012話 クラックの影
夜、静まり返った街を、一つの影がゆっくりと歩いていた。
その正体は、寮をこっそりと抜け出してきた黒髪の少年――ノルンだった。
遠くから聞こえる酔っ払いの喧騒を背に、彼が向かう先は老婆の住む家。
図書館での出来事を報告するためである。
老婆の家の前に到着したノルンは、静かに扉をノックする。
疲れたような老婆の声が扉の奥から聞こえてきた。
「こんな夜更けに誰だい?」
しばらくして、老婆が扉から姿を現す。
相手がノルンだと分かると、老婆は黙って家の中に招き入れた。
「それで、学園で何かあったのかい?」
老婆は声を潜めてノルンに語りかける。
家の中は静まり返っており、子供たちは夢の中で各々の物語を楽しんでいるのだろう。
子供たちを起こさないよう、ノルンも声を潜めて老婆に話し始めた。
「王女と接触した」
「何かわかったのか?」
ノルンの報告に、老婆の表情が引き締まる。
「王女は俺がクローデルだと知っていた」
「な!あんたヘマこいたんじゃないだろうね?」
ノルンの報告を聞いた老婆の顔に、隠しきれない驚愕の色が浮かんだ。
ノルンの詳細を知っている者は、老婆ただ一人のはずだった。
それにもかかわらず、報告の内容は、その前提を根底から覆すものだった。
老婆の胸中をよそに、ノルンは淡々と報告を続ける。
「あと、彼女は魔力感知系の宿痕持ちのようだ。そして俺の身体の異変についても気付いている」
「さすが王族というべきか……」
老婆は呆れたように呟く。
王族には代々、特殊な力を持つ者が多いと聞く。
その話を思い出しながら、老婆は小さく息を吐いた。
「それで、他には?」
促され、ノルンはさらに報告を続けた。
「対等かどうかは分からないが、俺と協力関係を結ぼうとしている」
「平民としてのあんたに価値はないが、クローデルとしてのあんたには価値があるからね」
「ひどい言いようだな……」
老婆の軽口に、ノルンは肩を落とした。
そして老婆は、これまでの報告を整理するように言った。
「敵として警戒しているようにも聞こえるし、味方として取り込もうとしているようにも聞こえるね」
老婆から見ても、ノルンは優秀な人材だった。
王女にとって、ノルンが味方であれば派閥の強化につながるだけでなく、有事の際の有力な駒にもなる。
逆に敵であれば、正体に気づいていることをほのめかして牽制しつつ、自らの派閥へ取り込み、監視下に置こうとしているとも考えられた。
「俺も同じ認識だ。だが、ここまで集まった情報から一つの推測が浮かび上がってきた」
そしてノルンは一呼吸置いてから、自身の考えを口にした。
「──彼女は《クラック》について知っている可能性がある」
その単語を聞いた瞬間、老婆の纏う空気が一変した。
厳しいながらも穏やかな彼女だったが、まるで別人のような冷たい威圧感を放ち始めた。
抑え込んでいた本性が垣間見えたかのようだった。
「婆さん、落ち着けって。子供たちが見たら泣き出しちゃうだろ?」
どうどう、とノルンが老婆を窘める。
老婆は険しい表情のまましばらく黙り込んでいたが、やがて深く息を吐いた。
張り詰めていた空気が少しずつ和らいでいく。
「……すまないね。老人の癇癪ほど見苦しいものはないよね」
そう言うと、老婆は自らを省みるように目を伏せた。
しばしの沈黙が流れる。
老婆は目を閉じ、何かを思い出すように眉を寄せた。
「やっと……。やっとなんだね」
「感慨に浸ってるとこ悪いけど、まだ可能性の段階だ」
老婆の感傷を遮るように、ノルンは冷静な口調で言った。
無粋な子だねぇ、と老婆はため息をつく。
「でも、もし本当に奴らの尻尾が掴めたのなら、その時はよろしく」
* * *
翌日、ノルンは眠い目をこすりながら授業を受けていた。
老婆と今後の方針について遅くまで話し合っていたからだ。
窓から差し込む暖かな日差しが、ノルンの眠気をさらに強める。
教官の話はまるで子守歌のようで、遠くのほうから聞こえてくるようだった。
ふぁ、とノルンは小さくあくびを漏らす。
そんなノルンの様子を見た教官の声が、子守歌から怒号へと変わるのに時間はかからなかった。
結局、授業の内容などほとんど頭に入らないまま、昼を迎えるのだった。
「めっちゃ怒られてたな」
午前の授業が終わり、三人は食堂の一階で昼食をとっていた。
アレンは笑いながら午前のノルンの失態をからかう。
もっとも、そのアレン自身も教官の怒号で目を覚ましたことを、ノルンは知っている。
「眠気は生理現象だから仕方ないよ」
意外にも、セリアはノルンをフォローする。
授業中に眠るなど言語道断――そんな考えの持ち主だと思っていたノルンは、少し意外に感じた。
「セリィもたまに眠そうだしな」
「すでに知っている内容だと、ついね」
意外な事実を明かすアレンに、セリアは怒ることなく同意する。
だが、先んじて学習しているのは他の貴族たちも同じなのだろうか。
そんな疑問を抱いたノルンに対し、まるで心を読んだかのようにアレンが答える。
「セリィの家は特別でな。めっちゃ厳しいんだよ。他の貴族は遊び呆けてるのにな」
「遊び呆けてるのはあなたもでしょう?」
そうしてセリアはアレンの昔の失敗談を語り出す。
やめてくれ、と懇願するアレンなど意に介さない。
やはり二人は幼馴染なのだろう。
遠慮のないやり取りから、その長い付き合いが窺えた。
そんな幼馴染二人の微笑ましいやり取りを見ていると、不意に食堂がざわつき始めた。
どうやら食事を終えた王女様御一行が食堂の二階から降りてきたようだ。
相変わらず、さまざまな学生たちが彼女の周りに群がっている。
鬱陶しくないのだろうか、とノルンは他人事のように眺めた。
ふと、一瞬だけ王女と目が合った。
しかし彼女は何事もなかったかのように視線を逸らし、再び周囲の学生たちとの談笑に戻る。
「今、王女様、俺のこと見てたよな?」
アレンは興奮した様子でノルンとセリアに問いかけた。
気のせいよ、とセリアがたしなめる。
それでもアレンの興奮は収まることを知らない。
結局、貴重な昼休みはアレンをなだめるだけで終わってしまうのだった。
* * *
放課後、ノルンは昨日と同じように図書館へ足を運んだ。
図書館は学園の喧騒が嘘のように静かで、まるで外界から切り離された空間であるかのような錯覚を覚える。
ノルンはいくつかの本を手に取り、書架の前で内容を確かめるように目を通した。
ペラリ、ペラリと紙をめくり、インクの香りを楽しみながらじっくりと吟味していく。
本を楽しんではいるものの、今日の目的は読書そのものではない。
約束をしていない待ち合わせだ。
昼間の様子から察するに、そろそろだろう──。
そうして本を選んでいると、学生たちの集団がガヤガヤと図書館へ入ってきた。
昨日と同じ、王女と取り巻きの一団だった。
お静かに、と王女がたしなめると、彼らはすぐに口を閉ざした。
そんな王女の腕には、一冊の本が抱えられている。
おそらく、借りていた本を返しに来たのだろう。
ふと視線を巡らせた王女は、書架の前に立つノルンの姿を見つける。
王女はノルンに歩み寄ると、まず謝罪の言葉を口にする。
「騒がしくしてしまって申し訳ございません」
「滅相もございません」
まるで定型句をなぞるようなやり取りを交わす。
平民であるノルンが王族に声を掛けられているため、取り巻きたちの視線は冷ややかだ。
しかし、そんな空気を気にした様子もなく、王女の視線はノルンの手にある本へと向けられた。
「あなたが手にしている本、ちょうど探していたものなんです。もし読み終わっているのなら、貸してくださらないかしら?」
「喜んでお貸しいたします」
そう言ってノルンは手に持っていた本を差し出した。
王女は柔らかな微笑みを浮かべながら、それを受け取る。
そして今度は、自分が持っていた本をノルンに差し出しながら言った。
「もしよろしければ、こちらの本をお読みになってはいかがかしら? 大変役に立つ内容でしたよ」
「お心遣いに感謝いたします。ありがたく拝読させていただきます」
ノルンは本を受け取り、王女に感謝の言葉を述べた。
その瞬間、周囲の取り巻きたちから向けられる視線に気づく。
嫉妬、羨望、怒り――さまざまな感情を煮詰めたような、重く突き刺さる視線だった。
面倒なことをしてくれた王女に、ノルンは心の中で恨み節をこぼした。
「私の用事は終わりましたので、こちらで失礼しますね」
そう言うと、王女は静かに立ち去っていった。
取り巻きの何人かからは最後まで睨まれ、ノルンは苦笑を浮かべるしかなかった。
さて――。
気持ちを切り替えたノルンは、王女から受け取った本を開く。
案の定、その中には一枚のメモが挟まれていた。
ノルンはそれを取り出し、目を通す。
そこには、こう記されていた。
『過去にクラックの一味と遭遇
森と街道にて同一系統の魔力を検出』
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