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013話 始まりは森の中

 ──ハッ、ハッ、ハッ、ハッ。


 静まり返った夜の森を、小さな人影が駆け抜けていく。

 気の強そうな、それでいてどこかあどけなさの残る少年だった。

 恐怖に顔を歪めながらも、必死に足を動かし続ける。


 湿り気を帯びた青臭い木々の香りが森を満たし、空気を重くしていた。

 その重苦しい空気は少年の体にまとわりつき、まるでこの森そのものが彼を逃がすまいとしているかのようだった。


 ──ハッ、ハッ、ハッ、ハッ。


「頑張れ! 大丈夫! 君なら必ず逃げ切れる!」


 聞こえてくる声は少年のものではない。

 甲高く歪んだ男の声。

 まるで錆びた金属同士を擦り合わせたような不快な響きが、鼓膜を震わせる。

 励ましの言葉を口にしているはずなのに、そこには温もりの欠片もない。

 むしろ、獲物を追い詰める捕食者の愉悦すら滲んでいた。

 だが、少年の近くには誰もいない。


 ──ハッ、ハッ、ハッ、ハッ。


「目の前の木を右だ! あぁ! 足元の根っこに気を付けて!」


 男の声を無視するように、少年は木々をかき分けながら前へ進む。

 身体は枝や茂みに引っかかり、擦り傷だらけだった。

 何度も足をもつれさせながら、それでも走るのをやめない。

 そして少年は、ここに至るまでの出来事を思い返していた。


 魔物退治の簡単な依頼だった。

 武器を新調したから、早く試し斬りがしたくて、いつもよりも浮き足立っていたのは確かだ。

 でも、一体どうしてこうなった。

 頼りになる先輩冒険者たちは、あの化け物から俺を逃がすため、囮となって死んだ。

 追いかけてくるあの化け物はなんだ?

 それにさっきから聞こえてくるこの声はなんだ?


 ──うるさい。

 ──うるさい、うるさい、うるさい!


「いいぞ! もうすぐだ! あの木を抜けた先に、普段見ている湖がある!」


 枝葉が顔をかすめる。

 足元の土が跳ねる。

 視界が一気に開ける。

 その先は──。


「あ、間違えた。この先は崖だったね」


 ──ハッ、ハッ……


 少年の目の前には、果てしなく深い崖が広がっていた。

 飛び降りたとしても、決して助からないと確信できるほどの高さだった。

 少年は呆然と立ち尽くし、やがて力なく膝をついた。


「あははははは! 残念! 残念! 残念だったね!」


 男の馬鹿にしたような甲高い声が、夜の森に響き渡る。

 だが、少年にとってはもはやそんなことはどうでもよかった。

 化け物の気配が、すぐそこまで迫っている。


 その時、近くの枝がガサガサと大きな音を立てて、不自然に激しく揺れ始めた。

 姿の見えない男の高笑いが聞こえる。

 それを見たのか、それとも聞きつけたのか。

 化け物は獲物を見つけた狼のように猛然と駆け出し、少年へと迫る。


 馬に乗った鎧姿の骸骨――その化け物が剣を振り下ろす姿を最後に、少年の意識は闇へと沈んだ。



 * * *



「王女のメモを信じるなら、森と街道にクラックの痕跡が見つかるかもしれないね」


 夜、再び老婆のもとを訪れたノルンは、王女から託されたメモを広げた。

 老婆はランプの明かりに紙をかざし、細めた目で内容を追っていく。

 しばらく沈黙が続く。

 ノルンは湯気の立つ茶を口に運びながら、老婆の考えがまとまるのを待った。


「それに、過去にクラックの一味と会ったというのが本当なら、改めて王女と会話する機会を設けたほうがいいね」


 やがて老婆はそう言うと、メモを机の上へ置いた。

 乾いた音が静かな室内に響く。

 さらに指先で紙の端をとんとんと叩きながら、思案を続ける。


「それは同感。あと、俺としては明日からその二ヶ所の調査を始めたい」


「効率を考えると、二手に分かれたほうがいいかもね」


 老婆の提案に、ノルンは椅子の背にもたれながら腕を組んだ。

 数秒の沈黙の後、彼は結論を口にした。


「俺は森を調べる。婆さんは街道をお願いしてもいいか?」


 そう言った瞬間、老婆の眉がぴくりと動いた。

 森は街からそう離れてはいない。

 だが調査となれば話は別だ。

 半日で済む保証はなく、下手をすれば丸一日潰れるだろう。


「私はいいけど、あんた、学園はどうするんだい?」


 じろり、と老婆が視線を向ける。

 まるで問題児を見る教師のような目だった。

 その視線を受けても、ノルンは少しも動じない。

 むしろ面白がるように口元を緩めると、いたずらっぽい笑みを浮かべて肩をすくめた。


「ズル休みは学生の特権だよ」



 * * *



 翌朝、老婆と別れたノルンは冒険者ギルドへと向かう。

 森や街道におかしなことが起きていないか、情報を集めるためだ。

 腰に剣を佩き、朝の街を歩く。


 朝の街はすでに目を覚ましており、通りには商人や職人たちの姿が見える。

 行き交う人々の声が響き、活気に満ちている。

 そんな喧騒の中でも、ひときわ賑わいを見せているのが冒険者ギルドだった。


 朝のギルドは熱気に満ちている。

 掲示板には新たに張り出された依頼書がずらりと並び、少しでも実入りの良い仕事を確保しようと冒険者たちが群がっていた。

 仲間と相談する者、依頼書を奪うように剥がす者、受付へ駆け込む者――その熱気はまるで戦場のようだ。


 ノルンはそんな光景を横目に見ながら、ゆっくりとギルドの奥へ足を進めた。


「あれ? まだ週末じゃない」


 突然の背後からの声に振り向くと、そこにはエルフの少女──ルクレツィアが立っていた。


「ルクレツィアこそ。しばらくは休暇じゃなかったっけ?」


「休暇。ここにいるのは、冒険者たちが依頼という餌に群がる様を優雅に眺めるため」


 大層な趣味を持っているようだ。

 平日に休みを取ったとき、出勤するサラリーマンたちを眺めているような気分なのだろう、と前世を持っているノルンは思った。


「ノルンは?」


「気になることがあってね。ちょっとギルドに確認を」


 そう言ってノルンはギルドの受付へと歩を進めた。

 後ろからはルクレツィアがちょこちょことついてくる。

 引率役として、新人の動向が気になるのだろう。


「あ、たしかノルンさんでしたよね。本日はどうされましたか?」


 受付に近づくと、登録手続きを担当した受付嬢がノルンに気づき、柔らかな笑みを浮かべた。


「近くの森や街道で何か変わったことが起きてないか、確認したくて」


 その言葉を聞いた瞬間、受付嬢の顔が険しいものに変わる。

 ――どうやら当たりを引いたかな。

 ノルンは内心でそう判断した。


「あ、ルクレツィアさんもいらっしゃるんですね。ちょうどいいです」


 受付嬢はノルンの背後にいるルクレツィアへ視線を向ける。

 その声色には、どこか安堵したような響きが混じっていた。

 どうやらルクレツィアを巻き込んだほうがよさそうな案件ということだ。


「実は、森に魔物討伐に行った冒険者三名がまだ戻ってきていないんです。依頼自体は半日程度で終わるものなのに」


 ノルンは先日の依頼を思い出す。

 冒険者三名が連れ立って森の中へ入っていく姿を見かけたからだ。

 ノルンはルクレツィアへ視線を向けると、ルクレツィアも分かっているのか、黙って頷き返す。

 二人の顔を見ながら受付嬢は話を続ける。


「一人は新人ですが、経験豊富な冒険者が二人ついていました。ですので、判断ミスの可能性は低いと思います。となると、想定外の出来事が起きたとしか考えられなくて」


 ここでいう想定外の出来事とは、強力な魔物が発生したというものだろう。

 高ランク冒険者であるルクレツィアを巻き込みたかった理由にも納得がいく。


「すでに依頼は出しており、何名かの冒険者が捜索に向かっていますが、お二人にも捜索をお願いします」


 ルクレツィアはともかく、新人である自分までその依頼を受けてもいいのだろうか。

 ノルンは少し困ったような表情を浮かべる。

 その表情を読み取ってか、受付嬢はノルンに語りかける。


「ルクレツィアさんから色々伺っていますので。ギルドとしては問題ないという判断です」


 ノルンはゆっくりとルクレツィアのほうを見る。

 だがルクレツィアは、ぷいと顔を背ける。

 どうやら、自分の知らないところで色々と報告されていたらしい。


「対象の冒険者が生存していた場合は保護を、死亡していた場合は、身元の確認できる遺品を回収して、ギルドへ報告してください」


 受付嬢の言葉を聞き終えると、ノルンは迷うことなく頷いた。


「分かりました。その依頼、引き受けます」


「私も」


 二人が答えると、受付嬢は安堵したように微笑んだ。


「ありがとうございます。では、お二人に捜索をお願いします」


 そうして二人はギルドを後にし、問題の森へ向かうことになった。

ここまで読んでいただきありがとうございました。

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