Trace Ⅳ
あのあと、免責を受けたラディスに代わり、私はアレンに一食抜きを申し渡していた。
素直に承諾した彼に、ラディスが自分の食事の半分を渡す姿を目にした私は、袋からもう一食分を出して、二人に分けた。
ただでさえ栄養は足りていない。注意力散漫で怪我をしたら、本末転倒だ。ラディスの反省を促せられれば、それで十分だった。
白い建物付近まで登った時には、夕陽が滲んでいた。
陽が長くなった。時刻がわからなくても、私たちは自然とその感覚を共有した。
辿り着いた白い建物は、経年劣化により古びた佇まいではあったが、損壊の形跡はひとつもない。
「なんでこの建物だけ、無事なんでしょうね」
少しばかり元気を取り戻したラディスが不思議そうに首を傾げる。誰ともなく尋ねた声に、アレンが私を見た。
「そういうこともあるんでしょう。神が守ってくださったのかもしれませんね」
私は少しばかり迷った末に、そう答えた。
一歩一歩近づいていく教会の、とある地点に踏み入れた時、何かが全身を通り抜けていく感覚がした。それは私のよく知る感覚だった。
建物を仰いでみる。来たことがあるはずのこの教会を、どうしてか思い出すことが出来なかった。
三十年以上前のことだ。そう思うと不思議ではなかったが、なんとなく釈然としない。
「何か、音が聞こえるね?」
いつしか先頭に立っていたアレンが、足を止めた。彼は一度目を閉じると、左側を指差した。
「あっちからする」
そちらには、教会の裏手へと繋がる細い道があった。
教会の扉を叩くという正攻法を選ばず、私たちは何かしらの気配を感じる裏手へと向かうことにした。
ナイフ以外ほとんど素手といってもいいアレンとラディスが、私の前を進む。
近づくにつれ明らかになってきた不規則な音は、土を掘っている音だ。
灰色っぽく黄ばんだ白い壁から、一度は首を覗かせたアレンの肩が沈んだ。彼はそのまま前に出ると、「こんにちは」と、警戒心ひとつない声を投げた。
途端、「うわっ!」といった悲鳴と、シャベルが地面に落ちる音が相次ぐ。
予期せぬ来訪者に腰を抜かしかけた男性は、忙しく首を回して私たちを認めると、すぐにシャベルを手に取り、臨戦態勢を取った。
壁際から顔だけ出して見守っていた私は、両手をあげて、害がないことを示す、アレンの隣へ立つことにした。
「お久しぶりです。レーモンド様」
彼を見た瞬間、私はこの教会のことを思い出していた。
私がここを初めて訪ねた時、まだ小さな子供だったはずの彼。どんな苦労があったのか、やせ細り、頭髪のほとんどを無くした初老の男性からは、当時の面影を垣間見ることは難しかった。
それでも口から出てきた名前は、彼のものだった。
シャベルを構えたまま、穴が空くほどこちらを凝視してきた彼は、随分長い間そうしていた。
「レーモンド様」
私がもう一度呼びかけると、おそるおそる進み出た彼は、怯えた小動物のように尋ねた。
「……私を知っておられるのですか?」
微笑むだけに留めた私を見て、彼は一度に強張った表情を和らげた。
それは、酷く激しい安堵のように見えた。
「私はリアナと申します」
アレンとラディスを続けて紹介してから、一晩この教会を宿に借りたいとの私の申し出に、彼はとても嬉しそうに了承してくれた。
初老の男性、レーモンドがシャベルを手にしていた理由は、今日の朝亡くなった子供の埋葬のためだった。
「最後の瞬間まで、私を励まし続けてくれた優しい子でした」
ほとんど洗えていない顔の酷い隈で、涙の跡を隠した彼は、今しがた埋葬した子供のことをそう語った。
教会に張り巡らされた守りの陣は、彼らを被災から守るほどには、機能を残していた。
絶滅に瀕していた魔法使いがいなくなり、聖女の残した結界を打ち砕けるものは、その後ついぞ現れなかったようだ。
教会の裏で栽培していた野菜は、世界の終わりと共に枯れ果ててしまい、彼らは保存していた食料で食いつないできた。飢えた体を抱えながら、弱い者から死んでいってしまったという。
ほんの少しだけ事情を口にしたレーモンドは、部屋の中央で沈黙し、天に召された子供たちの面影を探している風だった。
部屋には、子供たちが生きていた時の痕跡が残されてあった。
寒さを凌ぐため、みんなで身を寄せ合って眠ったのだろう毛布が、引き合わせた三台のベッドの上に、山になっていた。
奥のベッドには、黒ずみが付着している。血であることがわかった。しかし床は、他に比べて、わずかに清潔感を残していた。
広くない部屋に沈み切る前の夕陽が、静かに差し込む。
いくつかだけある人形が、主人の死を受け入れられないまま、赤く照らされていた。
「導きの神ラウスよ。小さき命を、安息神ミレアのもとへお導きください」
私はその場で膝をつき、子供たちの冥福を祈った。
祈りを終えて立ち上がると、後ろではラディスが、私と同じ祈りを捧げ、隣のアレンは直立不動のまま、静かに瞑目していた。
私たちはレーモンドについて、聖堂へ戻った。
古びた椅子が、祭壇へ向かっていくつか並んでいる。参列者を失った色とりどりのガラスは曇り果て、最後の陽を拒んでいた。
その中で、祭壇の奥に立つ新しい神の象徴だけが、空間に異様な白さを放っている。
「この神様の名前は、なんというんですか?」
不思議そうに石像を眺めていたラディスの問いに、レーモンドは数瞬沈黙してから、答えた。
「我らが偉大なる唯一神、ラーヴ様です」
石像を仰いだ彼の視線が、何かしらの意図を孕んで、こちらへ向けられた。
唯一神。私は石像を今一度、じっくり眺める。
豊穣を象徴する作物も、導きの櫂も、安息の星々や月も、そのほか、私の知っている神の象徴を、何一つ備えていない。
それ自身が唯一であると示しているような、真っ新な神だった。
陽が沈んだ。レーモンドは小さな部屋へ私たちを案内すると、どこかからか持ってきた火で、部屋に灯りをともす。そこは食堂だった。
棚の中には、役目を終えた木の皿たちが、不格好に積み重なっている。上部にはカラトリーをまとめた箱と、乾ききって使われていない布巾もあった。
レーモンドが椅子にもかけず、何か言いたげな様子で振り返った時、先にアレンが言った。
「この素敵な出会いに感謝して、今夜の食事は豪華にしないとね」
うきうきと跳ねた声は、誰の賛同も求めていない。彼はすぐさま袋から、いくつかの保存食を取り出しにかかっていた。
「そうですね」と、彼に倣った私の隣で、「アレンおじさんが、たくさん食べたいだけなんじゃないんですか?」と、ラディスが茶化すように言った。
「あれ、バレちゃった?」
「バレバレですよ。まぁ、僕も久しぶりにお腹いっぱい食べたいと思ってたところだから、大賛成ですけど」
二人は袋から取り出した缶を見て、あれでもないこれでもないと、今夜に相応しい食事を厳選し始める。
さして議論する余地もない種類の缶たちを並べて、どれを食べたいかの口論にまで発展しそうになっている。その様子を横目に、私はレーモンドに尋ねた。
「飲める水は残ってますか?」
彼は目と共に顔を伏せ、おもむろに半身を逸らした。
彼が井戸に桶を落とした時、わずかに石を叩くような音が、闇の中に響いた。
引き上げられた桶には、半分ほどしか水が入っていなかった。
「せっかくの客人をもてなすには不相応ですが、雨水なら奥にあります」
四人分には少し足りない分を私たちは雨水で補うことにし、庭に積まれた枝をいくつか拝借した。
「あの祈りを聞いたのは、久しぶりでした」
食堂に戻るとき、足を止めずに彼がごちた。私は月明かりに照らされた背を見る。
誰ともなく言ったようでもあり、私に向けられたようでもあるその言葉は、返答を求めていない。
それをわかった上で、私は答えた。
「信仰は移りゆくものです。どの神を信じるかは、その人自身に委ねられています」
一瞬、彼が足を止めかけた。苦笑なのか、嘲笑なのかわからない吐息が漂う。
「そうですね」
彼は、わかりやすい失笑と共に言った。
「神が人々を見放す瞬間も、御方に委ねられているのでしょう」
レーモンドが扉の前で足を止める。アレンと同じくらいの背丈の彼が、小さく見えた。
教会の守り人が、自身の全てを神に捧げ、救いを求めることは珍しくない。私もかつて、そうだった。
彼と私の違いといえば、自身が帰依すべき存在に、疑いを持ったか否か。それだけだろう。
聖職者としての在り方は、彼の方が正しい。今まさに身を裂かれる思いをしながらも、それすら神の意向であると、信じて疑わない。
背は、彼の代わりにそう語っていた。
木の軋む音と立てて、扉が開かれた。食卓に並べられた缶たちが、揺らめく火に鈍い輝きを放っている。
私たちの帰還に、二人は偉業を成し遂げたような笑顔を向けてきた。
どうやら、今夜の食事が決まったようだ。




