Trace Ⅲ
あの丘の先に、白い建物が見える。
目の良いラディスが、街を囲む城壁の外門を抜けて、南西の方向を指差すと、そう言った。
半分以上が焼き焦げた丘を、どれほど目を凝らしてみても、私には白い点すら見えなかった。
「絶対あれ建物ですよ」
自信満々に言った彼を信じて、私たちはそちらへ向かうことにした。
街道とは呼べない些細なものだったが、この丘を人が往復していた痕跡はあった。それを頼りに、小さな道を私たちは進んだ。
四季のなかった島とは違い、ここには春がやってこようとしていた。
炎に焼かれた地面にも、命の息吹を取り戻そうとしている植物たちの気配がある。
彼らを淘汰していた人間はいない。多くの時間をかけて、彼らは人々の遺物をひとつずつ取り込んでいくのだろう。
しばらく進んだ先で、道が途切れたが、その先にも人の踏みしめてきた一人分の軌跡が残っていた。
すでに私の目にも、白い建物が映っていた。あれは、教会だ。
その周りを囲む緑だけは、なぜか従来の姿を留めている。
草たちがくるぶしを撫でる。空気が穏やかだ。
その多く花はまだ、鰐片につぼみを守れらていた。これらが全て花咲けば、ここだけは世界の終わりとは切り離された景色になるだろう。
「ねぇ、あれみてくださいよ」
途中、ラディスが協会とはまた別の方向を指差した。そこだけ不自然に緑が歪んでいる。
「何かの塊がありますよ。あれは……、鉄かな?」
私とアレンは一瞬、目を合わせた。彼は少し首を傾げて微笑むと、そちらへ方向を変える。
「近くみたいだし、行ってみようか」
彼の了承を得たラディスは、獲物を見つけた猛獣のように、刹那駆け出した。
緑を見て懐かしいとは郷愁に駆られ、数分あとにはお腹が空いたと駄々を捏ね、さらにこうして好奇心に急かされ駆けていく彼の一日は、いつも楽しそうだ。見ていて飽きない。
「やっぱりそうでした! 早く来てくださいよー」
一分もかからずたどり着いた彼が、太陽を背にして、こちらへ手を振った。
道のようなものから完全に逸れて歩く距離は、それほど近いとは思えなかった。
ずいぶん遅れて、最後にたどり着いた私は、息を切らしながら、前で悠々と鎮座した物体を見る。
鉄の塊。ラディスの言葉は的を射ていた。
光沢のある銀色で、人工的な凹凸のある鉄の箱。
「すごいね。こんなものを、ここまでどうやって運んだんだろう」
アレンが、首を引きながら感心したように、顎に手をあてて言った。その間にもラディスは、物体を手でなぞりながら、物珍しさに興奮と感嘆の息を漏らしている。
その彼が向こう側へ回った時、一段と声を高くした。
「これ見てください! 車輪みたいなのがあるし、動くんじゃないですか?」
彼の言う通り、その物体の端には四つの車輪があった。割れて曇ったガラスの内には、椅子が二つと操作するようなものも見つかった。
飛ぶように喜んだラディスが、すぐに扉を見つけ、中に入る。彼は目につく全てに手を伸ばして、どうにか動かないか奮闘を始めた。
「ラディス。やめておきなさい」
私は制止を促した。こんな大きな鉄の塊が動くとは思えないが、もしこれが制御不可能に落ちたら、怪我ではすまない。
しかし、おもちゃを手に入れた大きな子供は、聞く耳を持たなかった。
必死になって、動力を探している彼の腕に手を伸ばした時、ぶうん、と地鳴りに似た音と共に、物体が小刻みに揺れ出した。ラディスが歓喜の声をあげる。
「動きましたよ!」
世紀最大の発明をしたような表情で、こちらを見てきた彼に、私はホッと胸を撫でおろす。
獣が唸るような音を響かせているこの物体は、馬車を馬なしで動かせるように発明された乗り物。そんな風に見えた。
これを操作出来たら、移動が楽になるかもしれない。そう思ったのも一瞬で、ふいに今立っている場所を思い出した。
ラディスの座っている方角には、なだらかな斜面。突如として危惧を覚えた時に、物体が大きく吠えた。
咄嗟に手を伸ばすことは出来ず、急速に動き始めた塊の起こす風を、頬が頬にかかった。
「ラディス!」
私とアレンの声が重なった。しかし、響いた場所は違っていた。
勢いを増し、転げ落ちていく塊を追って、首を伸ばしたところには、自分より大きなラディスを抱え、草と土まみれになったアレンがいた。
鉄の塊は、とある地点にあった岩にぶつかり、ひしゃげ、元の形をなくしていた。灰色の煙が、もうもうと昇っている。
咄嗟にラディスの腕を引っ張り、勢い余って、斜面を転げおちたアレンは、体にいくつかの打撲を負っただけで済んだ。
一方ラディスと言えば、かすり傷ひとつなく、先ほどとは一変して、自ら草の上に両膝をついていた。島で子供たちが大人に叱られるときの姿勢だった。
彼はそのまま、すとんと腰を下ろすと、顔を伏せたまま謝る。
「おじさんが助けてくれなかったら、死んでたかもしれない。ごめんなさい」
島でなら、子供を導き、行き過ぎた子供に対して罰を与える側の彼。もうそれほど大きくなった。
私はアレンに目配せした。
彼は頷くと、ラディスの前に仁王立ちになる。「ラディス」と芯のある声で呼びかける。
ラディスがそっと目だけで上を見たとき、彼は振り上げた手と共に、勢いよく体の重心を下ろした。
しかし、強く瞼を閉じたラディスを打つではなく、しゃがんだ彼は、ラディスの頭へと手を軽く置いただけだった。
「お前を止めなかった僕にも責任がある。一緒にリアナに謝ろう」
「え?」
ぽかんと口を開けたラディアの隣で、アレンは同じような姿勢を取った。
目配せで受け取ったと思われた、私の意図とはまるで違った彼の行動。
そういえば……。私はこの光景を何度か見たことがあった。思わず、大きなため息が漏れ出す。
「すっかり忘れてました。今も昔も、貴方は人に甘すぎるきらいがありましたね」
彼は仲間が何かをやらかすたびに、リーダーである自分の責任であると、共に謝っていた。
いつしか責任を肩代わりする彼に、無茶をしでかす人は減っていったので、結果としてよかったのかもしれない。だがそれは、周りに恵まれたからだった。
意気消沈のままのラディスは、ずっと隣を気にする素振りを見せている。
顔を伏せ、一点を見つめるアレンは、罪人が極刑の覚悟を決めたような顔をしていた。
私は両者を見下ろし、内心、張りつめた気持ちのまま、しかし同時に困惑もしていた。
まさか頬を打つわけにもいかない。どうしたものか。
ふいに一陣の風が、背から体を通り抜けていった。
反省の姿勢から動かない二人の向こう側には、姿を変えた鉄の塊と、それが吐き出す煙。煙は風に乗って、街へと流れていっていく。
広く穏やかな丘の中腹で、私たちは一体何をしているのだろうか?
突如こみ上げてきた笑いを堪えるため、私は口に手をあて、咳払いをひとつした。
体を緊張させてこちらを見てきたラディスに、私は言った。
「食事にしましょうか」




