ向かうことで知られていた。
だからこそ、そのふらつく姿を見ても、誰もがいつものことだと思った。
「おい、あんた。なんか天気が変だ。今日くらいは家に帰って大人しくしてな」
ふらつく男に露店の店主が話しかける。
しかし、男は何の反応も示さない。
周囲の人々は不安げに二人の様子を眺めていた。
すると、男は突然苦しそうに動き出す。
まるで内側から何かが暴れているかのように、体を前後左右に激しく揺らす。
その様子を見て、声をかけた店主は慌ててその場から後ずさる。
やがて男は動きを止める。
何が起きたのか、これから何が起きるのか。
人々の視線は男へと注がれる。
男はゆっくりと顔を上げた。
瞳が赤く輝いている。
赤い瞳が、周囲の人々を舐め回すようにゆっくりと見渡した。
皮膚の色がゆっくりと濁っていき、徐々に赤黒く変色していく。
「ひっ!」
女性の小さな悲鳴が上がる。
それを合図にしたかのように、男が獣のような速さで動き出す。
瞬く間に女性との距離を縮め、そのまま首筋へ食らいつく。
女性の首から血が噴き出し、一面を支配する白い霧を犯す。
手から力が抜け、腕がだらりと垂れ下がった。
まるで一枚の絵画のような光景。
しかし、鼻を刺す鉄臭い血の匂いだけが、それが紛れもない現実であることを突きつけていた。
「う、うわああああっ!」
「魔物だあああっ!」
静寂の殻を打ち破るように、恐怖と混乱が生まれ落ちた。
人々は我先にと、この大通りを去ろうと走り出す。
そこには老いも若いも、男も女もなく、生への執念がこの場を支配していた。
「大変だ~」
どこからか、間延びした男の声が聞こえる。
覇気と緊張感に欠ける声。
しかし、その響きにはどこか楽しげな色が混じっていた。
混乱に包まれたこの場には、あまりにも似つかわしくない声だった。
「この霧に触れると魔物になるぞ~」
その声が、地獄をさらなる地獄に作り替えた。
逃げ惑う人々の中で、苦しげに胸を押さえる者が現れたかと思うと、次々とその体を変貌させていく。
そして、異形と化した者たちは周囲の人々へ襲いかかっていった。
「アハハハ! アハハハハハハハ!」
男の可笑しそうな笑い声が霧の中に響き渡る。
その声を打ち払うように、ノルンは風の魔法で周囲の霧を吹き飛ばす。
「大丈夫だ! この霧に魔物化の効果はない!」
ノルンは大声で男の声を否定する。
ノルンは『誰よりも間近で』その霧を『大量に』浴びたのだ。
そんな自分が魔物化していないのは筋が通らない。
だからこそ、ノルンは霧に魔物化の効果はないと確信している。
ノルンの声を聞いて何人かは冷静になったが、それでも混乱は霧の中でなおも伝染している。
「ガルド! ガルドはいるか!?」
ノルンは走りながら男の名前を呼んだ。
ガルド──クローデル領の自警団の長をしている男で、ノルンのことを知る人物だ。
その声で駆け付けたガルドは、ノルンの前で片膝をつく。
「ノルン様、ここに! この騒ぎは何ですか? それにこの霧は?」
「父上の代わりだ! 手短に言う! 今すぐ部隊を編成しろ! 領民の一部が魔物化! 霧に魔物化の効果はない! 領民を街の外に連れ出せ!」
許された時間は少ないと感じたノルンは、ガルドに端的に指示を伝える。
「……承知しました! 総員、集合! 避難隊を編成しろ! 領民を街の外へ誘導する!」
ガルドはノルンの指示を受け、すぐさま団員に命令を飛ばす。
それを見てノルンは、元凶を叩くためにその場を後にする。
男の笑い声が霧の中に響き渡る。
時折、魔法で霧を払いながら、ノルンは建物の屋上を駆ける。
足を進めるにつれ、笑い声は徐々に大きくなっていく。
やがて、霧の奥に黒い人影がぼんやりと浮かび上がる。
「アハハハハ……おや?」
男がいた。
手足はすらりと長く、猫背気味ではあるものの、背丈も高い。
皮と骨だけでできているかのように痩せ細り、触れれば壊れてしまいそうなほど華奢だった。
病的な肌は、白い霧の中にあってもなお青白い。
カマキリを彷彿とさせる男は、眼鏡の奥から、ノルンを不思議そうな目で見つめていた。
「おやおや~? どうしたんですか、ボクちゃん~? こんなところにいると魔物になっちゃいますよ~?」
「魔物化はお前が元凶か? ……あの男の仲間か?」
男はニヤニヤしながらノルンに話しかける。
男の小馬鹿にしたような物言いを無視し、ノルンは質問する。
「おや? リーダーに会ったんですね~。……ということは、領主の息子だったり~?」
瞬間、ノルンは自分の血が煮えたぎるのを感じた。
視界が狭まり、男の顔を射抜くように睨みつけた。
強く握り締めた拳に爪が食い込み、皮膚を破る。
拳から滴る血が、ぽたり、ぽたりと地面へ落ちた。
ノルンは拳から滴る血を振り払うように、魔法を行使する。
巨大な火炎が空中に形成され、霧を蒸発させながら焼き尽くさんと男に向かって飛んでいく。
それを男は、何でもないかのように手で振り払って掻き消す。
当然、その程度で倒せる相手ではないと踏んでいたノルンは、剣を構えると、即座に男との間合いを詰めた。
男はナイフ一本でノルンの攻撃を受け止める。
剣とナイフがぶつかり合い、火花を散らしながら鍔迫り合いとなる。
殺意を宿した形相で剣を押し込むノルン。
それに対し、男は終始ニヤついた笑みを崩そうともしなかった。
「子供にしてはなかなかやりますね~。ま、子供にしては、ですが~」
途端、ノルンから力が抜ける。
──何が起こった?
混乱するノルンをよそに、男はその腹へ容赦なく蹴りを放った。
鈍い衝撃とともに、ノルンの身体が地面へ転がる。
男は、その様子を愉快そうに見下ろしていた。
ノルンは片膝をつき、腹を抑えながら、再度魔法を行使する。
周囲の霧が無数の針へと姿を変え、一斉に男へ襲いかかった。
「お父上には全然届かない、子供なりに背伸びした水魔法ですね~」
針が男に突き刺さる──その寸前。
無数の針は一斉に水滴へと崩れ落ちる。
ノルンの魔法は、男の服を濡らしただけだった。
ノルンは何度も何度も魔法を行使する。
火、風、水、土──あらゆる属性の魔法を放つ。
しかし、そのどれもが普段の威力には遠く及ばない。
まるで、初めて魔法を習った子供のような出来だった。
呆然とするノルンをよそに、男は眼鏡を外し、付着した水滴を丁寧に拭い始める。
やがて眼鏡をかけ直すと、男は穏やかな口調で口を開いた。
「あなたはもう動けません。それと、魔物化の元凶は私か、というご質問でしたね~」
ツカツカと靴音を響かせながら、男はノルンの前まで歩み寄る。
そして、その顔を覗き込むように身をかがめると、口元に笑みを浮かべた。
「はい、ご明察~。私、クラックの《評論屋》と申します」
男──《評論屋》は踊るように自己紹介をする。
ノルンはその名を聞いた瞬間、殺気が極限まで膨れ上がった。
しかし、不思議なことに、身体にはまったく力が入らない。
「しかし、これで魔物化しないなんて、すごい意思ですね~。そんなあなたに、私からプレゼント」
《評論屋》は懐から小さな袋を取り出す。
袋を開くと、その中には黒い靄のようなものが蠢いていた。
「特別製の呪いです。あなたは間もなく他の領民とは異なる魔物になるでしょう。楽しみですね~。楽しみですね~」
そう言うと、《評論屋》は袋の入り口をノルンの胸に押し付ける。
やがて、その黒い靄はノルンの胸に吸い込まれるように消えていく。
* * *
「ッ──!」
激痛で目を覚ます。
まるで神経一本一本にやすりをかけられているかのような苦痛だった。
ノルンは歯を食いしばりながら、胸の奥へ魔力を集中させる。
体中に汗を噴き出し、顔は青白い。
まるで体そのものが作り変えられるような痛み。
自分が自分じゃなくなるような喪失感。
ノルンはあの日から、呪いに苛まれている。
体内で絶えず呪いが暴れ続けるため、魔力で常に抑え込まなければならない。
魔法を使えば、その分だけ呪いを封じる魔力が薄くなる。
だから彼は、魔法を極力使わないようにしていた。
頭の中に《評論屋》の笑い声と、領民の叫び声が残っている。
まるで無力なノルンを責め立てるように脳内にこだまする。
ノルンはそれを追い出すように、何度も何度も自分の頭を殴りつける。
決して消えることはないと分かっていても。
痛みと幻聴がいくらか和らいできたのを確認すると、常飲している痛み止めを口へ放り込む。
薬が効き始めると、ノルンは再びベッドへ潜り込んだ。
ノルンは静かに目を閉じる。
今度は幸せの過去を夢見ることを願って──。
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