025話 薬学の授業
騒がしい食事の時間が終わり、午後の授業が始まる。
運動と食事の合わせ技で眠気が押し寄せてくるが、ノルンにとっては眠ってなどいられない授業だった。
外は晴天だというのに、教室の中はどこか薄暗い。
余分な日光が差し込まないよう、カーテンが閉められているからだ。
棚には小瓶に入った液体や乾燥した植物が所狭しと置かれている。
整頓されているとは言い難いが、不思議と埃っぽさは感じない。
教室の中には薬品特有のツンとした匂いが漂っているが、不快感はなく、むしろどこか心地よさすら覚えた。
「それでは、薬学の授業を始める。本日の内容は有効成分の抽出方法についてだ」
教壇に立つ女性──ソニア・フロートが、生徒たちへ向けてそう告げた。
年齢はどれほどだろうか。
二十代にも見えるし、三十代にも見える。
整った顔立ちの美しい女性だが、その目の下には濃いクマが刻まれており、どこか疲れた印象を受ける。
しかし、それさえも彼女の不思議な魅力を際立たせていた。
「溶媒による抽出を実験形式でやってもらう。極端に言うと、成分には水に溶けやすいものと油に溶けやすいものがある。今回使用する素材から、水と油のそれぞれにどのような成分が溶け出してきたか、レポートにまとめてもらう」
ソニアは疲労のにじむ声で授業内容を説明する。
聞く者によっては面倒くさそうにも聞こえるその声だったが、狭い教室の隅々までよく響く。
そして説明を終えると、彼女は生徒たちに準備へ取り掛かるよう指示を出した。
「今回抽出する成分には高い催眠作用を持つものがある。扱いには十分注意して」
各々が実験を進める中、注意点を述べながらソニアは教室内を巡回していた。
生徒からの質問にも気だるげに応じているが、その説明は丁寧で、好感を抱かせる。
ガラスフラスコの中で溶液がコポコポと音を立てて沸騰する。
時間がゆっくりと流れるように感じられ、眠気を誘う。
昼食後の血糖値変動か、実験中の成分の催眠作用かは不明だが、何名かの生徒は夢の世界に旅立っている。
それをソニアは怒ることもなく、優しく揺すって起こしている。
「うん、君は大丈夫そうだね。よくできてる」
ノルンの実験の様子を見たソニアは、満足そうな表情を浮かべる。
話しかけられた際、ハーブのさわやかな香りが鼻腔をふわりとくすぐる。
おそらく、ソニア自身が調香した香水の香りだろう。
ノルンが褒められている様子を見て、ひとりの少女が声をかけてきた。
「ノルンくん、すごいね~。ボクはさっぱり分かんないよ~」
騎士団の姫──ネルだ。
ネルは自分の実験を放り出し、身を乗り出すようにしてノルンへ向き直っていた。
ノルン自身、学園の外で薬草や薬品を扱っているため、この程度の実験で戸惑うことはなかった。
「聞いたよ~。王女様に勧誘されてるんでしょ? すごいね~」
どうやら完全に雑談モードに入ったらしい。
実験の結果が出るまで待ち時間を要するため、ノルンも雑談に興じることにした。
それにしても、ネルは耳聡い少女らしい。
つい先ほどの出来事がもう知れ渡っていると知り、ノルンは噂の広がる速さに辟易した。
「たまたま殿下に目を付けられただけだよ。殿下は平民の意見を取り入れることが目的みたいだから、ネルさんでもいいのかもよ?」
「そうなんだ、知らなかった~。それでも、王女様に見初められたノルンくんは、さすがだよ~」
やけに甘えた声を出して、ネルはノルンに話しかける。
それに、妙にノルンとの距離が近い。
言葉の中には、女性が男を立てる相槌の型が多用されている。
彼女はこうやって自尊心の低い男子生徒を虜にしてきたのだろう、とノルンは冷静に分析する。
斜め前の席から、そんなネルの虜になった騎士団のメンバーが睨んできているが、ノルンは素知らぬ顔を決め込んだ。
「ありがとう、ネルさん。でも、あの集団の中に飛び込む勇気はないから、誰かに代わってほしいのが正直なところかな」
ノルンは努めて笑顔で応じた。
彼にとってネルのような少女は苦手なタイプである。
味方につければ多くの人脈を得られるが、敵に回せばその人脈すべてが牙を剥く。
そして、敵に回るタイミングは完全に彼女の気分ひとつに思えた。
ノルンの目には、いつ爆発するかわからない危険物のようにネルが映っている。
「代わってあげたいけど、ボクじゃ王女様のお眼鏡に適わないかもな~」
「意外と気さくな方だから、もしかしたらいけるかもよ?」
フェリシエルが気さくかどうかなど、ノルンは知らない。
適当なことを言って王女に押し付けてやろうというノルンの悪戯心だ。
ふと、ネルの実験器具に目を向けると、フラスコ内の溶液が無くなりかけていた。
「それ、冷ましてから溶媒を追加したほうがいいかもね。今のままだと、十分な結果が得られないかも」
ノルンはフラスコを指さしながらネルに注意を促した。
それを見てネルは慌てて加熱を止める。
その後、照れたような顔をしながら、ノルンに礼を述べる。
「ノルンくん、ありがとう~。ボク、こういうのはダメダメなの。ノルンくん、勉強得意だったよね? これからも色々教えてほしいな~」
「あはは、ありがとう。教えてあげたいのは山々なんだけど、得意なのは薬学だけなんだよね。薬学のことなら大丈夫だよ」
断れば悪い印象を抱かせてしまう。
しかし、引き受ければそれはそれで困ったことになる。
ノルンは妥協点として、薬学に限定した関係を提案した。
前世で知った、無理な要求で本命を通す交渉術を使われている気がするが、ノルンは深く考えないことにした。
* * *
「今日の実験結果をまとめたレポートは、週明けの夕方までに提出するように」
薬学の授業は、ソニアの声とともに終わりを迎えた。
生徒たちが続々と教室を後にする中、ノルンも荷物をまとめて立ち上がった。
「ノルン、ちょっと残ってくれ」
教室を出ようとしたところ、ソニアに呼び止められてしまった。
呼び止められた理由に見当がつかないノルンは、訝しげな表情を浮かべながらソニアのもとに向かう。
ソニアは他の生徒が教室から出たのを確認すると、気だるげに口を開く。
「ちょっと、手慣れているな。黙って薬の調合をしているだろう?」
「え? っと……何のことでしょう?」
隠し事を言い当てられ、心臓が大きく跳ねた。
とっさにとぼけてみせるが、ノルンにいつものキレはない。
そんなノルンの様子を見て、ソニアは笑いをこらえながら話す。
「別に咎めるつもりはない。かくいう私も同じことをしていたからな」
「え? そうなんですか?」
ソニアが同じ穴の狢だったと知り、ノルンは目を丸くする。
学園で教鞭を執っているからには、真面目な人かと思っていたが、やることはやっているようだ。
そんなソニアの過去を知り、ノルンは幾分か気が楽になる。
「空いているときはこの教室の設備を使ってもいい」
ソニアからの予想外の提案にノルンは思わず息を呑んだ。
ノルンにとって、願ってもない提案だった。
環境としてはよいとは言えない寮の一室と比べれば、天国と地獄のようなものだった。
「でも、勝手に使ってるのが学園にバレたら、ソニア先生の立場が悪くなりませんか?」
自分の我が儘で他人に不利益を与えてしまうことは気が咎めた。
無資格での調合は違法行為にあたるため、学園側に知られれば面倒なことになる。
ノルンはソニアの学園としての立場を考えて、彼女に問いかけた。
「この程度ならなんともないさ。なんか言われたら、『ソニア先生に言われて補習している』とでも言っておけばいい」
当のソニアは微笑みながら答える。
自分と似たような言い訳を考えていた彼女に、ノルンは親近感を覚えた。
「私が君くらいの歳だった頃、こんな環境があればよかったのにな、とよく思いながら隠れて調合していたものだよ。まあ、君には私と同じ苦労をしてほしくないという、老婆心のようなものさ」
そう過去を振り返りながら話すソニアだが、感情までは読み取れない。
彼女は何を思って薬を作っていたのだろう。
「それに、やる気のある生徒は歓迎するよ」
こうしてノルンは自由に調合できる環境を手に入れた。
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